第64話 黄昏の談笑と、冒険者の常識

 その日の午後、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の一行は、第二の故郷となりつつある【黄昏の港町アジール】にいた。目的は、B級上位ダンジョン【魔術師の忘れ形見】で手に入れた戦利品の換金と、そして何よりも、酒場『彷徨える魂の停泊所』の無料でありながら神々の領域に達していると噂の絶品料理である。


 酒場の重厚なオーク材の扉を押し開けると、そこはいつも通りの、しかし何度訪れても心躍る活気に満ちていた。吟遊詩人が奏でる陽気なリュートの音色、世界中の言語(しかし、アジールの理によって全て日本語に聞こえる)が入り混じる冒険者たちの笑い声、そして厨房から漂ってくる食欲を無慈悲に刺激する香ばしい匂い。彼らはその喧騒に心地よく身を任せながら、いつもの一番奥のテーブル席へと向かった。


「ぷはーっ!やっぱここのグリフォンの卵のオムライスは、最高だよねー!」

 星野輝が、巨大なオムライスをスプーンで豪快に頬張り、口の周りをケチャップで汚しながら満ち足りた声を上げる。ふわふわの卵の上には、デミグラスソースが宝石のように輝いていた。

「はい…!このカルボナーラも、ベーコンがB級モンスターの『溶岩猪(ラーヴァ・ボア)』のお肉らしくて、すごく美味しいです…!」

 天野陽奈もまた、こってりとしたクリームソースを口元につけながら、幸せそうに目を細める。彼女の食べるパスタからは、スモーキーで野性的な香りが立ち上っていた。

「あたし、これ好きー」

 兎月りんごは、すでに三杯目となる【深海王ダゴンの触手串】に齧り付いていた。醤油と香辛料で甘辛く焼かれた巨大な触手は、彼女の小さな体のどこに消えていくのか、健司には永遠の謎だった。


 佐藤健司(35)は、平和な光景を、少し離れた席で生ビールを片手に見守っていた。今日のダンジョン周回も、特に危なげなく終了。ギルドの口座残高は順調に増え、少女たちは元気に飯を食う。これ以上ないほど穏やかな日常。彼の一週間の会社勤めでささくれだった中間管理職の魂が、この黄昏の港町の喧騒と少女たちの笑顔、そしてキンキンに冷えたビールによって、ゆっくりと癒されていくのを感じていた。


(…そういえば)


 ふと健司は、長年疑問に思っていた、しかし今更聞くのも野暮な気がしていた素朴な疑問を口にした。それは、あまりにも日常的で、しかし彼が全く知らない彼女たちのもう一つの世界についての問いだった。

「なあ、お前ら。そういえば、冒険者学校ってのはどうなんだ? ちゃんと行ってんのか?俺は行ったことないから、どんな感じなのかいまいちピンと来なくてな」


 保護者的な、そしてどこまでも純粋な好奇心からの問いかけ。それに、三人の少女たちはそれぞれの反応を見せた。


「うげっ、その話?」

 輝は、心底面倒くさそうに顔をしかめた。オムライスの最後の一口を飲み込むと、大きくため息をつく。

「まあ、ちゃんと行ってるけどさ。正直、最近はちょっと…いや、かなり面倒くさいことになってるんだよね」

「面倒くさい?」

 健司が首を傾げる。グランプリで優勝し、今や押しも押されもせぬ有名ギルド。学校でも、英雄扱いされているのではないか。そんな彼の楽観的な予測は、次の輝の一言で無慈悲に打ち砕かれた。


「『あー、E級の落ちこぼれだった連中が、なんでそんなに急成長したの?』って、うるさいの何の。 廊下を歩いてるだけで遠巻きにヒソヒソ聞こえてくるし、直接聞いてくる馬鹿もいるし。正直、うざい」

