心臓の音がしない
「さて、少年。 恒星がその一生を終える時、何が起きるか知っているかな?」
唐突な質問に、僕は読みかけの難解な専門書から顔を上げた。 ソーダ味のアイスキャンディーを口の端にぶら下げたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。 じりじりと肌を焼くような陽射しが、軒先の風鈴の影を畳の上で揺らしていた。
夏の昼下がり。 縁側に腰掛けた僕の隣で、先生は楽しそうに目を細めていた。 僕よりもずっと背の高い先生が、こうして隣に座ってくれる時、僕はいつも少しだけ緊張する。 今日はラフなTシャツとショートパンツという出で立ちなのに、その上に羽織った真っ白な白衣が、先生を特別な存在に見せていた。 風が吹くたび、先生の髪から僕の知らない花の香りがして、心臓が小さく跳ねる。 すらりと伸びた脚を覆う黒いタイツが、畳の緑に映えて妙に艶めかしい。
「……超新星爆発、ですか」
必死に本から得た知識を絞り出すと、先生は「よく知っているな。 だが、それだけじゃあないんだ」と満足げに頷いた。 すらりと長い指が、先生の懐から、ウォークマン――携帯型のカセットプレーヤーを抜き取る。 僕はその夜の色をしたウォークマンが、先生のお気に入りであることを知っていた。 その指先が僕の前髪をそっと払うと、隠れていた視界が不意に開けた。 僕を見下ろす先生の瞳は、ただ僕を映すだけではなかった。 その奥では、僕の思考の軌道さえも見透かして、その先を計算しているような、静かな光が揺らめいていた。
「君は、どうして星が死ぬと思う?」
「えっと……質量が大きすぎて、自らの重力を支えきれなくなるから……?」
「うむ、正解だ。 だが、もっと詩的な見方もできるな。 ――重すぎる自分に耐えられなくなるのさ。 輝き続けた結果、己の質量に耐えきれなくなって、最後に自分自身を宇宙へと撒き散らす。 そうして生まれた欠片が、また新しい星や、あるいは私達のような生命の材料になる。 皆、死ぬことは悲しくて嫌なことだって思ってるがね……死というのは、次の生へと託される大切な贈り物なんだ」
先生は悪戯っぽく笑うと、慣れた手つきでウォークマンの蓋を開け、中に入っていたテープを取り出した。 代わりに、ポケットから取り出した、ラベルの貼られていない真っ黒なカセットを滑り込ませる。 ガチャン、と小気味良い音がした。
「さあ、見せてあげよう。 宇宙で最も美しく、そして最も物悲しい花火を」
先生の手が、僕の耳にイヤホンをそっと差し込んだ。 耳に触れた先生の、細い指の冷たさに、思わずうつむく僕に先生は優しく微笑んだ。 そして、再生ボタンが押し込まれる、確かなクリック音。
その瞬間、世界は色と音を失った。
蝉の声が遠ざかり、風鈴の音が星の瞬きに変わっていく。 縁側の木目はきらきらと光る星屑にほどけ、僕の足元から、青い畳が深い宇宙の闇へと溶けていく。 目の前にあったはずの、真夏の庭の眩しい緑は、今や無数の星々が浮かぶ銀河の海へと姿を変えていた。
なのに、隣に座る先生の体温と、その白衣から香る、少しだけ苦いコーヒーの匂いだけは、やけに生々しくそこにあった。
僕たちは、縁側ごと宇宙空間に浮かんでいた。 いや、もはや縁側という概念すら曖昧だ。 足元は底なしの闇で、遠くには紫や青の星雲が、巨大な絵画のように広がっている。 そこにあったのは、耳が痛くなるほどの、完全な無音だった。 音がしない、というよりは、音という概念そのものが消え去った世界。 鼓膜が、存在しないはずの圧力を感じていた。
「ごらん」
先生が、闇の一点を指さす。 そこには、ひときわ強く輝く星があった。 他の星々を圧倒するような、力強い光。 だが、その輝きはどこか不安定で、まるで断末魔の叫びのようにも見えた。
星は、ゆっくりと、しかし確実に膨張していく。 やがて、その光は限界まで達したかのように一瞬だけ強くまたたいたかと思うと、――音もなく、弾けた。
色とりどりの光の波が、同心円状に広がっていく。 赤、青、緑、黄金色。 僕が知っているどんな花火よりも複雑で、どんな宝石よりも美しい光の奔流が、僕たちのすぐそばを通り過ぎていく。 それは、何億年という時間をかけて燃え続けた、一つの魂の最後の輝きだった。
「……きれい」
僕の口から、やっとのことで絞り出されたのは、そんな陳腐な言葉だけだった。 けれど、先生はそれで満足したように、優しく微笑んだ。
「ああ、綺麗だな。 だが、同時にこれは途方もない破壊と暴力の記録でもある。 かつてこの星の周りにあった惑星たちは、この爆発に飲み込まれて、跡形もなく消え去ってしまった。 誕生と死は、いつだって隣り合わせだし、そうでなければならないんだ。 美しさと残酷さは、本質的には同じものなんだよ、少年」
先生はそう言うと、僕のイヤホンをそっと外した。 すると、遠ざかっていたはずの蝉の声が、まるで何事もなかったかのように、再び僕の耳に流れ込んでくる。 目の前の宇宙は蜃気楼のように揺らぎ、再び、見慣れた夏の庭の風景が戻ってきた。
ウォークマンの再生ボタンが、カチャン、と音を立てて持ち上がる。 テープのA面が終わったのだ。 僕はまだ、星の残光が焼き付いた目で、呆然と先生の顔を見つめていた。
