第21話 そばにいると、落ち着かない
朝の教室。
窓から差し込む陽光が、机の上に柔らかく広がっていた。
昨日より少しだけ早く着いた俺は、席に座って鞄から単語帳を取り出そうとしたそのとき。
「……おはよう、裕樹くん」
すぐ隣から、小さな声が聞こえる。
顔を上げると、彩香がこちらを向いて、微笑んでいた。
ただ、その笑顔はどこかぎこちなく、目線が一瞬揺れていた。
「おはよう、彩香」
昨日より、少し“近く”なったはずだった。
けれど今日の空気は、なんだかお互い妙に緊張している。
――隣にいるのに、落ち着かない。
1時間目の数学。
先生の説明を聞きながらノートを取っていると、彩香のシャーペンがコトリと机に落ちた。
「あっ……」
手を伸ばした俺と、同じく拾おうとした彩香の手が、机の下でかすかに触れた。
「っ……」
「あ、ご、ごめん……っ」
「い、いや、俺こそ」
それだけのこと。それだけのはずなのに、変な沈黙が流れる。
結局その後しばらく、どちらも距離を取ろうとぎこちなく過ごす羽目になった。
2時間目が終わり、廊下に出たところで、後ろから声が飛んできた。
「なあ裕樹。お前ら、わざと手ぇ触れてんのか?」
もちろん、その声の主は奏斗だった。
「はあ? 触れたっていうか、たまたま落ちたシャーペン拾おうとしただけだし」
「……ふぅん? “たまたま”ねぇ。ニヤニヤ」
「うるさい。ニヤニヤ禁止な」
「いやいや、ニヤニヤを止めたら俺、ただのモブになっちゃうから」
「元からだよ」
俺が真顔で返すと、横から小桜がくすっと笑って口を挟んだ。
「でも彩香ちゃん、なんか今朝からちょっと緊張してたよ。ね、彩香ちゃん?」
「えっ!? わ、わたし……べ、別にっ……!」
唐突に話を振られた彩香が、耳まで赤くなって俯く。
……なあ、小桜。お前、絶対わざとだろ。
昼休み。
俺が自販機でお茶を買って戻ると、彩香がこちらに向き直っていた。
「……ねえ、裕樹くん。午後のリスニング、あんまり聞き取れなかったんだけど……あとで、一緒に聴き直してみない?」
「え? 聴き直しって……ふたりで?」
「う、うん……。えっと、もしイヤだったら、いいんだけど……」
「いや、イヤなわけないだろ」
思わず苦笑してしまう。
にしても、完璧な彩香でもやっぱ苦手な物があるんだな。
ちょっとおどおどしてる彩香が、なんだか珍しくて可愛いと思ってしまった。
「二股ジャックあるし、ふたりで聴けるよ」
「……ほんと? よかった……」
少しだけ、彼女の頬が緩んだ。
放課後の図書室。
人気のない窓際の机に、俺たちは並んで座っていた。
ふたりの間には、俺のスマホと分岐用の二股ジャック、そして左右に伸びたイヤホンコード。
「……じゃあ、再生するね」
「うん……」
英語のリスニング音声が静かに流れ始める。
けれど、耳に入ってくるのはそれだけじゃなかった。
すぐ隣から聞こえる彩香の呼吸、シャーペンを走らせる音、時折ページをめくるかすかな手の動き。
それらすべてが、必要以上に近く感じられた。
同じ音を、同じイヤホンで聴いている。
ただそれだけなのに、妙に胸がそわそわする。
「……あ、ここ。わたし、自信無かったところ」
彩香が音声の途中で小声を漏らす。
「…あまり聞き取れなかった」
「もう一回流すね。…ここ、‘whether you agree or not’って言ってる」
「…なるほど」
「これが"whether"じゃなくて"weather"かと思ってた。“天気が賛成でも反対でも”って、意味わかんなくなって……」
「確かに、発音同じだね。にしても、だいぶ強引な天気だな」
「発音ほぼ同じなんだもん……」
彼女の口調が、ほんの少しだけ砕けた気がした。
俺は、スマホの画面を一度止めて、ふと尋ねてみる。
「そういや彩香って、普段どんな音楽聴くんだ?」
「えっ、音楽?」
「うん。イヤホンしてるの、何回か見たから」
「……わたし、あんまり言いたくないけど……」
「ん?」
「……アニソン」
それを聞いて、俺は思わず笑いそうになった。けど、ちゃんと堪える。
「アニソン、別にいいじゃん。俺も聴くよ。最近のやつとか、懐かしいやつとか」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。オープニングのイントロでテンション上がるの、すげーわかる」
「……よかったぁ……裕樹くんに引かれたらどうしようかと」
「なんで俺限定なんだよ」
「……だって、裕樹くんだし」
そう言って、彩香は照れ隠しのように目線を落とした。
その横顔が、窓から差し込む西日に照らされて、やけに綺麗に見えた。
――こんなに近くで、こんなに自然に並んでるのに。
それでも、どこか心臓の奥が落ち着かない。
まるで、目の前にあるのに、触れたら崩れてしまうシャボン玉みたいに。
この“距離”が、壊れてしまいそうで、怖くなる。
「……ねえ、裕樹くん」
「ん?」
「わたし……今、ちょっとだけ、楽しいって思ってる」
「“ちょっとだけ”?」
「ううん、“すごく”かも」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓が跳ねた。
「そ、そうか。……俺も、同じ気持ち」
素直にそう言えた自分が、少しだけ誇らしくて。
でも、それ以上のことは言えなくて。
ふたりはまた、イヤホン越しに同じ音声を聴きはじめた。
けれど、英語の発音なんて、もうほとんど耳に入ってこなかった。
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