第63話 黄昏の祝祭と、中間管理職の受難
その知らせは、いつも通り唐突に、そしてギルドの事実上の最高財務責任者(CFO)である星野輝の、甲高い声によってもたらされた。
佐藤健司(35)が、一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、自らの聖域であるタワーマンションのソファに、抜け殻のように沈み込んだ瞬間のことだった。
「ボスー!ビッグニュース!今日から一週間、アジールで『万象感謝の祝祭(フェスティバル・オブ・ホーン・オブ・プレンティ)』が開催されるって!」
輝がARウィンドウに映し出したのは、黄金の麦の穂と豊穣の角(コルヌコピア)がデザインされた、どこまでも陽気で祝祭的な電子ポスターだった。年に一度、世界の全ての冒険者の日頃の労をねぎらい、ダンジョンからの恵みに感謝を捧げる、アジール最大のお祭り。期間中、黄昏の港町は取引や依頼の緊張感から解放され、ただただ陽気な祝祭の空気に包まれるのだという。
「わあ、すごい…!行ってみたいです!」
キッチンでお茶の準備をしていた陽奈が、目を輝かせてリビングに顔を出す。
「お祭り!屋台、あるかなー?」
床でペットの【混沌の仔】を粘土のようにこねくり回していたりんごも、その言葉にピクリと反応した。
その、あまりにも眩しい、三方向からの期待の眼差し。それに、健司はテレビのリモコンを握りしめたまま、深いため息をついた。彼の金曜夜の予定は、録り溜めた深夜アニメの消化と、コンビニの新商品ビールのテイスティングで、完璧に埋まっていたはずだった。
「…どうせ、また俺の経費で豪遊するつもりだろ。却下だ。俺は疲れている」
「何言ってんのボス!これは、ギルドの結束を高めるための重要なレクリエーションだよ!それに、アジールでしか手に入らない限定アイテムも出品されるかもしれないし、情報収集も兼ねてるの!これも、ギルドマスターの大事な仕事でしょ?」
「そうです健司さん!たまには、みんなで息抜きも必要ですよ!」
「お肉食べたい!」
その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも抗いがたい正論と欲望の波状攻撃。健司の、サラリーマンとしてのささやかな抵抗は、ものの数秒で無慈悲に鎮圧された。
かくして、彼の週末の予定は「休息」から「強制参加の社員旅行」へと、無慈悲に上書きされたのだった。
◇
ポータルを抜けた瞬間、彼らの全身を、いつもとは全く違う、熱気と喧騒と、そして幸福な匂いが包み込んだ。
永遠の黄昏に染まるはずのアジールの空には、色とりどりの魔法のランタンが無数に浮かび、三つの月を背景に幻想的な光景を描き出している。濡れた石畳の路地は世界中から集まった冒険者たちでごった返し、その誰もが戦闘の緊張感を脱ぎ捨て、陽気な笑顔を浮かべていた。道の両脇には、見たこともないモンスター料理の屋台がずらりと並び、香ばしい肉の焼ける匂い、甘い菓子の匂い、そしてエキゾチックなスパイスの香りが混じり合い、健司の疲弊しきった脳を無慈悲に刺激した。
「うわー!見てボス!あれ、A級サラマンダーの丸焼きだよ!」「健司さん!あっちの屋台、スライムのわたあめを売ってます!」「あたし、あれ食べたい!」
少女たちは、まるで初めて遊園地に来た子供のようにはしゃぎ、健司はその腕を四方八方から引っ張られながら、人混みの中をよろめいた。
(…まあ、たまには、こういうのも…悪くない、か)
そのあまりの熱気に、彼のささくれだった心も、ほんの少しだけ浮き立っていた。まずは腹ごしらえだと、彼は一番長い行列ができていた、巨大な鉄板で何やら豪快な肉料理を焼いている屋台に並んだ。
「よう、兄ちゃんたち!注文はなんだい!」
威勢のいい獣人の親父に、健司が「とりあえず、このデカいやつを四つ…」と注文しかけた、まさにその時だった。
彼の背後から、陽気で、そしてどこまでもでかい声がかけられた。
「おっと、見ない顔だと思ったら、あんたたちがあの『アフターファイブ・プロジェクト』か!」
振り返ると、そこに立っていたのは、熊のように巨大な体躯を持つ、北欧ギルド『オーディン』の紋章をつけた戦士だった。その顔には、人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「いやー!見てるぜ、ルーキー・グランプリ!凄かったな、あんたたち!」
巨漢の戦士は、健司の背中を、丸太のような腕でバシン!と叩いた。健司の体が、ぐらりとよろめき、危うく持っていた財布を落としそうになる。
「JOKERほどじゃないけど、アンタ達も今、世界で一番注目されてるギルドだぜ? まさか、こんなB級グルメの屋台に並んでるとはな!がっはっは!」
その、あまりにも豪快な、そしてどこまでも悪意のない賞賛。