「さて。 お次はB面と行くか」
先生は、僕の返事を待たずにテープを裏返し、再びウォークマンにセットした。 次に先生が見せてくれるのは、一体どんな世界だろう。
再生ボタンが押される。 今度は、世界が反転するような急激な変化ではなかった。 縁側の風景が、まるで水に溶ける絵の具のように、ゆっくりと滲んでいく。 畳の匂いが古びた本のそれに変わり、蝉時雨は、しんしんと降る雨音へと変化していった。
気づけば僕たちは、薄暗い博物館の、磨かれた床に立つ自分たちの姿が映り込む展示ケースの前に立っていた。 高い天井から吊るされた裸電球の光が、ガラスに反射している。 窓の外は、静謐な灰色の雨が、息を殺して降り続いていた。 先生は、今日は落ち着いた色のワンピースを着ていた。 体のラインを拾う、柔らかな生地。 だがその上には、やはり見慣れた白衣が羽織られている。
「ここは……?」
「ある町の、小さな資料館だ。 昔、君を連れてきたことがあった筈だが……覚えていないかい?」
先生の言葉に、僕は記憶の引き出しを探る。 確かに、こんな雨の日に、先生と二人で博物館に来たことがあったような気がする。 でも、それがいつだったのか、どんな話をしたのか、靄がかかったように思い出せない。
「あ、ほら。 見てごらん、少年。 オパールだ」
そう言って、先生はごく自然に僕の手を引いた。 触れた指先はひんやりとしていて、そこから伝わった冷たさが、僕の血液を逆流させるような感覚があった。 先生に引かれるまま、展示ケースに一歩近づく。
先生が指さした先には、ベルベットの布の上に置かれた、乳白色の宝石があった。 それは、ただの石ではなかった。 内部に、まるで小さな虹のかけらを閉じ込めたかのように、青や緑、そして燃えるような赤色の光が、見る角度によってゆらゆらと揺らめいている。
「これはね、大昔の木や、貝の死骸が、地下深くで何万年、何十万年という時間をかけて、ゆっくりと宝石に生まれ変わったものなんだ。 死が、こんなにも美しい輝きになる。 不思議だとは思わないかい?」
先生は、展示ケースのガラスにそっと触れた。 その指先を追うように、オパールの中の光が、ちろりと揺れた気がした。
「記憶も、これと少し似ているのかもしれないな。 辛かった出来事も、悲しかった別れも、心の奥底で長い時間をかければ、いつかこんな風に、静かに輝く宝物になる。 死は、終わりじゃあない。 次の誰かのための、美しい贈り物なんだよ」
その時だった。 先生の声に、一瞬だけ、「ジー」というテープのノイズが混じった。 そして、ガラスに映る先生の横顔が、ほんの僅かに、テレビの砂嵐のように乱れたのを、僕は確かに見た。
「……先生?」
「おや。 どうした?」
振り返った先生は、いつも通りの、穏やかな顔をしていた。 気のせいだったのだろうか。 いや、でも。
僕の中に、小さな、けれど消えないさざ波が立った。 この完璧で美しい記憶の世界に、初めて見つけた、小さな傷。 それは、心臓に落ちた、一筋の冷たい雫のようだった。
テープは、まだ回り続けている。
雨音に混じって、遠くから祭囃子が聞こえてきた。 博物館の風景が、再びゆっくりと溶け始める。 裸電球の光は提灯の暖かな赤色に、硬い床はざらついた砂利の感触に変わった。 湿った空気は、綿菓子の甘ったるい匂いと、人の熱気を含んだものになる。
次に僕たちが立っていたのは、神社の夏祭りだった。 いつもの白衣ではなく、紺地に白い朝顔が描かれた浴衣姿の先生は、なんだか別人のように見えた。 高く結い上げた髪からは、普段は見えない白いうなじが覗いていて、それが妙に艶めかしい。 浴衣の合わせ目からわずかに見える鎖骨のラインや、歩くたびに揺れる袖、りんご飴の甘い匂いに混じってふわりと香る、先生の化粧の匂い。 その全てが、僕の知らない『女の人』としての先生を強烈に意識させて、僕はなんだか直視できずに、手元のヨーヨー釣りに視線を落とした。 あの頃とは違う高さの視界が、世界の輪郭を、ほんの少しだけ変えて見せていた。
「おや、苦戦しているじゃあないか」
背後から、先生が僕の耳元で囁く。 その声が、今日はいつもより甘く聞こえるのは、きっと祭りのせいだ。
僕の心臓が、りんご飴みたいに真っ赤になって跳ねた。
「こ、これは、紙がすぐに破けるから……」
「ふふ。 物のせいにするのは良くないぞ。 どれ、貸してごらん」
先生は僕の手からこよりを受け取ると、いとも簡単に、水面に浮かぶ赤いヨーヨーを釣り上げてみせた。 その完璧な手際に、周りの子供たちから「おー」と歓声が上がる。 先生は得意げに片目を瞑ると、そのヨーヨーを僕の手に握らせた。
「ほら、贈り物だ」
その時、ひゅるる、と空気を切り裂く音がして、夜空に大きな花火が打ち上がった。 ドン、と腹の底に響く重い音。 僕たちは、神社の石段に腰掛けて、次々と咲いては消える光の花を見上げていた。
「花火の色が、どうして一瞬で変わるか知っているかい?」
また、先生の質問が始まった。 僕はもう、このやり取りが大好きになっていた。
「火薬の……種類が違うから?」
「その通り。 金属を燃やした時の、炎色反応というやつだな。 だが、面白いのはその順番だ。 花火師は、星が燃える時間と順番を、秒単位で緻密に計算して火薬を配置する。 だから私達は、あの夜空に、一瞬だけの完璧な芸術を見ることができる訳だな」
