第26章 – 「本当に解放されたのか?」



夕焼けが部屋の壁をオレンジ色に染める頃、アケミはベッドに倒れ込んだ。

制服のまま、顔を枕にうずめて、魂ごと吐き出すような長い息をつく。


「……静か、すぎるな。」


ゆっくりと天井を仰ぐ。

制服も脱がず、ただ天井のシミをぼんやりと眺めながら、

だらりと回る扇風機の風が、前髪をほんの少し揺らした。


今日一日、あまりにも“普通すぎて”、どこか現実味がなかった。


女の子たちはもう、絡んでこない。視線も、わざとらしい偶然も、手を触れるための芝居もない。

まるで「クラブ・オブ・ブロークンハーツ」なんて存在しなかったかのようだ。


「……飽きられた、のかな。」


声に出してみたが、そんな単純な話じゃない。わかっている。

あのクラブに“普通”なんて言葉は存在しない。


目を閉じる。

もし、このまま何もなくなるとしたら――

罠も、駆け引きも、恋愛戦争も、全部。


「本当に、もう放っておいてくれたら――?」


ふと浮かんだその考えに、心が止まった。

頭の中に種が落ち、それが一気に芽吹くような感覚。


勢いよく上体を起こす。


「それって……最高じゃん!」


そして――笑った。


皮肉でも諦めでもない。

久しぶりに、心の底からの笑み。


もう一度ベッドに倒れ込み、ひとりで小さく笑う。

身体が軽い。何週間ぶりだろう、こんな感覚。


「もしかして……もう終わったのかもな。」



翌朝。

薄い雲が空を覆い、湿った土の匂いが漂っていた。

アケミはイヤホンをつけ、肩の力を抜いたまま学校へ向かう。


校門をくぐっても、柱の影からひそひそ声が聞こえることはない。

無理に作った笑い声も、意味深な視線もない。

ただの、眠そうなクラスメイトたち。

宿題の話をしたり、スマホでミームを見せ合ったり。


「……ああ、平和って、いいな。」


休み時間。

アケミは校舎裏の庭に向かった。

そこには、時々ユメが座って本を読んでいることがある。


今日もいた。


スカートを風に揺らし、使い古された本のページに目を落としていた。


「ユメ。」

アケミはそっと声をかけ、隣に腰を下ろした。


彼女は顔を上げ、柔らかく笑って本を閉じる。


「今日も……誰にも追われなかったんでしょ?」

唇の端に少しだけ、からかいの笑み。


「一人も。昨日から、ずっと。まるで消えたみたいだ。」

アケミはため息をつく。


「不安?」


「最初はな。でも――」

枝の隙間から空を見上げる。

「今は……悪くない。」


ユメは膝を抱えて、頬を乗せる。


「もし本当に、諦めてくれたら?」


アケミは眉をひそめる。

「それが一番、ありえないと思う。」


「じゃあ――なんでそんなに嬉しそうなの?」


すぐには答えなかった。

深呼吸して、静かに呟く。


「疲れたんだよ。平気なふりとか、常に警戒とか……

全部が罠なんじゃないかって考える生活、もういい。静かに暮らしたい。」


ユメは数秒黙って、それから優しく笑った。


「意外と人間っぽい願いね、冷たい顔してるくせに。」


アケミは苦笑する。


「見た目ほど冷たくないさ。」


「知ってる。」

ユメが言った。

「だからかな。今日は、ちょっとだけ“人間らしく”見える。」


二人はそれ以上何も言わず、木陰の風を共有した。

何の変哲もない、けれど不思議と記憶に残るひとときだった。



放課後。

昇降口を抜けると、クラスメイトの一人――コウジが手を振ってきた。

背が高く、髪型は本を途中で閉じたみたいな跳ね方、そしていつもの軽い笑み。


「おーい、アケミ!」


「ん?」


「今度の週末、みんなで出かけようってさ。

ゆるい感じでさ、水遊びとか、映画とか。来る?」


アケミは横目で見た。

笑ってはいたが、どこか不自然な笑み。まるで、稽古したセリフ。


「急に、どうした?」


「ははっ、疑い深いなー」

コウジは後頭部をかく。

「最近ちょっとリラックスしてるみたいだし、いい気分転換になると思ってさ。来る?」


アケミは少し考えてから、うなずいた。


「じゃ、LINE教えて。詳細あとで送るから。」

そう言ってコウジは廊下を歩き去った。

「またなー!」


アケミはその背中を見送り、つぶやく。


「……怪しいな。」


ポケットに手を突っ込み、家への道を歩く。

空はまた曇りはじめ、雨の前のあの金属っぽい匂いが漂っていた。


ポケットの中のスマホが震えた。


コウジからのメッセージ

「場所これな。土曜の12時集合。

あと、水着と着替え持ってこいよ。黒い門が開いてるから、入ってくれ。😏」


アケミは眉をひそめる。


普通の遊び、か? いや、コウジに疑う理由はない……

だが、パターンは知っている。

――嵐の前の静けさ。そして、嵐。


スマホをしまいながらも、胸の奥にわずかな疑念が残る。


ようやく安堵しかけていた心臓が、またじわりと脈打ち始めた。


そして――アケミはまだ知らなかった。

それが、再びクラブ・オブ・ブロークンハーツの盤上に引き戻される一歩目だということを。

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失恋クラブ:絶対にムリな恋愛ミッション!? Inu Roshia @InuRoshia01

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