健司が「い、いえ、うちは別に…」と、いつものように曖昧な謙遜を口にしようとすると、その戦士の仲間らしい、軽装の斥候風の男が、ニヤニヤしながら続けた。
「へえ、あんたが噂の佐藤健司か。クレイジーなパーティーだって聞いてるぜ? なんでも、アイス食ったら攻撃力が倍になるわ、ボスは一撃で蒸発させるわ、ドロップ品は勝手に増えるわ…正直、俺たちがやってる冒険者稼業が、馬鹿らしくなるよな?」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも核心を突いた指摘。健司の顔が、サッと青ざめた。
(…どこから情報が漏れてるんだ…!ギルドの情報管理体制について、早急に輝と会議を開かねば…)
彼の、そのあまりにも人間的な動揺とは裏腹に、少女たちはその言葉に胸を張った。
「ふふーん、まあね!あたしたちの実力、もっと世界に知らしめてやんないと!」と輝が得意げに腰に手を当て、「そ、そんなことないです…!」と陽奈が照れくさそうに俯く。
巨漢の戦士は、そんな彼らの様子を、心底楽しそうに眺めていた。
「まあ、なんだ。せっかくの祭りだ。楽しんでいけよ、日本の英雄さんたち!」
彼はそう言うと、仲間たちと共に、人混みの中へと消えていった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、世界からの、あまりにも大きすぎる注目という名のプレッシャーに、ただ呆然と立ち尽くす、一人の哀れな中年男性の姿だけだった。
彼は、そのキリキリと痛む胃をさすりながら、呟いた。
「…とりあえず、胃薬が欲しい…」
その、あまりにも切実な魂の叫び。それを、輝は最高の笑顔で、一蹴した。
「はいはい、それよりボス!見てこれ!」
彼女がARウィンドウに表示したのは、お祭りの公式イベントの案内だった。
「『お祭り限定・B級グルメスタンプラリー』に参加するから!アジール中の隠れた名店の屋台を巡って、スタンプを集めるんだって!優勝賞品、なんと『虹色の涙』っていう伝説の香辛料らしいよ!もちろん、参加費と食費は、経費で落ちるよね!?」
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも抗いがたい、新たな「業務命令」。
健司の、ほのぼのとした休日は、まだ始まったばかりだった。
◇
スタンプラリーの最初の店は、先ほどの獣人の親父が焼いていた【A級ロックリザードの鉄板焼き】だった。ジューシーな肉の旨味と、秘伝のスパイシーなソースが絡み合い、健司の疲弊しきった脳細胞に直接染み渡るような美味さだった。
「うまい…」
健司の素直な感想に、少女たちは満足げに頷いた。
「次のスタンプは…っと。『三つの月の下、歌う賢者のスープを食せ』だって。何これ、なぞなぞ?」
輝が、スタンプカードに記された次の指令を読み上げる。
「歌う賢者…吟遊詩人さんでしょうか?」と陽奈が首を傾げ、「スープ飲みたい!」とりんごが元気に手を上げた。
彼らは、情報を求めてアジールの路地裏へと足を踏み入れた。そこで彼らが見つけたのは、古びた酒場の軒先で、物悲しいリュートの音色を奏でる、一人のエルフの吟遊詩人だった。彼こそが、次のスタンプを持つ男らしかった。
「ほう、旅の方々。私のスープがご所望かな?」
エルフは、その美しい顔に、どこか寂しげな笑みを浮かべて言った。
「だが、私のスープは、ただでは飲ませられない。私の出す『なぞなぞ』に答えられた方にのみ、振る舞うことにしているのですよ」
その、あまりにもファンタジー的な展開。健司の心は「面倒くさい」の一色に染まったが、輝と陽奈は目を輝かせた。
「望むところだよ!かかってきな!」
「え、えーっと…頑張ります!」
エルフのなぞなぞは、思いのほか難解だった。
「『根はなく、葉もなく、しかし天まで届くもの、なーんだ?』」
輝は「金!」と即答して外れ、陽奈は「希望…でしょうか?」とポエミーな答えを言って首を傾げられた。
健司が「はぁ…答えは『煙』だろ。ガキの頃、やったぞ」と、あまりにも夢のない正解をボソリと呟くと、エルフは驚いたように目を見開き、そして深々と頭を下げた。
「…お見事です。まさか、この謎が解ける方が、まだこの世にいたとは…」
彼はそう言うと、大鍋で煮込まれた、黄金色に輝く滋味深いスープを、四人に振る舞ってくれた。それは、健司の疲れた胃に、じんわりと染み渡る優しい味だった。
三つ目のスタンプは、さらに奇妙だった。
『常に形を変える迷宮で、笑うパン職人を見つけ出せ』
彼らが指定された場所へ向かうと、そこにあったのは、壁がひとりでに動く、巨大な生垣の迷路だった。
「うわ、マジで迷路じゃん!」
「面白そう!」
少女たちが歓声を上げる中、健司は頭を抱えた。だが、この難題を解決したのは、意外な人物だった。