先生は、花火の光に照らされた横顔で、続けた。
「――だが、どんなに完璧に計算されたものでも、いつかは必ず終わる。 そして二度と、同じ花火を見ることはできない。 記憶も、人生も、きっと同じなのだろう」
その声は、ひどく寂しげに聞こえた。 ドン、と次の花火が打ち上がる。 その爆発音が、一瞬、バリバリという不快なノイズに変わった。花火の心地よい残響とは明らかに違う、何かを無理やり引き裂く音。
ウォークマンが、ガタガタと小さく震えている。 見上げた先生の横顔が、花火の光の中で、ノイズ混じりに激しく点滅した。
やめてくれ。
僕は、心の中で叫んだ。 終わらないでくれ。 このままで、ずっと。
先生の浴衣の袖を、僕は無意識のうちに、強く握りしめていた。
記憶の地層が、無理やり引き剥がされるような音がした。
冷たい雨が降っていた。 黒い礼服を着た僕と先生は、二つの真新しい墓石の前に、黙って立っていた。 父さんと、母さんだ。 両親は、この世界にありふれた事故により、あっけなくこの世を去った。 母さんと先生は元同級生で、卒業後も時々一緒に遊びに出るような親友だった。 共働きで忙しい二人の代わりに、先生が自ら僕の世話を申し出てくれたのが、この長い付き合いの、そもそものはじまりだった。
「私が……詩や文学が好きになったのはね。 君のお母さんがきっかけだったんだよ、少年」
先生は、雨に濡れる墓石を、どこか懐かしむような目で見つめていた。
「私は君のお母さんのことが、最初は少し苦手だったんだ。 勉強ばかりして、クラスから浮いていた私に、彼女はずかずかと近づいてきては、『ずっと本ばかり読んでるけど、本が好きなの? いいね、私も好きなんだ!』なんて言ってくる。 私が読んでいたのは理系の専門書だというのに、人の話も聞かず、やれあれはいい、これもいいなんて半ば一方的に彼女のお気に入りの詩集や小説を押し付けられた挙げ句、感想を聞かせてね、と嵐のように去っていく。 滅茶苦茶だろう?」
先生は、ふっと息を漏らすように笑った。
「……その夜、ちゃんと読んだよ。 だが、当時の若い私には、そういった文学作品の類の良さが、さっぱり分からなかった。 非論理的で、感傷的で、何の役にも立たない無駄なものだと思ったんだ」
そこで一度、言葉を切る。
「だがね、少年。 人間は、正しいだけの言葉では、どうしようもなく救われない時がある。 科学は事象を説明できるが、哀しみに濡れた心に、傘を差してはくれないから。 私は、それを知るのに、随分と時間がかかってしまった。 君のお母さんは、きっと分かっていたんだろうな。 言葉というものが、どれだけ人の心を温め、時にはその人生さえも変えてしまう力を持っているのかを。 彼女が私にくれたあの滅茶苦茶な本の山は、きっと、私への不器用な贈り物だったんだ。 今になって、ようやくそう思える。 ……奇妙なパラドックスに思えるかもしれないが、人間にとって、無駄なものこそ本当に必要なものなんだ」
先生の話を聞きながら、僕はただ、礼服のズボンの生地を強く握りしめていた。 爪が食い込むほどの痛みだけが、この冷たい雨中で、自分がまだここにいることを教えてくれる。 言葉なんて、いらなかった。 どんな慰めも、今はただ虚しいだけだ。
先生は、そんな僕の沈黙を、全て分かっているかのように静かに見つめた後、ふと、話を切り替えた。
「少年。 この先、身を寄せるアテはあるのか」
「遠くに、母方の親戚が。 そちらに行こうかと」
自分でも驚くほど、か細い声が出た。
「私の記憶が正しければ、少し――難しい人たちと聞いている。 君も、あまり良い思い出はないのだろう。 そんな彼らが、果たして君を温かく迎えてくれるかは、甚だ疑問だな」
先生の声には、静かな懸念が滲んでいた。
「でも、そこ以外に、僕を迎えてくれる場所なんて」
ありませんよ、と続くはずだった言葉は、喉の奥で消えた。 その代わりに、熱い何かが込み上げてくる。 ぽつりと呟いた僕の背中を、先生はただじっと見つめていた。
やがて、静かに、だが決意の熱を帯びた声が、雨音を貫いた。
「あるとも。 ……今日から、君は私の家で暮らすんだ。 異存はないな?」
傘を差しかけてくれる先生の声は、いつもと同じように落ち着いていたけれど、その瞳は、雨の空よりも深く、哀しげに濡れていた。 僕は、何も言えずに頷いた。 近所のお姉さんだった先生は、その日、僕のたった一人の「家族」になった。
世界と世界を繋ぐ縫い目が、軋みながら引き裂かれるような音がした。
次に目を開けた時、僕は、桜の花びらが舞う、見慣れた通学路に立っていた。 少しぶかぶかの、真新しい高校の制服。 僕の背は、先生の肩くらいまで伸びていた。
「いやはや! 合格おめでとう、少年!」
隣で、先生が満面の笑みで僕の肩をばんばんと叩いている。 この人ときたら、いつもは非常に落ち着いた大人の佇まいをしている癖に、僕のことに関してだけは、こうして時々、感情を隠さずに示してくれるのだ。まるで子どもに戻った様な純粋さで。
今日の先生は、春らしいブラウス姿に、やはり白衣を羽織っていた。 その手には、僕の合格通知。 僕は、先生と同じ大学の付属高校に入ったのだ。 先生に追いつくための、最初の大きな一歩だった。
