ハイキング

青月 日日

ハイキング

     高原のハイキングコース入口


 空は、一滴の水を磨いたような青。

 陽が昇り、遠くの稜線に光が射す。

 風が草原を斜めに撫で、丘を流れ、舗装路に至る。


 隣で、昔聞いた鈴の音がした気がした。


 アスファルトは冷えたまま、落ち葉が乾いて転がる。

 その脇のツタに朝露がひとつ。

 露は動かず、世界を逆さに抱えこんでいる。

 木々の葉が透け、裏側の繊毛が風にきらめく。

 その一枚の葉が、静かに朝の光を震わせていた。


 格子の隙間に手をかざすと、沈んだ冷気がじっとりと皮膚の奥へ染み込んできた。



     林道


 葉と枝が青空を薄く覆い、光の層を編んでいる。

 ゆるく汗ばんだ手が、草を掠める。

 木々の隙間から斜めの光が差し、林道に帯となって浮かぶ。

 その光の中を、無数の蟻たちが歩いていく。

 黒い細身の身体が、まっすぐ、迷わず。

 すれ違う蟻と触角を交わし、またそれぞれの道へ。

 まだらの陽だまりの中、光と闇の境界を、静かに、確かに縫っていく。


 裂け目に指を差し入れると、湿り気を帯びた木片がぬるりと皮膚に吸いつき、離れようとしなかった。



     湿地帯・木製の遊歩道


 林を抜けると、湿地帯が開ける。

 足元の板に、身体の重みがしずかに沈む。

 板張りの道は、灰色に乾きながらも、端に露を残し、光を跳ね返す。

 手すりはざらりとした木肌で、陽にあたって温かく鈍く光る。

 その外、風に反応するように、草たちが一斉にしなやかに揺れる。

 光を受けた葉先がちらちらと瞬く、

 湿地は、ひととき、波のように、静かに躍動していた。


 手すりからそっと指先を垂らすと、水に沈んだ葉の層が、ひんやりと肌を包み、ふわりとほどけた。



     渓流


 森の底、雪解けの水が流れる。

 水音は石を撫で、光が水面を砕いて揺れる。

 底の小石が歪み、そこに光がたまる。

 岩のかげにヤマメがひとつ。

 銀の体を水に溶かし、微かなひれの動きで流れに逆らい、留まり続ける。

 突如、尾をひと振り。

 水を跳ねさせず、影のように、岩の奥へと消えていった。


 岩陰にそっと指を伸ばすと、冷たく重たい脈が水越しに触れ、ゆっくりとこちらの鼓動を呑みこんできた。



     崖


 空はまっすぐに抜けて、雲ひとつない深い青。

 陽を受けた白い岩肌が、垂直にそびえて光を反射する。

 その前を、二匹のシジミ蝶が舞う。


 不意に、喉の奥が詰まる。


 光を味方にした羽が、音もなく火のように瞬きながら交差し、

 ひとつになりそうで、すぐに離れる。

 その舞いは、崖に浮かぶ一瞬の音符のようだった。


 割れた岩に指先を這わせると、ざらつく表面の奥で、硬くて冷たいものが、微かに息づいていた。



     展望台


 尾根が幾重にも波打ち、谷底には白い川。

 風が抜け、森の葉が光を返す。

 眼下には街。煙の尾を引いて、工場が息をしている。

 閉ざされた鉄格子門、雑草の茂った敷地。

 電車がすれ違い、人々の暮らしが、点のように瞬いている。

 人気のない校庭、緑色のプール。

 繁華街から、数羽のカラスが飛び立っていく。


 真昼の静けさのなか、太陽の眩しさに手がかざされる。

 透けた掌。皮膚の下、骨と血管が、光の中に浮かびあがる。

 その手の奥、命が、ただそこにあるものとして映されていた。


 ふと、頬を風が撫でる。

 まぶたに、風が置いていったような湿り気が、静かに残っている。

 何かを手放す音もなく、静かに、街の景色へと溶けていった。


 両手を大きく広げ、大きく伸びをする。

 そのまま、冷たい空と温かい光を大きく吸い込む。

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ハイキング 青月 日日 @aotuki_hibi

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