夢 ~Keep yourself on TraiNing~
氷野 陽馬
夢 ~Keep yourself on TraiNing~
私にはMという友人がいた。幼い頃からの腐れ縁で、半年に一回ほどの頻度で会い、小さな居酒屋で酒を飲み交わすような仲だった。
私たちがまだアルコールに日々の鬱憤をぶつけられるようになって日が浅かった頃のこと。ほどよく酔いが周り、快い浮遊感で満たされたタイミングで、思い出したように彼は語り始めた。
「そうだ、W君。大層な話だが、最近人生とはなにか、ってのを考えるようになってね。ちょっと、長い話になるんだけど、聞いてほしい」
W君とは私のことだ。そこから、彼は私が思っていたよりもずっと大規模な夢想話を語り始めた。
「最近思うんだ、生きるってことは電車に乗ってるようなものなんじゃないかって。もちろん、僕らは二十年と少ししか生きていない甘ちゃんだと思うが、不完全ながら、ある程度あてはまるんじゃないかなと思っていろいろ想像して見たんだ。少し、どこがどう似てるのか、説明したいと思う。
まずは、生まれの違いだ。これは、『どの電車に乗るのか、もしくは、良くも悪くも電車に乗れるのか』に似ていると思う。ある程度の範囲ー明確な範囲は僕おそらく誰にも定義できないものだろうーを超えると、そもそも電車に乗るという尺度で測ることは困難になる。例えば、超がつくような金持ちの家に生まれた場合。順当に行けば、その子は他の子には覆せないほどの様々なアドバンテージを得て、最初から成功が約束されたような人生を歩むことになるのだろう。こういった人達は、飛行機やヘリコプター、ジェット機に乗っているようなものだ。逆に、極貧家庭に生まれた子供は、非行に走ったり、親や周囲に利用されて悲劇的な末路を辿ったり、幼くして命を落としたり、生まれることすら叶わずにいなかったものとして扱われることもある。このとうな人達は、自動車や自転車、徒歩(もちろんこれらには電車に勝る点もあることは否定しない。ここでは、単なるこれらの走力に着目していただきたい)が手段であるようなものだ。
少し話が道にそれるが、こういった人達は、どのような形態の社会であれ一定数存在するだろう。また、上位層の人々は往々にして常に少数であろうが、下位層の人々の割合は、様々な要因によって大きく変動しうるだろう。この割合をできるだけ減らすよう尽力するのが、政治の、もっと言えば社会全体の適切なあり方のはずだ。
そして、どのような電車に乗るのか。一言で電車と行っても、ピンからキリまで色々なものがある。新幹線のグリーン車から誰も使わないような赤字路線みたいにね。
さて、僕らは電車に乗れる身に生まれたとしよう。幼児のときは、絶大な親の庇護の下で、言葉や危険な行動を最低限だけ学ぶ。これは、最寄り駅のホームで電車を待つことに似ているように思う。
そして、小学校、中学校、高等学校、大学への進学とは、即ち一旦電車を降りて次の列車が来ることを待つことだと言えるのであり、そこでの学校生活とは、同じ電車の乗り合わせた人と、同じ時間を過ごすことではないか、と僕は思った。いわゆる「クラス」とは、ある基準(年齢、住む地域、学力など)を元に集められた、赤の他人どうしで構成されるものだからだ。そこで空間を共有する他人と自分の距離は、ある程度までしかコントロールできず、共同作業を強いられることもしばしばある。
これだけでは説明できないような現象はいくつか挙げられるが、これに対しても、僕が捻り出した答えは用意してある。
まずは、受験だ。高校や大学、さらには一部の中学には、受験競争という厳しい勝負の世界がたしかに存在する。これに対しては、降車駅に到着する直前に、路線変更機があると考えてみよう。受験を行わない場合、変更機はある一方にしか定まらない。受験を行う場合には、自身の望む方向/そうでない方向というふたつの選択肢が存在し、自分の力で(あるいは時の運で)、自身の望む未来を実現することができる。では、その勝敗に関わらず、到着した先の駅はどのようなものであるか。僕は、この駅を「自身の持つ権利を行使できる場」と捉えてみてはどうか、と考えた。(電車に乗れる身として生まれた多くの)子供には、就職するまでは、受験の結果によらず、ある程度安定した未来が確約されている。