「ありがとうございます。 全て先生のおかげです」
「いいや、君自身の努力が実を結んだ、それだけだ。 しかし、君を後輩と呼ぶ日が来るとはな! ここは結構な難関だった筈だ。 本当によく頑張った。 まあ君なら絶対やってのけると確信していたが、それはそれとしてやはり嬉しいものだな! あはは!」
そう言うと、先生は「よーし、よしよし」と、僕の頭を大きな手でわしゃわしゃと撫で回した。 それから、ぎゅっと僕の頭をその柔らかな胸に抱き寄せる。 ふわりと香るシャンプーの匂いと、顔に当たる信じられない感触に、思春期の僕の心臓は限界まで鳴り響いていた。 先生、それは、ちょっと、と抗議の声を上げようとしたが、恥ずかしさと嬉しさで、結局何も言えなかった。
ふと、僕が何週間も頭を悩ませていた物理学の難解な概念について、ぽつりと疑問を口にした。 すると先生は、少し考える素振りを見せたかと思うと、歩きながら、まるで簡単な物語を語るように、その本質を鮮やかに解き明かしてみせた。 複雑に絡み合っていたはずの理論が、先生の言葉という光に照らされて、すっきりとその全体像を現す。 僕はその完璧な解説に感嘆しながらも、胸の奥に、ちくりと小さな棘が刺さるのを感じていた。 僕がどれだけ歩みを進めても、この人の思考は、いつも遥か高みにあるのだと。
過去が、物理的に断線するかのような、不快な音が響いた。
深夜のダイニング。 二人で暮らすようになって、もう二年が経っていた。 僕は、先生が働いている同じ大学の、同じ学部に通っていた。
コーヒーの香りが、部屋に満ちている。 マグカップを片手に、僕の書いた論文を読んでいた先生が、ふと顔を上げた。 風呂上がりなのか、いつもきつく結い上げられている髪は無造作に下ろされ、まだ湿り気を帯びた毛先から、石鹸の匂いがふわりと漂ってくる。 ゆったりとしたコットンのTシャツは、彼女の柔らかな身体のラインを、普段の白衣以上に生々しく、そして無防備に映し出していた。
「この着眼点はなかなか面白いな。 だが、ここの論理展開は……ふむ。 少し許容の範囲を超えて、性急に思えるな。 君は何かと結果を急ぎすぎるきらいがあるから、要所要所で立ち止まって、まずは客観的視点を――」
先生は、僕が淹れたコーヒーを一口飲むと、ごく自然に僕の隣に腰を下ろした。 立ち上がる時、彼女はテーブルの端に、ほんの一瞬だけ、体重を預けるように手をついた。 僕の視線に気づいたのか、先生は少しだけ、はにかむように笑った。
その距離の近さに、コーヒーの熱とは違う種類の熱が、僕の体の内側から込み上げてくるのを感じた。 先生が赤ペンを走らせるたび、その指先が僕の手に触れそうで触れない。 僕はもう、論文の修正点なんて、何も頭に入ってこなかった。
違うんだ、先生。 僕が欲しいのは、論文の評価なんかじゃない。
僕はもう、この人をただの「先生」として見ることができなくなっていた。 この人に、一人の男として見てもらいたい。 そう、心の内で叫んでも、この人にとって、僕はいつまでも、守るべき『少年』のままなのだ。
「――先生、僕は」
意を決して、僕は顔を上げた。 喉が、からからに乾いている。
「先生、僕は、ずっと、あなたに」
悲痛な叫びが、静かな部屋に響く。 だが、先生は僕の言葉など聞こえていないかのように、楽しそうに論文に赤ペンを走らせたままだ。
「……よって、ここの数式はもう少し単純化した方が、全体としては流れが美しくなるな! さて少年、ここからが重要なんだが……」
ああ、まあ、そりゃそうか。
だってこの時の”本来の僕”は、先生の話にただ黙って頷いていただけなのだから。
震える手が、ウォークマンを操作した。
無機質な白い部屋。 大学を卒業し、僕がずっと夢見ていた、先生の務める研究所の入所式の日だった。
横一列に並んだ新入所員たちの前で、壇上に立つ先生が、静かにマイクに手を添える。 いつもの白衣の下には、隙のないパンツスーツ。 その横顔は、僕がずっと見てきた『お姉さん』のものではなかった。 一つ一つの言葉に、巨大な組織を率いる者の重みが乗り、その視線は、僕個人ではなく、僕たちの向こうにある未来というものだけを、冷徹に見据えていた。
「既に君たちが存じている通り、この研究所では、国内でも特に重要度の高いプロジェクトを担当する。 有象無象の研究所とは比べ物にならない程の予算が投入され、その分我々が背負わされる期待と責任は、諸君らの想像を遥かに超えたものとなるだろう」
先生はそこで一度言葉を切り、静まり返ったホール全体を見渡した。 その瞳は、僕の全てを見透かした上で、なお何の感情も映さない、磨き上げられた観測レンズのようだった。 どこかで小さく、誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。 マイクを握る指先に、わずかに力がこもる。
「だが諸君らは、この国で有数の優れた研究者だ。 それは、今諸君らがこの場所で私の言葉を聴いているという事実こそが、雄弁に物語っているだろう。 いかなる苦境も乗り越え、人類の未来の為に貢献できると信じている。 ――ようこそ。 我々は諸君らを、心から歓迎しよう」
