第37話 2つの顔

 

 ヤンはリッツェルに導かれ、夜気の満ちる石畳を静かに歩いていた。

 辿り着いたのは、城の外縁にそびえる古い塔。かつて役場として用いられたが、今では封鎖されて久しい。苔むした石壁に、ひとつだけ灯火が揺れている。


 軋む扉をくぐると、螺旋階段が天へと続く。息を殺して上るたび、胸の奥の不安が膨らむ。なぜ自分が、夜のこの塔へ――。


 階上の広間に足を踏み入れると、窓辺にひとりの男が立っていた。

 月明かりに背を照らされたその姿は、どんな言葉よりも重く、冷ややかな威圧を放っている。


 レイヴィス――皇帝陛下。


 振り返る灰色の瞳が、まっすぐにヤンを射抜いた。


「申し訳ありません。途中で彼に出会ったもので、連れて参りました」


 リッツェルの声は、平静を装いつつも緊張を孕んでいる。


「ほう……お前がいて、気づかなかったのか」

「対応が遅れました」

「……であれば、この場にいる資格はあるだろう」


 レイヴィスの視線が、ヤンをじっと観察する。


「では、報告を」

「はい。やはり、公爵家の後ろ盾が弱くなった皇都では、物流に滞りがあります。特に薬の流通が不安定で、今後半年の冬支度を考えると、薬草輸入や帝国庭園の薬剤開放を検討すべきかと」

「厳密には公爵家が消えたわけではないが、影響は大きいか」

「新たに当主となるヒュバルは未だ公表されておらず、初めから全てを把握するのは難しいでしょう」

「……ならば、帰ったら各部署に調査と予算案の提出を回すように。物流を領主任せにせず、国営化するのも一案だな」

「承知しました」


 一通り話し終えると、レイヴィスは視線をヤンに向けた。


「……イオーラの側を離れ、何をしていた?」


 冷ややかな問いに、喉が乾く。


「イオーラ様の命で、皇都の様子を数日探っていました。これまでにも、帝国の実情を知るために何度か参りました。今回は先日の裁きを経て、人々の会話や暮らしを観察するようにと――」

「……それで?」


 レイヴィスの声には、冷たさと僅かな興味が混じっていた。

 隠すことはできない。ヤンは懐から帳簿を取り出し、両手で差し出す。


「皇都の者たちは、恐れながら陛下を『残酷』『冷酷』と評していました。言い回しはほぼ統一され、恐い、恐ろしいではなく、わざと『残酷』『冷酷』と言わせているようでした。この帳簿は商人のもので、差配の記録に『広告料』と何度も記されていました。噂の出所の一端かと」


 レイヴィスは帳簿を受け取り、無言でページを繰る。蝋燭の炎に照らされた瞳は、怒りも動揺もない。ただ、底の見えぬ静けさが広がっている。


「……噂は、誰かが撒いた種だな」


 低い声が石壁に響く。


「芽吹く前に摘む……リッツェル、できるな?」

「はっ」


 傍らでリッツェルが一礼する。初めからすべて承知していたかのようだ。


 ヤンは言葉を飲み込む。

 この光景は、ただの皇帝と外交官のやり取りには見えなかった。


「陛下。お許し願えますなら、ヤンに事情を話しても?」

「俺は構わんが、お前達はよいのか」

「既に姿を見られていますし、引き込んだ方が使えそうです」


 リッツェルがそう告げると、レイヴィスは興味深そうに頷いた。

 ヤンは思わず手で耳を塞ぐ。これ以上は踏み込めないと、身体が直感していた。


「諦めろ。こいつは、見た目以上に強欲だ。欲しいと思えば必ず手に入れる。まぁ……俺もいるし、イオーラに仕えるお前を害するつもりはない」


 恐る恐る手を下ろすヤン。


「さて、先程私に瓜二つの男を見たかと思いますが」

「……」

「あれは紛れもなく弟。私と弟は定期的に入れ替わっています。表向きは陛下付きの外交官としてはたらきますが、裏では国内外の情報を探り、陛下に報告する――諜報を担っています」

