第20話 隣の席と、意識の距離

 突然の席替え。

 なんとなく嫌な予感はしていた。

 そしてその予感は、見事なまでに的中する。


「花宮くんは……白雪さんの隣ねー」


 教室にざわめきが走る。


「うわ、そこくるか」「マジで? 近くね?」

 数人の男子の声に、女子たちのひそひそ話。中にはちらっと俺の方を見てくるやつまでいた。


 ……いや、別に、何もないですけど?


 そんな無言の圧力に抗うようにして、俺はゆっくりと席を立った。

 席替えで移動した先、窓側の二列目。その左隣の席に、彼女――白雪彩香が座っている。


「……よろしくね、裕樹くん」


 笑顔。完璧美少女の、優等生スマイル。

 でも、その口元はどこか引きつっていて、目線はわずかに泳いでいた。


「ああ、よろしく、彩香」


 俺もまた、ぎこちなく返す。

 あの日あのとき、ふたりで帰ったあの夕暮れ。確かに、あのときよりも“近く”なったはずなのに。

 なぜだろう。教室という空間のせいか、席が隣同士になったことで、逆に“気まずさ”が生まれてしまっていた。


 その日の4時間目、現代文。


 先生が黒板に語句を書きながら、「プリントは右から順に配ってー」と言う。


 彩香が配られたプリントを受け取り、それをこちらに差し出してくる。

 当然のように受け取ろうとしたその瞬間──


 指先が、触れた。


 ふっと、どちらからともなく、息をのむ。


「あっ……ご、ごめんなさい……っ」


 彩香がわずかにうろたえた表情を見せ、俺も「いや、俺こそ」と慌ててプリントを受け取る。

 それだけのこと。それだけのはずなのに。


 後ろの席から、ニヤけた声が飛んでくる。


「おおー……初プリント接触、いただきましたー!」


「初プリントってなんだよ……」俺が振り返ると、柴田が相変わらずのニヤ顔でウィンクを飛ばしてきた。


「ほほう……もう“次の段階”ですかぁ?」


「何段階あるんだよ……」


 そんなやりとりに彩香が小さく肩を震わせた。

 笑っているのかと思ったら、真っ赤になった顔を両手で隠していた。


 昼休み。


 いつもより静かだった。理由はわかってる。

 隣に座る彩香が、さっきからノートに視線を落としたまま、まるで俺の方を見ようとしないのだ。


「……彩香」


 ようやく口を開いた。


「さっきは、ごめん。なんか、変な空気にしちゃって」


「ううん、違うの。わたしのほうこそ、ごめん……」


 その声は、か細く、そして少し震えていた。


「ほんとに、ああいうの……慣れてなくて……」


 言葉を切って、俯いたままの彼女。

 だけど、次の瞬間、小さく息を吸って、顔を上げた。


「でも、ちょっと……びっくりしちゃっただけ。……嫌とかじゃないよ?」


 そう言って微笑んだその顔は、どこか誇らしげで、でも照れ隠しが滲んでいた。


 俺はと言えば、照れ笑いで返すことしかできなかった。


「……俺も、ちょっとびっくりした」


「……ふふ」


 その笑い声は、なんというか、少しだけホッとさせる音だった。


 午後の授業中。


 何度か、視線が合いそうになって、逸らした。

 腕がわずかに触れたときは、どちらからともなくピクリと体を引っ込めた。

 それがまるで、火に触れたかのような動作だったせいで、逆に目立ってしまう。


「……お前ら、わざとやってんの?」


 またしても柴田の茶々が飛んできて、咲がそれに乗っかる。


「ってか、なんか今日の白雪さん、女子力3割増しくらいじゃない?ねえ?」


「えっ、そ、そんなこと……!」


 彩香がパニックになりかけたところで、俺が助け舟を出す。


「小桜、お前も柴田と隣だったら同じ空気になるって。……いや、むしろ濃いか」


「うわ、失礼。ないわー、それはない」


 そう返しながらも、小桜の口元は少しだけ緩んでいた。


 帰り道。

 今日は偶然というか、自然な流れで一緒になった。


 並んで歩いているのに、さっきから言葉が出ない。


 沈黙が続く。けれど、不快ではない。むしろ、気になるのは沈黙そのものよりも──


 どちらから話しかけるべきか、という妙な空気だ。


「……また、明日ね。裕樹くん」


 改札口で、彩香が先に口を開いた。


 振り返ったその表情は、なんでもないふりをしようとしてるけど、目が少しだけ揺れていた。


「ああ、また明日」


 短く返して、彩香が背を向けて歩き出す。

 風がふわりと、彼女の髪を揺らした。


 ――手を、伸ばせば届く距離。


 だけど俺たちは、まだその“ほんの数センチ”が近すぎて、遠かった。


 駅の改札を抜けたあと、しばらく立ち止まって、彩香の後ろ姿を目で追った。


 彼女の黒髪が、歩くたびにさらさらと揺れていた。


「……ったく、なんなんだよ」


 小さくつぶやいて、自分の額を指でこつんと叩く。


 もっと、普通に話せばよかった。

 もっと、何か言えたはずなのに。

 さっきの「また明日ね」すら、ちゃんと返せた気がしない。


 それでも、振り返ることはできなかった。

 もし今、彼女が立ち止まってこちらを振り返ったら、俺は何か言えるんだろうか。

 そんなことを考えながら、俺は改札の反対側へと歩き出した。


 一方、彩香もまた、駅のホームでそっと息を吐いていた。


 電車を待つあいだ、スマホを手にしながら、さっきのやりとりを何度も思い出していた。


 ――隣の席。

 ――プリントのときの、あの一瞬。

 ――柴田くんと小桜さんの、あの茶化し。


 それだけなら、きっと照れるだけで済んだかもしれない。


 でも、裕樹くんが助け舟を出してくれたあの瞬間。

 わたしの視線をすくうようにして、言葉を返してくれたあの声が――


「……優しかったな」


 小さく口にしてから、はっとしてあたりを見回す。


 誰も聞いていない。けれど、ひとりで何を言ってるんだろう、と自分に苦笑する。


 スマホを見つめる。トークアプリを開きかけて、すぐに閉じた。


 送るつもりもない、未送信のメッセージが、頭の中でふわふわと浮かんでは消えていく。


 ――今日、ありがとう。

 ――ちょっと緊張したけど、うれしかった。

 ――明日も……話せたらいいな。


 言葉にできない気持ちが、胸の中でぐるぐる回っている。


 そのくせ、席が隣になったのが嬉しくて、ちょっとだけメイクを変えてみたりもした自分がいる。


 “女子力、三割増し”なんて言われて、動揺したけど……実は、うれしかった。


「……わたし、どんどんダメになっちゃってる」


 ホームに電車が入ってきて、風が髪を揺らす。


 乗り込むその瞬間まで、裕樹くんの声が頭から離れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る