凛とした声が、ホールに響き渡る。 その挨拶は、夢や希望だけでなく、科学が孕む危険性や、我々が背負うべき責任の重さについて、厳しく、しかし真摯に語るものだった。 僕は、その圧倒的なカリスマの前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 立場という距離は、確かに縮まったはずなのに、どうしてだろう。 先生の背中が、今までで一番、遠くに見えた。
式が終わり、皆が解散していく喧騒の中、僕は一人、その場から動けずにいた。 その時だった。
「――よくぞここまでたどり着いたものだ、少年」
ふわり、と背後から、僕のよく知る花の香りがした。 耳元で囁かれた声に、ぞくりと背筋が粟立つ。 振り返ると、そこには、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた先生がいた。
「まさか君を、私の同僚と呼ぶ日が来るとはな! とっても嬉しいぞ」
その声は、僕だけに向けられた、甘く、親密な響きを持っていた。 公的な顔とのあまりのギャップに、僕の思考は一瞬だけ焼き切れて、ただ、耳元に残る甘い声の残響だけが、頭の中を支配していた。
だが、その時間は長くは続かなかった。
「所長、お時間です」
無機質な声が、僕たちの間に割り込んでくる。 先生は、「ああ、今行く」と短く答えると、僕に向かって少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめてみせた。
その日を境に、僕たちの距離は、決定的に変わっていった。
研究室での先生は、もはや僕の『先生』ではなかった。 僕が夜を徹して組み上げた理論、血の滲むような努力の末に導き出した数式。 それらを、彼女は『所長』として、一切の感傷を排し、冷徹なまでの論理で、いとも容易く解体していく。
最初のうちは、まだ良かった。
「惜しいな。 発想は悪くないが……根幹となるこの部分の前提が、致命的に間違っている。 遺憾だが、このままでは砂上の楼閣と言わざるを得ないな」
その指摘は、僕の心を抉ったが、同時に火をつけた。 次こそは、と、僕は寝食も忘れて研究に没頭した。 興味もなかったのでいつからかは知らないが、国中から俊英が集められたこの研究所で、いつしか周囲の同僚たちは僕のことを「天才」と呼ぶようになった。 いくつかの重要な発見をし、研究所内での評価も着実に上がっていった。 だが、先生だけは、僕を認めなかった。 ……いや、この表現は少し不適切かもしれない。 実際彼女は、僕の成果を褒めはするのだ。 まるであの頃のように、「よくやったな」と。 だが、あの頃と違ったのは、その直後に、必ずこう付け加えるのを忘れなかった。 「もし私なら、この理論をこう発展させるだろう」 、 そう言って、彼女が僕のレポートの余白に書き殴る数式は、僕が何ヶ月もかけて辿り着いた結論の、その遥か先にある景色を、いとも容易く描き出してしまうのだった。
僕の努力は、この人の前では、子供の砂遊びに過ぎないのか。 僕の人生は、この人の前では、ただの取るに足らないささやかなメモ書きに過ぎないのか。 その悪意のない圧倒的な才能に触れるたび、僕の胃は、まるで鉛でも飲み込んだかのように重くなった。 夜は眠りが浅くなり、食事の味は、ただの記号に変わっていった。――何が天才だ。 今思えば、周囲の僕に対するこの呼び名だって、称賛でもなく単なる皮肉だったかのかもしれない。 何故なら、絶対に届かない圧倒的な真の天才が、僕の遥か目の前にいるのだから。
どうしたら貴女に手が届くんだ。
どうしたら胸を張って貴女の隣に居られるんだ。
どうしたら自分の誇れる自分になれるんだ。
どうしたら。 どうしたら。 どうしたら。
いくつかの季節が過ぎ去った。
深夜、僕が一人、自室に割り当てられた研究ブースでモニターの光に目を焼いていると、こつ、こつ、と無機質な床を叩く音が聞こえてきた。 顔を上げると、そこに先生が立っていた。 いつもの白衣姿だが、その手には、見慣れない杖が握られている。
「やあ。 ここに来てから随分と……頑張っているようだな」
先生は、僕のデスクに山と積まれた資料や、空になったエナジードリンクの缶を、痛ましそうな目で見つめた。
「この研究所どころか、今や学会で君の名を知らないものはそう居まい。 私としても、君の活躍は本当に誇らしいよ。 だが……少し、頑張りすぎてはいないか? 最後に私達二人が揃って家で過ごしたのがいつか、覚えているか? ずっと研究所に寝泊まりしているじゃあないか。 たまには帰ってきなさい。 君の好きなものを作って待っているから」
「――これじゃあ、まだ足りないんです。 まだ、全然」
僕は、モニターから目を離さずに答えた。
先生は、悲しそうに、僕の伸びきった前髪に、あの頃のようにそっと指を伸ばした。 だが、その指が触れる寸前で、僕は、まるで拒絶するように、無意識に身を引いていた。
先生の指が、空中で、行き場をなくして彷徨う。
その瞳に映ったのは、モニターの青い光を反射して、ギラギラと不健康に輝くだけの、僕の乾いた目だった。
「……そうか」
ぽつりと、先生が呟く。
「無理はするなよ」
その声は、僕が今まで聞いた中で、一番、か細く、寂しげに聞こえた。 こつ、こつ、と杖の音が遠ざかっていく。 僕は、その背中を見送ることさえしなかった。
