『破算』中
3
顔を出したのはアルだった。
どこか疲れを滲ませて、ゆっくりと入ってくる。孤月と夕刻は顔を見合わせた。
「うん、とても楽しそうだ」
「アルさん、お疲れさまです!」
「うん、お疲れさま。夕刻がそんなに元気でいるのは久しぶりだね。孤月のお陰かな?」
「はいそりゃもう!」
夕刻が胸を張って答える。孤月は今までとの違いに驚くが、アルはそれが嬉しいようだった。
「孤月を連れて来て良かったよ。ではそろそろ」
「待ってください、アルさん。少しよろしいでしょうか?」
「君の少しが少しだった試しはないけれど」
アルが苦笑する。夕刻は身を乗り出して、瞳を輝かせた。
「私に『月の書架』の仮アクセス権をいただけないでしょうか! あと、孤月くんにもここの仮アクセス権を!」
「仮アクセス権?」
アルが目を丸くする。
「聞いた事がない言葉だけれど」
「はい、今作りました!」
「ええと、そんな事を言われてもな」
「行けます。ここは自由なので、アルさんがうんって言えばいけます!」
夕刻の勢いに押されて、アルが一歩退がる。
「いやでも、君はそもそも書架長なのだから、『月の書架』に行けるだろう?」
「気軽には行けません。孤月もここに気軽に来られません」
「気軽に来る必要がないのでは?」
「あります! 変な事がたくさん起きているみたいなので!」
孤月は、アルの右手に若干の力が入ったのを見た。
「君の好奇心の強さは知っているけれど、他の所の事情に茶々を入れるのは良くないよ。孤月、帰ろう」
「いーえ、これは私にも無関係な話では無いはずですよ? 向こうには私の片割れがいるんですから」
「……それは、そうかも知れないが。『月の書架』では別に何も起きていないよ。そういう報告は上がっていない」
「アルさん、嘘吐きです。制服の袖、焦げてますよ」
「君も嘘つきだ。この服は何かがあったとしても焦げない」
二人の膠着が続く。孤月は我慢出来ず、口を挟んだ。
「あのさ。俺を連れて来たのはアルなわけじゃん? 俺がここを気に入ったから、来られるようになったら嬉しいんだけど」
「孤月、君まで何を言うんだ。僕が連れて来ればいい話だろう?」
「アルさんはそもそもお月様担当じゃないんだから、そんなに頻繁に行けないでしょう?」
アルは面倒そうに頭を掻いた。はっきりと彼の表情が表れたのは初めてのことかもしれない。
「ああ、もう。分かったよ。仮アクセス権っていうのが何だか分からないけれど、とりあえず孤月にパスを渡そう。夕刻は自分の権限で視察に行きなさい」
「えー! くれた方が早いのに」
「だめだ、変なルールを作るな、全く」
アルは孤月の額に触れてくる。冷たい手だ。そこからぼんやりと光が溢れて、すぐに収まる。
「これでいい。夕刻の事だから、地下に何か作ってるんだろう? そこから出入りするといい。『月の書架』には内緒にして」
「さっすがアルさん、ありがとうございます!」
「変な事はしないでくれよ、夕刻」
はい、と夕刻は今日一番の笑顔を見せた。アルは溜息を吐きながら書架を出ていく。
夕刻はその扉に鍵をかけ、さあ、と仁王立ちした。
「やりました! アルさんは押しにめちゃくちゃ弱い、と無月さんに聞いておいて良かったです!」
「弱いというか、面倒臭がっていたというか」
「まあまあ、いいじゃない! これで謎解きできますよ、孤月くん!」
夕刻は鼻歌を歌いながら戸締りとカーテンを閉めていく。孤月も手伝う。
夕陽が遮られると、室内は途端に暗くなった。
「さあさあ、床下に行くよ! あそこの扉からお月様に行けるようになったから!」
「夕刻、それアリなの? あれ開かなかったけど?」
「アリアリ! さあ早く!」
夕刻の力強さに押されて、孤月は頷く。
どこか懐かしさと心地良さを感じながら。
4
『落日の書架』の床下を抜けて来たのは、孤月の部屋だった。窓辺が歪んでいたが、二人が中に降り立つとすぐに元に戻る。
ローズの匂いと、赤から青に変わった視界に目が回りそうだ。
夕刻はふんふんと部屋を見渡す。