例えば、中学受験や高校受験に落ちても、どこの学校にも行けず仕方なく働き始める、といった事例は考えにくいだろう。
2個目の腑に落ちない現象にも注目してみる。その現象とは、「学校で出会う人々」は、「同じ電車に乗っている」にも関わらず、「それぞれが乗る電車は異なる」という矛盾だ。これはちょっと説明が難しい。
これに対する僕の考えを端的に言うと、この矛盾は、互いの認識世界が異なるから生まれる、というものだ。例えば、今君が、一般家庭出身の一人の中学生で、クラスメイトの一人、A君は、若干の裕福家庭ということにしよう。
君と、A君は、同じ車両に乗っている。しかし、ここでの車両とは、「君の生まれを反映した車両」であり、ともに居る彼は、「君が思う人物像が存在するように見える、正しいとも間違いとも言えない虚構」である。
君と共に電車に乗っているA君は、「君が思うA君像」に過ぎない。どれほど親密な関係であっても、他人の「本当の姿」を知りうることは決してない。もちろん、自分の「本当の姿」さえも、生涯認識することはできないだろう。
同じように、A君の視点では、君よりも多少豪華な車両を背景に、君が思うより活発な君の姿が見えるかもしれない。
さらにいえば、この像は流動性を持つ。A君がポイ捨てをしていれば君のA君へのイメージは悪化するだろうし、逆に、君の何気ない行動が、A君が持つ君の印象を変化させるかもしれない。
総括すると、学校生活についてもう少し深く言及するなら、学校生活とは、自身の生まれを背景に、「他者の流動的な虚像」と共に同じ時間を過ごすことではないかと言えるだろう。
ここまでが生まれと成長期。あとは社会人生活と、退職後の生活……と続く訳だが、あいにく僕らはまだそれ自体も、それに準ずるような状況も体験したことはない。そんな中でとやかく論理をこねくり回しても一蹴されるだけだろうから、おそらくあるであろう、社会生活と学校生活との違いを一つ言っておきたい。
その違いとは、「上下関係の厳しさ」だ。学校生活でも、教師と生徒、教師同士、部活での生徒同士などと言った場合で、上下関係が成り立つものの、会社に務めた場合のそれとは比べ物にならないのではないか、と考える。これはどう考えても、電車で例えることは不可能だった。この点においては、電車と人生は互いに相容れない存在となっている。「乗れる人ならどんな人でも等しく扱う」電車と、「立場上どうにもならない上下関係が存在する」会社に勤めることは、本質的に矛盾しているからだ。
最後に、これは人生全体と電車の最も異なる点だが、電車とは、到着地を目指して乗車するものだが、この例えにおける「電車」は、一般的には、「到着地が分からないもの」となっている。そして、ここでの到着地とは、「自身の夢」ではないかと僕は思う。もちろん、夢は変わりやすく、確固としたものは見つけにくいのに対し、到着地は、1度定まればほとんどの場合について固定される。しかし、夢を持っている状態での、「目的に向かって進む」という心境という点では、この2つは一致している。そういう意味では、夢を持たない状態の人生とはただ闇雲に電車に乗っているようなものと考えられるから、それがいかに人生にとってマイナスかということを示してくれるとも思っている。
とまあ、長く語った訳だが、これで僕の話は終わりになる。これを聞いたからと言って何かが劇的にかわるなんでことはない、ただの戯言だから、くれぐれも本気にしないでおいてくれ。」
私がこれを書き出したのは、片付けの最中に、あの日私が寝る前に枕元でB5サイズのノートの走り書きが見つかったからだ。
そこには、
『人=電車』
と小さくメモされていた。
夢 ~Keep yourself on TraiNing~ 氷野 陽馬 @JckdeIke1122
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