どうすれば、この人を、この人の思考を、完全に理解できるのだろう。 その問いに対する答えは、僕自身の心の最も暗い場所から、まるで最初からそこにあったかのように、静かに浮かび上がってきた。 僕はいつしか、正規の研究の裏で、あるデータアーカイブにアクセスしていた。 先生の、過去の膨大な研究記録。 その一つ一つが、僕の知らない彼女の思考の軌跡であり、僕にとっては聖書にも等しいものだった。 僕は、そこに記された圧倒的な知性の奔流に、何度も打ちのめされ、歯を食いしばった。
そして、見つけてしまったのだ。 いくつも存在する凍結済みのプロジェクトフォルダの、その奥深くに、ひっそりと眠る一つのファイルを。 タイトルはない。 ただ、警告を示す赤いタグだけが付与されている。 好奇心に、あるいは何かもっと黒い感情に突き動かされて、僕はそのファイルを開いた。 そこに広がっていたのは、僕の想像を、倫理観を、そして常識を、遥かに超えた理論の海だった。
――これだ。
脳を直接焼かれるような膨大な情報量に、思考が追いつかない。 指先が、自分の意思とは無関係に、カタカタと震え始めた。 これを完成させれば、世界が変わる。 いや、僕が、この手で世界を変えられる。 そうすれば、今度こそ、僕は。 どうして先生は、こんな途方もない研究を凍結したんだ。 なんてもったいない。
その思考が頭をよぎった瞬間、僕は、その理由を、痛いほどに理解している自分に気づいた。 先生が、僕に何度も教えてくれた、科学者としての倫理。 その危険性。 頭の片隅で、危険だと知らせる警報が鳴り響いている。 だが、その音すら、これから始まる祝祭のための、心地よいファンファーレのように聞こえた。
待っていて、先生。 今度こそ僕は、あなたに――。
カチ。 研究に没頭する現実から逃げるように、壊れかけのウォークマンが、これまで再生してきた記憶の断片を、まるで走馬灯のように勝手に再生し始めた。
夏の青い空の下、ドライブに出かけた日の、運転席で笑う先生がそこにいた。 地図が読めないせいでとんでもない山道に迷い込んでしまったのに、「まあ、これも冒険だな!」なんて言って、子供みたいにはしゃいでいた。
――どうか、歩みのひとつひとつを力強く踏みしめて。
その瞬間の重さを受け止めて。 立ち止まって眺める世界は綺麗だよ、少年。
僕が両親を亡くし、先生と二人屋根の下で暮らしていることを、卑猥な作り話を交えて面白おかしく吹聴して回った同級生。 その胸ぐらを掴んで、牙を剥き出しながら吼える先生の姿がそこにいた。
――いいか、大事なものを貶されて、平気でいる方がダサいぞ、少年!!
……ま、まあ、明らかにやりすぎたのは猛省しているとも、本当に……。
B級のSF映画を観て、主人公が死ぬシーンで、僕の肩に顔をうずめて、子供みたいにわんわん泣いていた先生がそこにいた。 周囲の目など全く意に介さず、心から悔しそうに涙を流していた。
――自分のために泣いてくれる人を大事になさい。 そして君が、
いつか誰かの為に涙を流すなら、その人の為であるべきだ。
僕が初めて作った、少し焦げたハンバーグを、「美味しい、美味しい」と、涙を浮かべながら世界で一番幸せそうな顔で頬張ってくれた先生がそこにいた。
――完璧である必要なんてないじゃあないか、少年。 君が私の為に頑張ってくれたのを私はよく知っているよ。 それが何よりうれしいんだ。
僕が神として崇めていた完璧な天才は、そこにはいなかった。
ただ、不器用で、そそっかしくて、怒りっぽく、泣き虫で、そして、僕の拙い料理を、心の底から喜んでくれる、どうしようもなく愛おしい、一人の女性がいただけだった。 あまりにも、遅すぎた気づき。
僕を呼ぶ声に振り返ると、太陽を背に佇む先生がそこにいた。 眩しさに目がくらんで、その顔はよく見えない。
気づけば僕達は、夕陽が沈む海辺に居た。
砂を巻き上げながら、浜辺を払う様に駆け抜ける潮風に、先生は身をよじらせながらつばの広い帽子を抑えて、楽しそうに笑っていた。
「少年、私は、私はね。 凄く幸せなんだ。 私は孤独だったから。
皆と歩幅を合わせることをずっと知らなくて。 そんな私と一緒に居てくれて、本当に本当にありがとう」
「少年、君は――」
バツン。
唐突な耳障りな破裂音と共に、静寂が、世界を支配する。
海も、空も、風も、そして僕に微笑みかける先生も、全てが、まるで安物の書き割りみたいに、ぴたりと動きを止めていた。 波は、その飛沫の一粒一粒まで空中に静止し、先生の髪をなびかせていた風は、その存在を完全に消し去っている。 世界から、時間が消えた。
何事かと思い、手元に握りしめていたウォークマンに視線をやる。 閉まった蓋の向こうで、磁気テープが、まるで僕自身の記憶の神経線維であるかのように、無残に引きずり出され、二度と解けない結び目を作っていた。
永い間動き続けたウォークマンは、いくらスイッチを押しても反応しない。
僕は、壊れて動かなくなったウォークマンを、ただぼうっと見つめていた。 楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、全てがこの小さな機械の中にあった。 そして、それはもう、二度と再生されることはない。
