最終章「……化け物に、なりたくなかった」
秋が、冬に変わろうとしていた。
乾いた空気に交じる虫の声も、もう耳を澄ませなければ聴こえないほど小さくなっている。
木々は葉を落とし、街路樹の影は痩せ細り、陽の落ちる時間が日に日に早くなる。
吸血鬼にとっては、生きやすい季節。
けれど――少女にとっては、どうなのだろう。
その答えを聞くのが、少し怖かった。
あの夜。
少女が意識を失った夜。
吸血鬼はすぐに服を整え、体を温め、彼女が目を覚ますよりも前に、ベッドの上に整った「体調不良だった人間」を仕立てあげた。
水分と、解熱剤と、心配そうな視線。
少女は笑って言った。
「ごめんなさい、寝ちゃってた……。私、なんか疲れてたのかな」
……そう、疲れてただけ。
吸血鬼のせいじゃない。
その後も、毎週のように会っていた。
カフェで話して、買い物して、帰り道で「お願い、吸わせて」と言って、吸血鬼は血をもらった。
少女はいつも、「はい、どうぞ」って首を差し出す。
瞬きもせず、少し照れたように笑って。
まるでそれが、愛情だと勘違いしているかのように。
その瞬間だけは、少女の体温が自分のものになる。
甘く、微かに鉄の匂いが混じった熱が舌を満たす。
でも、それは一瞬の幻。
少女は、血を渡しても――心まではくれない。
違う。
そうじゃない。
血じゃ、足りない。
――少女の全部が、欲しい。
それを言えば壊れてしまうとわかっていても、
言わずにはいられないくらい、限界が近づいていた。
化け物になりたくなかった。
でも、化け物にならなければ、少女は振り向いてくれないことを、吸血鬼は悟っていた。
吸血のあとの帰り道。
夜風は冷たく、少女が小さく肩をすくめる。
秋はすっかり終わり、街は冬の準備を始めていた。
少女の首元に手を添えたまま、吸血鬼は静かに言った。
「……最近、会うたびに思うのよ。
こうして外で血をもらうの、効率悪いわよね」
少女がくすりと笑う。
「ふふ。私の血を”効率”と言われると、変な感じです」
「違うわ。ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
吸血鬼は首を振った。声が少し震えているのを、少女は気づかない。
「ただ、毎回こんなふうに外で会うのって…あなたにも負担だと思うの」
「うーん、まぁ……確かにちょっと寒いですけど」
「だったら、私の部屋に来ればいい。あるいは……あなたが、私のところに来て住めばいい」
「えっ?」
少女は小さく笑った。まさか、という顔で。
「いやいや、無理ですよ~。私、人と一緒に暮らすとか絶対無理ですって。生活リズム合わないし、自分の時間大事なんで」
ちらりと吸血鬼の顔を見る。
いつものような微笑みだったが、何も言ってくれなかった。
その反応が少し気まずく感じて、少女は慌てて付け足す。
「それに、ね?彼氏とかできたら、気まずいし」
また笑った。冗談めかしているけれど、吸血鬼は笑えなかった。
「彼氏、できたことあるの?」
「え? あー……ないですけど」
「じゃあ、これからできるかもしれない?」
「まぁ、可能性ゼロではない……はず……です?」
吸血鬼の顔から、笑みがほんの一瞬だけ消える。
その一瞬を、少女は見逃していた。
「私のこと…そういう対象では、見てないのね?」
「え?」
笑みを残したまま、少女の顔が少しだけ曇った。何を言われたのか、すぐには理解できない。
「……そ、それって……」
「ねえ、私のこと、どう思ってるの?」
「ど、どうって……優しくて、綺麗で、ちょっと不思議で……」
「それ、近所のお姉さんに言う感想と変わらないわよ」
語尾が震えた。嗚咽を押し殺すように、笑いながら。
「私は……あなたに優しくしたかった。人間として、接したかったの。あなたが怖がらないように、安心していられるように……そのためなら、どれだけ我慢してもよかった。でも……」
吸血鬼が手を伸ばす。少女の頬に触れたその指先は、酷く冷えていた。
「でも、あなたが“私以外”の誰かに笑いかけるなんて、そんなの……我慢できないの」
ぐらりと視界が揺れる。
次の瞬間、少女は壁に押しつけられていた。
息が止まった。
目の前にあるのは、あの優しく微笑んでくれた吸血鬼の顔――でも、何かが違う。
「え……?」
声が震える。逃げようとすれば動ける気もする。でも、体が言うことを聞かなかった。
頭の奥がしびれて、胸の奥がざわついて、なぜか足が震えていた。
「……化け物になりたくなかった。人間と同じように、優しくて、穏やかに……そうやって手に入れたかった。
でも、あなたは――人間の私を、選んでくれなかった」
視線がぶつかる。涙をたたえた赤い瞳が、少女の心をまっすぐに見つめてくる。
「……優しくしてあげても、私のものにはならないのね」
少女の唇が震える。言葉が出ない。
「ならもう、優しくなんかしてあげない」
そのまま額をくっつけて、囁いた。
「あなたに決定権なんて、最初からないの。
ねえ、あなたは私のものになるしかないのよ?」
その声に、怒りも哀しみも、欲望も全部混じっていた。
少女は――泣きそうになりながら、小さく首を振る。
「そんなの……そんなの、あなたじゃないよ……」
けれど、その言葉さえも、吸血鬼には届いていなかった。
いや――届いていたのに、聞かないふりをしたのかもしれない。
だって、もう、後戻りなんてできなかったから。
吸血鬼の指が、少女の頬を滑り落ち、顎をすくうように持ち上げる。
「ねえ……わかってないのよ、あなた。
あなたは、所詮“人間”。わたしとは、違うの」
声は低く、凍えるように冷たい。けれどそこには、確かに燃えるような熱があった。
「下等な生き物なの。力も、寿命も、感覚も……
全部、劣ってるくせに」
少女が見開いた目の奥に、恐怖が滲む。
「なのに――どうして、わたしの心を動かすの?」
睫毛の先が震え、少女が言葉を探して口を開きかける。
けれど、それよりも早く、吸血鬼の手が少女の両手を掴み、壁に押しつけた。
「あなたに拒否権なんてないの。
わたしが、あなたを選んだの。
それだけで充分よ」
身体を覆いかぶせるようにして、少女の耳元に唇を寄せる。
「そんな顔……わざとしてるの?
怯えて、震えて、でも逃げようともしない。
そんなあなたを見ると……もっと欲しくなっちゃう」
熱が耳たぶを焦がす。
少女は目を逸らす。でも、顔は赤く火照っていた。
逃げたい。けど、それ以上に――この人から目を逸らせない。
「……ご、めん……なさい……」
そう呟くのが精一杯だった。
少女の頬を伝った涙に、吸血鬼はそっと口づけた。
「泣かないで……そんなに可愛いんだから。
あなたの涙まで、飲み干してしまいたいわ」
瞳は獣のように細められ、けれど微笑んでいる。
「あなたは、わたしだけのもの。
他の誰にも、触れさせない。
誰にも、渡さない。
……もう、逃がさないから」
少女は、何も言わない。言えない。
ただ、夜の静寂の中、あの日のような雷鳴がだけがどこか遠くで轟いた。
お願い、吸わせて 夢見ルカ @ikumas017
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