「お月様は広いから一人一部屋あるんだねえ。なんかいい匂いするし。ここは誰の部屋なの?」
「俺だね。そんなに来た事ないけど」
「え、あ、男の人の部屋! ……よーし、早く書架にいこう!」
顔を真っ赤にした夕刻は、孤月の部屋の扉を大きく開け放った。孤月もそれに続いて出る。
――出た瞬間に、何かが変だとすぐに分かった。
『月の書架』の内装が変わっていた。夜空の色と雰囲気を纏っていたのに、白と赤に変わっていた。木製の磨き込まれた造りは変わっていないが、色使いが大きく変更され、所々に花が生けてある。
「ここ、『月の書架』か?」
夕刻が小首を傾げる。
「何か、以前と違いがあるの?」
「いや全然違うよ。これはどういう」
孤月が考える間も無く、一階から怒号。二人が慌てて螺旋階段を降りると、頭を押さえて蹲る少女がいた。その横には、眉を吊り上げた作務衣姿の男、皓月。
「無月ちゃんはほんとに! お仕事をサボるなって何回言えば分かるの!」
「叩く事ないじゃないですかー! 皓月のばか!」
「人を馬鹿と言うんじゃありません!」
皓月に拳骨を喰らい、少女は悲鳴を上げる。
孤月はまた面食らった。この少女は、年齢は幼いが無月と同じ顔立ちだった。知っている彼女より十歳近く若返っている。
「あら、孤月じゃない! 今日もいい男ね」
皓月に気が付かれた。孤月にウインクして見せる。思わず引き攣った笑みが浮かんだ。
「夕刻ちゃんも来たの? あれ、落日は今そんなに暇なんだったかしら?」
「あ、いえ! 私はむっちゃんに会いに」
夕刻が控えめに言う。むっちゃん、と呼ばれた無月が顔を上げると、ぱあ、と輝かせた。
「夕ちゃん! 何で来たの? 遊びに来たの?」
「むっちゃん、久し振りだねー!」
無月が夕刻に抱き付く。皓月は全く、と言いながら手を叩いた。
「無月ちゃん、今日のお仕事は必ず終わらせておくこと! 副書架長として、悪い子にはお仕置きなんだからね!」
「私だって皓月とおんなじなのにー!」
無月が立ち去る皓月に舌を出す。孤月は目の前の人物が一体何なのか理解に苦しんでいた。
恐怖もあの声も湧いてこない。まるで何事も無かったかのように、無月の雰囲気は白く丸くなっていた。
夕刻と無月は何やら楽しそうに話し込んでいる。長くを共にした友人のようだ。
「二人は知り合いなの? 書架長繋がり?」
孤月は努めて冷静に尋ねた。無月がきょとんとする。
「孤月くん、私たちのこと知らないんでしたっけ? 私と夕ちゃん、夕刻は片割れなんですよ」
「片割れ?」
「現世の言葉で言うと、ツインレイっていうのが近いのかな?」
無月が夕刻に訊くと、夕刻は頷いた。
「それに近いね。こっちでは片割れって言う事が多いけど。元々は同じだったんだけど、方向性の違いで分かれちゃったんだよね」
「そうそう。私はこっちで、夕ちゃんはあっちで。経験したい事がたくさんあり過ぎて分かれたんだよね」
へえ、と孤月は目の前の二人を見比べる。見た目は全く違う。似ても似つかない。
「私たちは魂だから。人間みたいになるわけじゃないよ、孤月くん。それにまた一つになる可能性もあるしね」
「あるけど、ほとんど可能性ないよね」
そこまで話すと、無月は仕事を終わらせてくる、と離れていく。
夕刻はその背に手を振りながら、これは大変だよ、と孤月に耳打ちした。
「あれはもう、最近の無月さんじゃないね。皓月さんも副書架長だって言ってるし」
「どういう事だ?」
「詳しい時間は分からないけど、これはアルさんが書架長だった頃の『月の書架』まで戻ってるね。相当昔だよ」
「昔って、過去に戻ってるってことか?」
夕刻が頷く。
「この話、あまり聞かれない方がいいかも。確信になるまで、あくまでも遊びに来た風でいよう」
分かった、と孤月は返しながら、ふと思った。
もし過去に戻っているのならば、何故自分は普通に名を呼ばれたのだろうか、と。
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