その時だった。
「――君は、自分が何をしたか分かっているのか」
目の前からかけられた声は、音というより、温度だった。 その一言で、部屋の空気が、飽和点を超えて凍りついていくのを感じた。 先生だ。
だが、そこに立っていたのは、僕が焦がれた記憶の中のどの先生でもなかった。 厳しい表情で僕を睨みつける、研究室の主としての先生だった。 その瞳には、かつて僕に向けられていた慈しみや親しみは微塵もなく、ただ、隠しきれぬほどの失望と、怒りが宿っていた。
「これは、人類の未来のためです」
僕の口から、自分のものではないような、乾いた声が出た。
「人類の未来のため? ああ、どうか聞き間違いだといいのだが」
先生は一歩、僕との距離を詰めた。その声は低く、怒りというよりも、深い哀しみに震えているように聞こえた。
「これは冒涜だ。 生命に対する、そして、人の心が持つ尊厳に対する、許されざる冒涜だ。 ――私がなぜこのプロジェクトを凍結し、誰の手も届かぬ奥底へと封じたのか? その理由が君に分からなかったとは……絶対に言わせないぞ、少年。 何年もかけて、私が手ずから、君に教えてきたからだ」
彼女の視線が、僕の背後にあるホワイトボードへと移る。そこに描かれた数式は、かつて彼女が抱いた理想の、そして僕がそれを踏み躙った罪の残骸だった。
「少年。 君が高らかに発表した、この『人間の精神のデジタル化技術』は。 ……本来は私が、人間の精神という極めてファジーな存在に形を与え、より正確な分析を可能にすることで、精神医学のさらなる発展を期待したものだ」
その視線が、再びナイフのように僕を貫く。
「だが、ほんの少し発展させて応用すれば、実質的な不老不死の出来上がりだ。 まさに先程、君が全世界へ向けて公表したようにな」
その言葉は、もはや怒声ではなかった。ただ、どうしようもないほどの疲労と、諦念が滲んでいた。
「私は君に口が酸っぱくなる程に伝えた筈だぞ、少年。 技術とは必ず、悪意ある者が我々の意図しない使い方をするものだと! それによって社会にどの様な影響を与えるのか、常にリスクを考えろと!! 一体君は、私の何を聞いていたんだ!?」
先生の声が、静かな研究室に鋭く響く。 僕はずっと、この人に追いつきたかった。 肩を並べたかった。 同じ景色を、同じ高さから見たかった。 なのに、この人は、いつだって僕のはるか先を行ってしまう。 僕のことなど、いつまでも無力な『少年』としてしか見てくれない。
「――あなたに、僕の何が分かるんですか」
僕の唇から、醜い言葉がこぼれ落ちた。
「……ああ、そうですね、貴女はいつだってそうだった。 いつだって正しい。 いつだって完璧だ! 僕がどれだけ努力しても、あなたには決して届かない!! お気づきでしたか、先生? 貴女は僕を見ているつもりだったかもしれませんが、その実僕のことなんて、これっぽちも見ていなかったんですよ!! だから今度こそ、無理矢理にでも、僕のことを見させてやろうと思ったんです!!」
言ってはいけない言葉だった。 頭では分かっている筈なのに、まるで炎の様に噴き上がる暗い感情に突き動かされ、舌が止まらなかった。 気が済むまで呪詛を吐き散らし、肩で息をしながら、真っ赤な視界をこらして先生を見る。 彼女の顔が、見たこともないほどに哀しく歪んだのを、僕は見た。 それは、僕がずっと焦がれてきた、記憶の中のどの笑顔よりも、ずっと、ずっと人間らしい表情だった。
「……少年、私は……!!」
「僕はあなたの少年なんかじゃあないッッッ!!!!!!!」
ありったけの力で、机を両の手で叩きながら叫んだ。 何故こんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
沈黙の中で先生は息を呑み、呆気にとられたように僕を見つめていた。
「僕は貴女に手を引いてもらいたかったわけじゃあないんだ、先生!! 僕は……」
その次の言葉が出てこなかった。 前で手を引いてもらいたかったわけじゃない。
ただ、同じ場所で肩を並べて、同じ景色を見たかった。 それなのに。
「君とて」
先生は、ぽつりと呟いた。
「ついぞ私のことを、『先生』としか呼ばなかったな」
その一言は、僕という存在の中心に、決定的な亀裂を入れた。 今まで積み上げてきた言い訳も、嫉妬も、憧れも、全てがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。 その自覚は、僕が立っていたはずの地面を、足元から音もなく消し去っていった。 僕は、支えを失って、ただ、どこまでも落ちていく。 我に返った時、研究室には僕一人だけが残されていた。 先生が残した、コーヒーの苦い香りだけを抱きしめて。
それが、僕たちが交わした、最後の言葉だった。
あの後、先生が研究室を出て行ってから三日も経たぬうちに、一本の事務的な電話が僕の元にかかってきた。 先生が死んだ、と、感情のない声が告げた。 階段を昇っている最中、足を踏み外して頭を打ったのが原因だった。 僕が焦がれ、憎み、超えたいと願った天才の最期は、あまりにもつまらなく、あっけないものだった。 受話器を置いた後も、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。 涙は、一滴も出なかった。 胸にぽっかりと穴が空いていた。 それは、かつて先生が教えてくれた、恒星が死んだ後の、光さえ届かない、絶対零度の宇宙そのものだった。
