月光貝のひとひら
まな板の上のうさぎ
月光貝のひとひら
月の降る夜、私は浜辺で貝を探す。
「月光貝」と呼ばれるそれは、ただの貝じゃない。亡くなった人の声が宿ると言われている。
母が逝った日、風は優しかった。なのに、私は泣けなかった。
だから、母の声を探す。あの日、ちゃんと聞けなかった最後の言葉を。
汐待町は、眠るような町だ。夜になると、海がゆっくりと息をし始める。
波打ち際に立つと、空と海が溶け合うように見えた。
「灯ちゃん、また来てたのかい」
古びた漁師小屋から声がする。渚さんだ。月光貝を知っている数少ない人。
「今夜は貝、出る気がするんです」
「そりゃ、月が綺麗だからな。……だけど忘れるなよ。声ってのは、聞けばいいもんじゃない」
渚さんの言葉は、いつも棘を包んだ優しさだった。
その夜、私は貝を拾った。真珠のように淡く光る、ひとひらの月光貝。
耳を寄せると、かすかな音がした。風の音にも似た、でも確かに「言葉」だった。
『……灯、よく聞こえてる?』
私は震えた。母の声だった。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
『あの日、あなたを守りたくて、全部……言えなかったの』
涙が頬を伝った。でも、それは悲しみじゃなかった。
言葉に触れたことで、少しだけ痛みが形になった気がした。
その翌日、町に青年が現れた。鏡――名前だけを覚えていて、記憶が空白のまま旅をしていると言う。
「声を探してるの?」
私の問いに、彼は頷いた。彼もまた、誰かの言葉に救われたくて月光貝を求めていた。
そして、ふたりは浜辺を歩き始める。貝の声を聞きながら、過去を紡ぎながら――
渚さんの言葉が、耳に残っていた。
『声ってのは、聞けばいいもんじゃない』
それは、誰よりも私が知っていたことだった。
初めて月光貝を拾った夜――母の声じゃない、誰か知らない女性の叫びが聞こえた。
『やめて、それは私の記憶じゃない』
私はうずくまり、気を失った。渚さんが見つけてくれたとき、貝は砕けていた。
それから、私は貝の声を複数聞けるようになった。ひとつの貝に、何人もの感情が宿るように感じる。
過去の怒り、後悔、願い……海が語りかけるすべてが、私の中に流れ込んでくる。
「灯、それって……大丈夫なのか?」
鏡は私を心配そうに見つめた。彼は、まだ一度しか貝の声を聞いていない。
「わからない。でも……聞こえてくるの。誰のものかも、わからないまま」
鏡は黙った。月が照らす砂の上に、貝がひとつ落ちていた。
私は手に取った。
声が、溢れた。
『彼はもう戻らない』『私の嘘が壊したの』『もしあの時手を握っていたら……』
私は泣きながら、耳を押さえた。痛みではなく、重さ。
月光貝は、ただの貝じゃない。人の言葉にならなかった思いが、形を変えて届く器なのだ。
「でもね鏡くん……私は、それでも聞きたいの」
涙の中で微笑む灯に、鏡は頷いた。
夜の海が、ひとつ、呼吸をした。
その夜、私はひとりで浜辺を歩いた。
鏡くんは、小さな宿で眠っている。彼の中にも声が届いたらしく、疲れていた。
渚さんから、古い木箱を渡された。中には、砕けた貝の欠片が並んでいた。
「昔、月光貝を聞きすぎた人がいてね。それで心を落としてしまった。 だから、灯ちゃんには、伝えておきたかった。あの声たちは、誰かの『命の余白』なんだ」
「余白」――その言葉が、私の胸に残った。
声とは、終わらないものではなく、終わった後の静けさに宿るものなのかもしれない。
私は、波打ち際に座った。月光貝をひとつ、そっと耳に当てた。
『灯、もう泣いてもいいのよ』
母の声だった。やさしく、少し笑っていた。
私は泣いた。音をたてずに。涙が砂に吸われる感触さえ、あたたかかった。
そのとき、誰かの声がかすかに重なった。
鏡くんの記憶かもしれない。「ごめん」という一言だけが、風に乗った。
私は、月光貝を渚さんに返した。
でも、ひとつだけ欠片を持って帰った。それは、砕けた小さな光。音はもうしない。でも、何かを灯していた。
帰り道、町の灯りが少しだけ眩しく見えた。
月光貝は、声の器だった。けれど今はもう、声じゃなくて、「灯り」になっていた。
そして私は、母の最後の言葉を胸に、新しい一歩を踏み出した。
月光貝のひとひら まな板の上のうさぎ @manaitanoue
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