「そ、そんなことないですよ!みんな、憧れてるんだと思います!」

 陽奈が慌ててフォローを入れるが、輝は鼻を鳴らした。


「憧れ半分、嫉妬半分ってとこでしょ。まあ、分からなくもないけどね。昨日までF級ダンジョンでヒーヒー言ってた奴らが、今じゃB級上位で稼ぎまくってるんだから。面白くないって思う奴がいるのも、当然だよ」

 彼女の言葉には、達観したような響きがあった。その強さの裏にあるやっかみや嫉妬を、彼女は正面から受け止めているらしかった。


「ほう。それで、ギルドに入りたいなんて奴はいないのか?」

 健司が、ギルドマスターとしてごく自然な興味から尋ねる。

「パーティー入りたいって言ってくる連中も、最近いるらしいけどさ」

 輝は、そこで少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。

「うーん、それがさ…。ちょっと、問題があってね」

「問題?」

「うん。うちのギルド、女の子ばっかりじゃん?で、ボスが男じゃん。そこを警戒してる子が、結構いたりするよ。特に、女子生徒の親とかがね。『若い女の子ばかり集めて、あのギルドマスターは何を考えてるんだ』って、あらぬ噂を立てられてるって陽奈の友達が言ってた」


「……………は?」


 健司の思考が、そして時が、完全に停止した。

 今、なんと言った?

 俺が男だから、警戒されている…?

 彼の、その35年間で培ってきた全ての常識と社会人としてのクリーンなプライドが、アジールの硬い石畳の上で音を立てて砕け散った。

「な、なんだと…。俺は、お前たちの保護者兼上司兼ギルドマスターだぞ…!やましいことなど、一つも…!」

 必死な、そしてどこまでも哀れな言い訳。それに輝は、ついに耐えきれず腹を抱えて笑い転げた。


「ぶはははは!いや、あたしたちは分かってるけどさ!周りから見たら、JK三人を侍らせてる謎の金持ち中年じゃん、ボス!」

「ぐっ…!」

 健司は言葉に詰まった。それは、あまりにも的確な、そしてどこまでも残酷な第三者からの視点(ファクト)だった。彼は、自分の社会的評価が本人のあずかり知らぬところでとんでもないことになっている事実に、ただ戦慄するしかなかった。


「で、でも!健司さんは、すごく優しいって私はクラスのみんなに言ってますから!」

 陽奈の必死のフォローが、健司のHPをわずかに回復させる。

「そうそう。ボスは、見た目より中身はちゃんとしてるからね」

 輝の全くフォローになっていないフォローが、再びそのHPを削り取った。


 健司は、その気まずい空気から逃れるように、無理やり話題を変えた。

「…ま、まあいい。冒険者学校かー。俺が学生なら、行ってたかもなー」

 彼の、その少しだけ遠い目をした呟き。それは、彼の学生時代には存在しなかった、新しい青春の形への純粋な羨望だった。

「健司さんなら、きっと最高の生徒になってたと思います!真面目ですから!」

 陽奈の、純粋な尊敬の眼差しが、健司の心を少しだけ温かくした。


「今の子は、部活動でもダンジョン行ってるんだろ? 俺らの頃なんて、放課後といえばゲーセンかカラオケだったが。良い時代になったもんだ」

 健司の、オジサン的な感想。それに、輝はふと真顔になった。

「あ、ダンジョン冒険者部ね。まあ、うちの学校じゃ一番人気の部活だよ。陽奈も、一応入ってるし」

「え、そうなのか、陽奈?」

 健司が驚いて尋ねると、陽奈ははにかみながら頷いた。

「は、はい。一応、幽霊部員ですけど…。部室に行くと、先輩たちが装備の相談に乗ってくれたり、パーティのマッチングをしてくれたりするんです」

「へえ、ちゃんとしてるんだな」

 健司は感心した。もはやそれは、彼の知る「部活」の領域を超え、一つの小さなギルドのようだった。


「まあね。学校対抗戦とかもあるし、結構本格的だよ」と輝が続ける。「ただ、結局は金が物を言う世界だけど。部の予算で買える装備なんてたかが知れてるし。強い奴は、みんな自分で稼いで良い装備揃えてるよ」