そこからの記憶は、ひどく曖昧だ。
僕の研究室のモニターには、僕が世界にもたらした悲劇が、ひっきりなしに映し出されていた。 『ゴーストワーク法案、人権団体の反対を押し切り可決』『出生率、観測史上最低を更新』『デジタル故人との"再会"サービス中毒者、社会問題に』。 先生の懸念は、その全てが現実のものとなった。 だが、そんなニュース速報のテロップも、僕の目には、意味をなさないただの画素の明滅にしか見えなかった。
僕は、たった一つの想いに取り憑かれていた。 もう一度、彼女に会うんだ。 そして彼女の気持ちを確かめたい。 伝えられなかった言葉を、今度こそ彼女に伝えたい。 先生ではなく……僕の愛する、一人の女性として。
僕は、僕が作り上げたシステムの全てを、ただその一点のためだけに使った。 先生の遺した膨大な研究データ、僕自身の歪んだ記憶、そして、世界中からかき集めた、ありとあらゆる情報を繋ぎ合わせ、僕は遂に、先生の精神をデジタルデータとして再構築した。 生前の本人から直接録ったデータではないので、厳密には本人とは言えないかもしれないけど……また彼女に会えるなら、もうどうでもよかった。 僕は無数のコードに繋がれた、大きな装置を起動するとそこへ横たわり、ヘッドセットを装着した。
気がつくと、僕は、夜の湖の底みたいに、どこまでも静かで、優しい闇に満ちた場所にいた。 目の前で、ぱちぱちと小さな焚き火が、まるで瞬く星みたいに燃えている。 暖かな光が、僕の足元をそっと照らしていた。
その向こう側に、先生が座っていた。 あの夏祭りの日と同じ、星空を映したみたいな紺色の浴衣姿で。
「待っていたよ、少年」
先生は、穏やかに微笑んでいた。 ノイズはない。 歪みもない。 完璧な、僕がずっと会いたかった先生だった。
その瞳は、もう僕の思考を計算したりはしない。 ただ、静かに、優しく、僕だけを映していた。
「君は、ついぞ、私を超えられなかったな」
その言葉には、不思議と棘がなかった。 ただ、どうしようもない事実として、夜空に浮かぶ月のように、そこにあるだけだった。
「……ごめんなさい」
やっとのことで、僕はそう絞り出した。 何に対しての謝罪なのか、もはや自分でも分からなかった。 ただ、「ありがとう」と伝えたいのに、「ごめんなさい」という想いが邪魔をする。 「会いたかった」と叫びたいのに、貴女を傷つけた後悔が喉を塞ぐ。 洪水のように押し寄せる感情の中で、僕は、立ち尽くす以外に何もできなかった。
「大人として扱ってほしいならね。 まずはちゃんと、君が大人にならなくちゃダメじゃあないか」
――やれやれ。 先生は、困ったような、哀しそうな、けれどどうしようもなく愛おしそうに。 遥か遠くの思い出の中に、見覚えのある表情で僕に微笑んだ。
「でも、ほら」
どこか気まずい雰囲気を拭い去るように、先生は切り出した。
「お互いに伝えたい言葉があった筈さ、そうだろう?
だから君はここに来て、だから私はここに居る。 さあ、こっちへおいで」
先生が、焚き火の向こうから、そっと手を差し伸べる。
その白い指先が、炎の光を受けて、淡いオレンジ色に透けていた。
僕は、その光に引き寄せられるように、自分の手を持ち上げた。
その瞬間、現実に戻ってきた。 宙空に伸ばされたのは、錆びついた金属でできた、無骨なロボットのアームだった。 関節からは、オイルが黒い涙のように滲んでいる。 指先は、人の肌の温かみなど、到底感じられそうにない、冷たい鉄の鉤爪。
そしてその手には、もはや壊れて久しい、夜の色をしたウォークマンが握りしめられていた。
僕は、全身から金属の軋む音を響かせて、ゆっくりと身体を起こした。
錆にまみれた金属の表面に、かろうじて僕の顔が映っていた。
大きな単眼のカメラアイがひとつ、ただ、赤く点滅しているだけだった。
静かな部屋に響くのは、僕自身の体を動かす機械の駆動音だけだった。 かつて、先生の隣で、あるいは一人きりの夜に、あれほど激しく鳴り響いていたはずの僕の心臓の音は、もうどこにも聞こえなかった。
ああ、そうか。
僕は、もう、先生の温もりに触れることさえ、できないのか。
先生は、遠い夢の中で何も言わずに僕へ微笑んでいる。 その優しい笑顔は、僕にとっての救いであり、そして、死ぬまで続く罰だった。
傍らには、機械に接続された古いモニターが淡く光っていた。
画面に表示されていたのは、幾度となく独自でアップデートしてきた、デジタル人格データの制御ソフトウェア。 思考や発言を入力した指示通りに自在に制御できるそのソフトのテキスト部分には、たった一言、文字が映されていた。
”愛してる”
その言葉の後ろで、点滅を続けていたはずのカーソルが、すうと音もなく消えた。
了
ロリババア、宇宙へ行く 龍月ユイ @yui_tatsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ロリババア、宇宙へ行くの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます