『破算』下
5
孤月と夕刻が書架内を歩いていると、向こうからぺたぺたと足音がした。
絨毯は部分部分にしか敷かれていないため、大理石の床が露わになっている。そこを、ぼんやりと素足で進んでいるのは青月だった。
首には縄が巻かれ、手首は傷だらけ。口の端から涎を垂らしている。
思わず立ち止まると、青月はこちらに気が付いたのか目がギョロリと動いた。
「青月、だよな? どうしたんだよ、それ」
「……あなた誰? 私はあなたなんて知らない」
恐ろしく低く、地の底から響くような声だった。孤月がたじろぐと、青月はさっさと行ってしまう。
「ありゃあ、だいぶキてますね。これは」
「青月が青月じゃないみたいだ」
「いえ、あれが最初の青月さんで間違いない。あそこからアルさんや無月さんのカウンセリングで良くなったんだからすごいよね」
夕刻はメモを取りながら、どんどんと前に進んでいく。
孤月は青月を追いたい気持ちに強く引かれたが、今は夕刻に従う事にした。
「書架内の造りは変わってない。昔のお月様のまんま。書架長はアルさんの可能性が高くて、副書架長は無月さんと皓月さん。この頃なら、他にもアクセス権を持った住人が何人かいるはず」
「なあ、夕刻。夕刻はこの、昔の『月の書架』の事を知ってるのか?」
夕刻は小さく頷く。
「良く知ってるよ。むしろこの頃のことしか知らないと言ってもいいかも。まだ無月さんと繋がりがあった頃だから」
「そうなのか。なあ、そこに俺はいたのか?」
「それなんだよね」
夕刻はボールペンの先を空中で遊ばせながら、孤月を見遣った。
「分かんないんだ、私。孤月くんのこと。いたなら無月さんが教えてくれていると思うんだけど、君のことはとんと分かんない。無月さん、私に隠してたのかな?」
「でもそれにしては、さっきは普通に俺と夕刻と話してたじゃないか」
「ううん、あの頃のむっちゃんと今のむっちゃん、一緒に見えるけど違うのかなあ」
夕刻はペンを回しながら、うんうん唸っている。
「まあでも、まずは孤月くんは孤月くんのことを思い出す事が第一かも。何が起きているのか、そこにヒントがあるのかもなあ」
「俺が何者か分かったって、何の役にも立たないんじゃないのか?」
「いやそんな事ないと思う。無月さんは君について何か隠してるよ。過去生について知る事ができれば、無月さんと君のことを結び付けて考える事ができる」
「それが今のこの状態と何か関係があると思えないけど」
「へへん、素人め。この夕刻ちゃんに任せなさい」
夕刻が胸を叩く。
「何を任せるの?」
「うわあ! む、むっちゃん! 殺す気?」
その夕刻の影から現れるように、無月がやって来た。無月は不思議そうに目を丸くする。
「そんなに驚いたの? それはごめんね」
「そうだよ! 死んじゃうよ!」
「無月、仕事は終わったのか?」
孤月の問いに、無月は胸を張った。
「無月ちゃんに掛かればちょちょいのちょいちょい! というか、手を叩けば全部動くからあとは見守りだけです。皓月もそうしたら良いのに」
「それはむっちゃんの得意技でしょ? 大抵はそんなにたくさんのものを一気に動かすなんてできないの」
「誰にでもできると思うけどな。孤月くんもやってみる?」
「皓月に怒られるよ」
夕刻が溜息をつくと、無月は少しむくれる。
「さて、そろそろ帰ろうかな。むっちゃん、有明さんはいるの? ご挨拶しようかなって思って」
「有明兄さんね、最近来てないんだよね。夕ちゃんが来た事、言っておくよ」
「分かった、ありがとう」
夕刻は孤月に目配せをしてくる。何か考えがあるらしい。そのまま夕刻は書架を出ていく。
「夕ちゃん、また来てねー!」
無月は無邪気に手を振る。
6
孤月はソファーに座りながら、腕組みをし考えていた。
幼くなった無月、ぼろぼろの青月、過去に戻ったらしい『月の書架』。
話を聞けそうなのは無月くらいだが、その無月が変わってしまったのなら何を聞けば良いのだろう。
――思い当たるのは、自分自身の事。
今の無月なら何か教えてくれるかも知れない。
丁度向こうの本棚近くで本を選んでいる無月がいる。孤月が立ち上がると、誰かがその腕を掴んだ。
