【一人】なぜ人は一人を雑に扱い、集団は丁寧に扱うのか。集団も元は一人ひとりではないか
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
集団も元は一人ひとりの人間である
人は、一人を相手にしているとき、その相手をつい雑に扱ってしまうことがある。無意識に、軽んじてしまうのだ。それは相手を嫌っているわけでも、攻撃したいわけでもない。ただ、そこにいるのが「たった一人」だというだけで、その存在の重さが、自分の中でどこか軽くなってしまう。そして不思議なことに、相手が大勢になると、人は途端に丁寧になる。礼儀正しくなる。言葉を選ぶようになり、気を遣うようになる。人前では悪口を控えるし、態度を整える。まるで、人数がそのまま相手の価値を決めているかのように。
けれど、考えてほしい。その「たくさんの人」も、結局は「一人ひとり」の集合体ではないか。数の力によって丁寧になるということは、裏を返せば「一人では価値がない」と無意識に見なしているということでもある。それは非常に危うい。私たちは気づかないうちに、数に流され、数によって態度を変える存在になってしまってはいないか。
本来、目の前にいるその「一人」こそが、世界のすべての代表なのだ。その一人を尊重できるかどうかが、人間としての品性を決める。誰かに見られているから丁寧にするのではなく、誰も見ていなくても丁寧に接する。それが本当の優しさであり、思いやりであり、人間としての誠実さなのではないか。
しかし現実はどうか。一人のときにだけ横柄になり、一人のときだけ無視をしてしまい、一人のときにだけ相手を見下す。何も悪気がないからこそ厄介で、日常の中にそれはごく自然に溶け込んでいる。コンビニの店員への態度、道端ですれ違う誰かへの視線、ネットでたった一人に放つ言葉の棘。それらは、すべて「一人だから」という理由で雑に扱ってしまっている。
でも、その「一人」が自分だったらどうだろう。自分がたった一人の客で、粗末な扱いを受けたとき、自分がたった一人の投稿者で、心ない言葉をぶつけられたとき、自分が「一人だから」と軽んじられたとしたら。そのとき、私たちは初めて気づくのだ。「一人であること」が、決して雑に扱っていい理由にはならないということに。
人数は関係ない。相手が何人いようが、一人いようが、そこには等しい重さの「人間」がいる。たった一人であっても、その人は感情を持ち、人生があり、尊厳を持っている。その一人に敬意を払えない者が、どうして「みんな」に優しくできるだろうか。逆に言えば、一人を大切にできる者だけが、本当の意味で多くの人に愛される資格を持つのかもしれない。
この世界には、人知れず苦しんでいる「たった一人」が無数に存在している。目立たない、誰にも見られていない、でも確かに生きている「一人」がいる。私たちはその一人に優しくできるだろうか。目の前の一人を、人として尊重できるだろうか。その問いが、これからの社会を支える根本的な倫理なのだと思う。
人数の多さで優しさが変わるような人間に、真の優しさは宿らない。だからこそ私は、一人にこそ丁寧でありたいと思う。その「一人」が、世界すべての象徴だからだ。
【一人】なぜ人は一人を雑に扱い、集団は丁寧に扱うのか。集団も元は一人ひとりではないか 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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