「……その細身の双子は、元々暗殺組織の出身だ。本来、そちらの仕事が得意だ」


 ヤンは息を呑む。

 暗殺組織――その言葉の重みが、石壁の湿気のように全身にまとわりついた。


「……暗殺者が、いま陛下の側に?」


 絞り出す声に、リッツェルは目を細める。


「畏まる必要はありません。私はもはや影ではなく、道を歩んでいる。陛下の望む場所へ辿り着くための道の一部です」


「道……」


 意味を測りかね、ヤンは黙り込む。


 レイヴィスは帳簿を閉じ、机に置いた。


「生きる場を変えただけだ。だが、牙は抜いていない。必要な時に、陛下のために使えるほうが都合がいい」


 リッツェルは肩を僅かに竦めるだけ。


「牙を隠せば腐る。必要な時だけ使えばよい――それだけのことだ」


 ヤンの背筋に冷たい汗が伝う。

 二人は主従ではなく、互いの暗部を握り合った同志のように見えた。軽々しく口を挟めば、自分も深淵に沈む――直感する。


「さて、ヤン」


 レイヴィスが再び名を呼ぶ。


「手にした帳簿。噂を撒いた者を突き止める手掛かりになる。……イオーラに見せるつもりはあるか?」

「……いえ。イオーラ様が私を遣わし得たものです。出所を知れば、彼女自身で追うでしょう。それは危険です」

「ふむ」


 レイヴィスは口端を僅かに歪める。嘲笑か、評価か――微妙な表情。


「ならば、お前はイオーラの盾か」

「はい」


 迷いなく答え、自分でも驚いた。


 リッツェルがくすりと笑う。


「思った以上に骨がある。悪くない」

「ヤン、お前をイオーラの側から引き剥がすつもりはない。ただ、時折リッツェルの手足となってもらおう。城の外だけでなく、中にも良からぬ者がいる。目を離せば、情報は失われよう」

「イオーラ様の側で見聞きしたことを伝えれば十分です。女性の近くの情報収集は、外交官である私には困難ですから」


 リッツェルが告げる。


「その際、私の素性をイオーラ様に伝えて構いません。こちらの都合で、お前をお借りする形です。ヒュバルもギュンターも、この件は承知しています」

 

 

 その後、ヤンは塔の一室を出た。そこで深く息をつく。

 胸の奥で、知らず知らずに緊張の糸が張り詰めているのを感じる。

 リッツェルとレイヴィス――二人の存在は、ただそこにいるだけで空気を変える力を持っていた。

 言葉にしなくても、互いの思考や暗部を読み取り合い、最小の動きで最大の結果を得る――まるで一種の舞踏のようだ。


 自分はその舞台の外縁に立つ観客なのか、それとも、いつの間にか舞台に引き込まれた踊り手なのか。

 考えるほどに、心臓が高鳴る。盾であり、監視者であり、報告者である――自分の立場は曖昧だが、だからこそ緊張は途切れない。


 階下に降り、古い扉を開けると、夜風が頬を撫でた。

 皇都の石畳を踏みしめるたび、月光に照らされた屋根や灯火が揺れ、人々の営みが微かに光る。

 その中に、噂の種が紛れている。誰が、何のために撒いたのか。

 目の前の帳簿は、その断片を示していたが、全貌はまだ見えない。


 自分は――ただ報告するだけでいいのだろうか。

 いや、イオーラを守るため、彼女の側で見聞きしたものを伝えること。それが、今自分にできる最善のことだ。

 噂を追う手段も、力も、まだ自分には足りない。だが、観察者であり続けることで、状況を少しでも有利に変えられるかもしれない。


 リッツェルの姿が目に浮かぶ。あの冷静な瞳と、底の見えない沈黙。

 あの男は牙を隠しているが、必要とあらば必ず振るう。

 自分が軽々しく口を挟めば、簡単に飲み込まれてしまうだろう――だからこそ、見極め、記録し、報告する。盾として、眼として、耳として。


 塔の影が長く伸びるように、思考は次第に深く、慎重に巡る。

 噂の種を摘むためには、行動の順序も、距離も、見極めねばならない。

 今はまだ夜の静寂の中。だが、光の届かぬ場所では、すでに何かが動き始めている。


 月明かりに照らされた皇都を見下ろしながら、ヤンは自分の立場を再確認した。

 盾として、報告者として、そしてイオーラの側で、微かながらも流れを変える存在として。

 深呼吸をひとつ。胸の中で決意を固める。

 どんな種が撒かれようとも、必ずその芽を見抜き、摘み取る――自分にできる限りの範囲で、必ず。

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皇女イオーラの異国宮廷譚 〜氷の帝と紡ぐ世界攻略〜 藍月希帆 @shion_isfal

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