 その言葉に、輝はふと何かを思い出したように、健司に真剣な眼差しを向けた。


「そういえば、ボスに聞きたかったんだけどさ」

「なんだ?」

「あたしたちって、周りから見たらどう見えてるわけ?金持ち過ぎて、遊んでるように見えるんじゃないか? って、この前陽奈と話してたんだよね。グランプリの賞金もあるし、スポンサーもついてる。正直、お金には困ってないじゃん?だから、なんか…必死さが足りないみたいに思われてないかなって」


 意外な、そしてどこまでも真剣な問いかけ。健司は、少しだけ考え込んだ。確かに、彼女たちの資産はもはや同年代の若者とは比較にならないレベルに達している。その気になれば、一生ダンジョンに潜らずとも遊んで暮らせるかもしれない。


「…まあ、そう見えなくもないな」

 健司は正直に答えた。

「お前らは、欲しいものは何でも買えるし、好きな時に好きなだけダンジョンに行ける。それは、毎日必死にエッセンス・ファーミングしてる他の奴らから見れば、ただ遊んでるように見えるかもしれん」


 真っ当な答え。それに輝は、ふっとその口元を緩ませた。そして彼女は、この世界の、そして彼女たち自身の最も根源的な「真実」を、そのテーブルへと叩きつけた。


「うーん、まあそうかもだけどさ。装備が高いからね。遊ぶ余裕なんて、ないんじゃなーい?」


 彼女の声はどこまでも明るかった。だが、その奥には確かな、そしてどこまでも揺るぎない冒険者としての哲学が宿っていた。


「陽奈のあの首飾りだって2000万したし。ボスの剣だって、3500万でしょ?あたしが次に狙ってるレジェンダリージェムなんて、億じゃ足りないかもしれない。稼いでも稼いでも、次の欲しいものが出てくる。キリがないんだよ、この世界は」


「それにさ」と彼女は、その大きな瞳を夢見るように細めた。

「別にいいじゃん、どう見られたって。だって冒険者は、どいつもこいつも、ブランド物のバッグ買ったり海外旅行に行ったりするより、装備やジェムを揃える方がずーっと楽しいんだからね」

 彼女は、そこで一度言葉を切ると、最高の笑顔でその結論を告げた。


「ダンジョンに潜るのが、あたしたちにとって最高の娯楽なんだよね!」


 揺るぎない、そしてどこまでも絶対的な宣言。

 それに、健司はもはや何も言うことはできなかった。

 彼は、その手に持っていた生ビールのジョッキを、静かにテーブルの上に置いた。

 そして彼は、目の前で輝く三人の少女たちの、眩しい笑顔を、一人一人その目に焼き付けた。

 そうだ。

 彼女たちは、金のために戦っているのではない。

 ただ純粋に、この理不尽で、しかしどこまでも面白い世界を、心の底から楽しんでいるのだ。

 そしてその姿は、あまりにも眩しく、そしてどこまでも羨ましかった。


 健司は呟いた。

 その声は、心の底からの本音だった。


「…はぁ。まあ、お前らがそれで良いならいいか」


 彼の、不器用な、しかしどこまでも温かい肯定の言葉。

 それを合図にしたかのように。

 輝が、その空になった皿を掲げて叫んだ。

「よーし!じゃあ、腹ごしらえも済んだことだし、もう一本ダンジョン行って稼いでくるか!」


 最高な「娯楽」への誘い。

 それに健司は、深く、そしてどこまでも楽しそうにため息をつくしかなかった。

 彼の黄昏の休日は、まだ終わりそうになかった。

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ユニークスキルのせいでハーレムを作る事が確定した哀れな中年冒険者が挑む現代ダンジョン配信物 パラレル・ゲーマー @karip

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