「こっちー」
りんごが、何の根拠もなく、一つの道を指さした。彼女の「奇跡のルーレット」が、無意識のうちに幸運を引き当てていたのか。彼女が指し示す方向へ進むと、彼らは驚くほどあっさりと、迷路の中心へとたどり着いた。そこでは、陽気なドワーフのパン職人が、顔の形をしたパンを焼きながら、高らかに笑っていた。
そうして、彼らは次々とスタンプを集めていく。
その道中で、彼らは再び、見知った顔と遭遇した。剣崎達也率いる、ギルド『アストライア』だった。彼らもまた、このスタンプラリーに参加していたのだ。
「奇遇だな、佐藤さん」
剣崎は、その涼やかな顔に、わずかなライバル心を滲ませて言った。
「どうやら、我々の勝負は、ダンジョンの中だけでは終わらないらしい」
「別に、勝負してるつもりはねえよ…」
健司が、心底面倒くさそうに答える。
その横で、輝とアストライアの女性メンバーが、「どっちが先に全クリするか、勝負よ!」「望むところですわ!」と、火花を散らしていた。
二つのギルドは、奇妙な、しかしどこまでも健全なライバル関係のまま、最後のスタンプを目指して、アジールの街を駆け抜けていった。
◇
そして、ついに彼らは、最後のスタンプの場所にたどり着いた。
アジールで最も高い時計塔の、その頂上。
そこに、屋台はなかった。ただ、一人の老婆が、小さな椅子に腰掛け、静かに三つの月を眺めていた。
彼女は、自らを「星詠み」と名乗った。
「…よくぞ、ここまで来られましたね、若き冒険者たちよ」
老婆は、その皺くちゃの顔に、優しい笑みを浮かべて言った。
「最後の試練は、食べ物ではありませぬ。わらわが、あなた方の『魂』の色を見せてもらうだけのこと」
彼女が、その乾いた手を、四人の額に、そっと触れた。
その瞬間、健司たちの脳裏に、これまでの冒険の記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
そして、老婆は、深く頷いた。
「…ふむ。面白い色をしておる。絶望の灰色と、希望の黄金色。面倒くさがりな黒と、どこまでも優しい白。全てが混じり合った、混沌の色じゃな」
彼女は、そう言うと、その懐から、一つの小さな、しかし世界の何よりも重い輝きを放つ、虹色の塩の結晶を取り出した。
「約束通り、これを授けましょう。伝説の香辛料、『虹色の涙』。これを使った料理は、食べた者の、心の一番奥にある、最も幸せな記憶の味を、再現すると言われております」
彼女は、その結晶を、陽奈の小さな手の中に、そっと握らせた。
そして、彼女は最後に、健司の、その死んだ魚のような目を、じっと見つめて言った。
「…中間管理職よ。おぬしの旅は、まだ始まったばかりじゃ。その面倒くさい魂を、大切になさい」
◇
その夜。
彼らは、アジールの宿屋の一室で、ささやかな祝勝会を開いていた。
陽奈が、キッチンで腕を振るい、何の変哲もない、シンプルな野菜スープを作った。そして、そのスープの中に、あの『虹色の涙』の、ほんの一欠片を、そっと落とした。
スープは、淡い虹色の光を放ち、そして部屋中に、どこか懐かしい、温かい香りが満ちていく。
四人は、それぞれの器に注がれたスープを、静かに、そしてどこか緊張した面持ちで、口にした。
その、瞬間だった。
「…あ」
最初に、声を漏らしたのは、陽奈だった。
彼女の大きな瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。
「…これ、お母さんが、私の誕生日に、いつも作ってくれた、特製のケーキの味がします…」
「…うそ」
輝もまた、そのスプーンを持つ手を、震わせていた。
「なんだよ、これ…。北海道の、じいちゃんが焼いてくれた、ただの塩じゃけの味じゃんかよ…。なんで、こんな…」
彼女の、そのいつもは強気な声が、涙に濡れていた。
「…わたあめ…」
りんごが、ぽつりと呟いた。
「お祭りの夜の、星の味がする、わたあめの味…」
そして、健司。
彼は、何も言わなかった。
ただ、その死んだ魚のようだった目から、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼしながら、そのスープを、何度も、何度も、その口へと運んでいた。
部屋に、言葉はなかった。
ただ、四人が、それぞれの、最も大切で、そして最も温かい記憶に、その魂を委ねる、静かな、静かな時間だけが、流れていた。
その、あまりにも尊い光景を、フロンティア君は、ARウィンドウに『幸福度:測定不能』というエラーメッセージを表示させながら、ただ静かに、見守っていた。
彼らの、最高に騒がしく、そしてどこまでも心温まる休日は、こうして、その幕を閉じたのだった。
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