第23話 空模様と心模様


 朝。

 空は重く、灰色の雲が空一面に広がっていた。

 登校中、ポツポツと落ち始めた雨粒に気づいたときには、すでに制服の袖がじんわり湿っていた。


 教室に着くと、まだ半分も席は埋まっていなかった。

 俺は自分の席に荷物を置いて、隣を見る。……彩香は、まだ来ていない。

 昨日の“あの”空気が、どうしても頭から離れなかった。


 放課後に図書室へ誘って断られた、ただそれだけ。

 それなのに、彼女の「今日はいいかな」の一言が、心に小さな棘を刺したままになっていた。


 5分後。

 カラカラと扉が開く音がして、彩香が入ってきた。

 俺は、自然な顔で「おはよう」と声をかける。


「……おはよう」


 彩香の返事は小さかった。

 そして、いつものように俺を見ることはなく、そっと鞄を机に置いて席についた。

 その横顔はどこか硬く、目元に影が差しているように見えた。


 ……やけに他人行儀だな。


 自意識過剰じゃないと信じたかった。けど、あれは確かに“俺だけ”への態度じゃないかと思ってしまう。

 気のせいだとしても、なんとなく、息がしづらい空気だった。


 1時間目の英語。

 先生がCDを流し始めると、教室内に英語のリスニング音声が響き渡る。


「Whether you agree or not, it’s important to listen—」


 そのフレーズを聞いた瞬間、俺の耳が、勝手に昨日の放課後を思い出した。

 図書室で、肩を並べて、ひとつのイヤホンで聴いた音声。

 「天気の“weather”かと思ってた」って、彩香が恥ずかしそうに笑ってたこと。

 「すごく楽しい」って、少し照れたように言ってくれたこと。


 そして――

 その翌日、教室で感じた、目に見えない“距離”。


 昼休み。

 俺は水を買うために廊下の自販機へ出た。戻ってきたとき、彩香がノートを広げていた。


(なぜ逆向きのノートを読んでいるんだ…)


「彩香、昼飯もう食べた?」


「……うん。さっき」


「あ、そっか……」


 会話、終了。

 そんなはずじゃなかったのに、思っていた以上にあっけなかった。


 席についた俺は、かばんから弁当を取り出す。けど、箸を持つ手が止まる。

 心が、どうしてもそっちに向かない。


 ――俺、なんかしたか?


 脳内で昨日のやり取りを何度も再生してみる。

 実行委員に選ばれて、藤崎に誘われて、空き教室で打ち合わせして……

 でも、あれは別に、俺が好きでやったわけじゃない。


 なのに。

 なぜか、まるで“悪いこと”をしているような気分になっていた。


 放課後。

 机に教科書を戻しながら、ちらりと横目で彩香を見た。


 けれど彼女は、もう鞄を肩にかけていて、俺の視線に気づくことなく、席を立とうとしていた。


「……彩香、今日、図書室は?」


 なるべく、いつも通りの声でそう聞いたつもりだった。


 けれど彩香は、ほんの一瞬だけ間を置いて、目を合わせないまま答えた。


「……今日はいいかな。ちょっと疲れてるし」


「そっか……」


 そう言った自分の声が、やけに小さく響いた気がした。


 彼女はそれ以上何も言わず、そのまま教室を出ていった。

 少しうつむき加減で、誰とも目を合わせずに。


 ――本当に、疲れてるだけなのか。

 それとも、俺が何か……してしまったのか。


 思い当たるような出来事は……ない。

 いや、たぶん……ない、と思う。


 図書室にひとりで来るのは、久しぶりだった。

 イヤホンを片耳だけに差して、昨日と同じリスニング教材を流してみる。


 だけど、音はただの英語でしかなくて――

 隣で笑ってくれる誰かがいないと、こんなにも味気なくなるものなのかと、改めて思い知らされる。


「……っ」


 机に頬を乗せて、目を閉じた。


 思い出すのは、昨日の放課後の彼女の笑顔。

 「楽しい」って、言ってくれたあの瞬間のこと。


 たった一日で、なぜこうも変わってしまうんだ。


 帰り道。

 アスファルトはまだ少し濡れていて、空はどんよりと灰色だった。


 道ばたに落ちていた水たまりが、風に揺れている。

 まるで、自分の気持ちそのままのようだった。


 俺は、自分のポケットの中でスマホを握りしめる。


 ――何か、送ろうか。昨日みたいに、好きな曲の話とか。

 それとも、文化祭の実行委員のこと、軽く相談とか……?


 けど、何を書いても重くなる気がして、結局画面は開いたまま、何も打てなかった。


 家に帰って、机に向かっても、全然集中できなかった。


 数学の問題を解こうとノートを開いたけれど、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かんで、ペンが止まる。


「……なんでだよ」


 何か、地雷を踏んだのか?

 それとも、何か忘れてる? 怒らせるようなこと、した? 言った?


 いくら考えても、はっきりとした理由は思いつかない。


 それが、余計にしんどい。


 “理由がわからない”って、こんなにも不安なものなんだな。


 スマホの画面には、未送信のメッセージが残ったままだった。

 「今日、なんかごめん」って書きかけて、指が止まった。


 何に謝ってるのか、自分でもわからなかったから。

 けれど、何かを取りこぼしている気がして、それが怖くてたまらなかった。


 その夜は、どうしても眠れなかった。

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