「孤月。無月ちゃんに話しかけるのはちょっと待った」
低めの声に振り返ると、口元に指をやって「静かに」と言う皓月がいた。
「その質問は私が答えてあげる。だから無月ちゃんのところに行くのは少し待って」
「質問って、俺何か言った?」
「ふふ、やっぱり貴方、孤月であって孤月じゃないわね」
皓月に手を引かれる。無月から離れて螺旋階段を上がると、二階には大きな扉が出来ていた。皓月がそれに触れると、空間が歪んでいく。
「通って」
孤月は言われた通りに、その歪んだ空間に目を瞑って突っ込む。頬には冷たい風が当たり、夜の匂いがした。
瞼を上げると、そこには一面の星空。周囲には何もない。バルコニーの下は海になっていて、月がぽっかりと浮かんでいた。
「良いところでしょ? ここは無月ちゃんにも内緒にしてるのよ」
「書架にバルコニーがあるなんて知らなかった。どうしてここに?」
「私ね、見えるのよ」
皓月は美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「疑問とか、考えている事とかの内容。全部じゃないわよ? 隠すのが上手な人のは見えないけれど、孤月みたいなタイプのは良く見えるわ」
「何だそれ、じゃあ俺の考えている事が分かったからここに連れて来たのか?」
「そうよ。どこから答えましょうかね?」
皓月はポケットから煙草を取り出す。細長い紙巻きだ。孤月もそれに倣って煙草を手にした。
「まずそうね。貴方自身のこと。貴方は『月の書架』の古参よ。でもいつも悪い事をして浄化されてしまうから、魂の年齢は若いけどね」
「俺、昔からここにいるのか?」
「そうよ。無月ちゃんとも仲が良かったのよ」
皓月は柵に腕を置いた。
「でも貴方、変わったわね。浄化の過程で良い魂に変わったのかも知れない。昔はもっと刺々しくて、考えていることも黒かったもの」
「何だよそれ」
「良いじゃない。そうやって変わっていく事が生きるってことの醍醐味よ。でも、人を変えようとするのは駄目ね。あくまでも自分だけ」
皓月は煙草をふかしながら、天を仰ぐ。
「『月の書架』は私の意識の中では変わっていないけれど、貴方の中では全く別物になってるんでしょう? それの原因を探りたいのね」
孤月は言い当てられた。驚きを隠せない。
「でもそれは無理よ。私たちでは計り知れないことがあるもの。はっきりとした証拠や原因を知る事はできないでしょうね」
「じゃあ、このままってことか?」
「そうは言わないわ。書架って生き物なのよ」
皓月は不敵に笑った。孤月は意図が理解できず、目を白黒させる。
「孤月が思っている事が本当ならね。ここで生かされている私たちより、余程『月の書架』の方が居心地の悪い状態なのよ。だから必ず元の流れに戻ろうとするわ。誰が悪い事を画策しようとも、大元の意識は変えられない」
「書架が生き物って、そんなことあるのか?」
「私たちが学び終えた後、魂は色々な場所に行くの。私たちの指導役に上がる、もっと上のところでまた一から学ぶ、多次元の間に入って調整を行う……。その中の一つに、書架になるっていうものがあるわ」
「書架になる?」
「そうよ。そうは言っても、書架は一つの魂で作られているわけじゃない。たくさんの魂の寄り合いなのよ。『月の書架』も例外じゃないわ」
孤月は信じられない気持ちで、書架の外観を見上げた。真っ白な石の肌に意識が詰まっているなんて思えなかった。
「孤月の世界が本当にあったなら、必ず揺り戻しが近いうちに起きるわ。今日はここまで」
煙草を吸い終えた皓月が、姿勢を直す。
「また時間があったら色々教えてあげるわ。ただね、無月ちゃんにはあまり近付かない事」
「なんで? 皓月は何故、無月をそんなに言うんだ?」
「あの子はね、良い子だったのよ。でもある時から人が変わった。今は戻っているように見えるけど、私にはそう見えないの」
気を付けなさい。皓月はそう言って、孤月に戻るよう促す。
月の書架 まるたかあお @mrtkAo
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