第12話
気がつくと、乃亜は夜明け前の道路の脇を歩いていた。車のヘッドライトが次々と乃亜を追い越していく。
ズボンのポケットが動いていた。手を入れると、中のスマホが振動している。乃亜は、呆然とスマホを取り出し、応答ボタンを押した。
「悪い、別件で電話に出られなくてな。何かあったのか?」
男の声が聞こえる。
「えーと……」
「大丈夫? 寝ぼけてるの?」
「いや、そうじゃなくて……」
何があったっけ? 頭に霞がかかったようにうまく思い出せない。
「おいおい、俺が誰かわかる?」
「あ……はい。柊木さんですよね。どうもお世話になっております」
「おいおい……しょうがねぇな」
怜司は電話口で何やら唱えると、急に大声を出した。
「わっ!」
乃亜が驚いてよろけると、すぐそばを大型トラックが通り過ぎて行った。スマホが手から落ちて転がる。
えーと、何で私ここにいるんだっけ? ジャージ姿の足元を見ると、スリッパを履いている。
徐々に記憶が蘇る。無我夢中で部屋から逃げて来たらしい。
「おーい、大丈夫かー?」
「だ、大丈夫。思い出しました」
乃亜はスマホを拾い上げながら答えた。
「その様子は、何か見たんだな?」
怜司はなぜか嬉しそうに言った。
「はい……。20万円下さい」
「は……?」
「下さい! 今すぐ下さい!」
「……おいおい、何があったんだよ?」
道路沿いの24時間営業のファミリーレストランで、乃亜はグラタンとハンバーグを食べ、一息吐いた。時計は午前4時を過ぎている。
「こんな時間によく食えるな」
白いTシャツ姿の怜司が呆れたように言う。ラフな格好なのに、だらしなく見えないのは悔しい。
「しょうがないじゃないですか! こっちは幽霊に脅かされっぱなしでお腹減ってるんですから」
「おい、あまりデカい声で言うな。この近所の奴が居るかもしれないんだからな」
怜司は声を潜めてそう言った。
「……お前の話をまとめると、長い髪の男の幽霊が出たんだな?」
「はい。あまり思い出したく無いですが」
乃亜は首が捻れた姿を思い出し、気分が悪くなった。
「えーと……その幽霊は、こいつか?」
怜司はスマートフォンにスーツ姿の男の写真を映した、隣にいる女と肩を組んで笑顔を見せている。長い髪が左目にかかっていた。
「えっ……?」
活気に満ちた表情は、さっきの幽霊とまるで違うが、目鼻立ちは似ていた。
「はい、多分この人だと……思います。もっと陰気だったし、顔も変わってましたけど」
「陽気な幽霊なんて居ねえよ」
怜司は電子タバコを取り出し、手で弄び始めた。
「でも、どうしてわかったんですか?」
「ああ……こいつな。604号室の、前の住人」
「ちょっと……!」
乃亜は勢いよく立ち上がった。
「前に、あの部屋に、住んでた人ですか?」
「そーだよ。結構前だけど」
「あの部屋で、死んでる……?」
「ああ。お前以外にも、こいつの霊を見たって奴がいたよ。行方不明になった、前の住人だけど」
乃亜は眉間に皺を寄せて怜司を睨んだ。怜司は、意に介さずに電子タバコを手でクルクルと回している。
「でも、俺の会社の人間は誰も見てないしな。確信は無いから、『気のせいじゃ無いですか?』って言ったらしいんだけど。まさか失踪しちまうなんてな」
「そういうの、先に言っておいてくださいよ! すっごく怖かったんですから!」
乃亜はテーブルを両手で叩く。
「お前を試したんだよ。それにしても、2日目で幽霊に会えるなんて上出来じゃねえか」
怜司は乃亜の左手を自分の両手で握って引き寄せた。
「信じてたぜ。お前ならできると思ってた。俺のためにも頑張ってくれ」
上目遣いで、口元に優しげな笑みを浮かべる。
「やめてください、そういうの!」
乃亜は手を振り払った。
「柊木さんの為にバイトしてるわけじゃないです! 20万円下さいよ、早く! もう辞めますから!」
そう言って手の平を突き出した。
「あれ? 今は払えないよ」
怜司は電子タバコをポケットにしまう。
「何でですか! 言ったじゃないですか、『何かあったら追加で20万円払う』って!」
「俺は、『一週間あのマンションで過ごしたら』って言っただろ?」
「えっ……」
言われてみると、確かにそうだったかもしれない。
「追加の20万円だけ今渡すわけにはいかねえよ。今バイトを辞めるなら、バイト代は0円だ。……しかし、8日耐えたら追加分と合わせて40万円だぜ? どっちが得かは、猿でもわかるよなぁ?」
怜司は意地が悪そうにニヤニヤと笑った。
「う……」
そう言われたら、我慢するしか……。乃亜は腕を組んだ。
「でも! あのマンション、今もバリバリ幽霊が出てるるんですよ! リビングまで出張してくるし、風呂だって覗かれそうになっんだですからね!」
思い出すだけで寒気がする。
「まさか、幽霊と同居しろって言わないですよね!?」
「その幽霊、クローゼットにいたんだろ?」
「そうですけど、リビングにも出たんですってば!」
「……その住人はクローゼットで首を吊って死んでたそうだ」
怜司は乃亜の言葉を遮った。乃亜は、また男の霊を思い出して顔をしかめた。
「だから、そこに念が残っている可能性が高い」
「やっぱり、あの夢は本当にあったことなんですかね……」
乃亜は首を傾げた。
「何のことだ?」
「私、クローゼットの幽霊を見る前に、変な夢を見たんですよ。最初の方はよく覚えてないんですけど、最後に何か怖いものが604号室に入って来て。寝室まで逃げた、男の人を……」
「殺したってのか」
乃亜は無言で頷いた。
「……どうやって?」
「えーと……」
乃亜は腕を組んだ。どうやって殺されたのかが思い出せない。
「わかりません」
本当に思い出せなかった。
「おいおい、肝心なところはわからねーのかよ……」
「しょうがないじゃないですか! でも、何かがやって来たのは間違いないんですよ!」
乃亜はテーブルを挟んで前のめりで言った。
「信じないとは言ってねぇだろ……。けどよ。それだけじゃ、何とも言えねーな」
不満そうな乃亜を尻目に、怜司はコップの紅茶を飲み干した。
「とりあえず、引き続き様子を見てくれ」
「ちょっと! あの幽霊どうすればいいんですか!」
乃亜はテーブルを叩いた。
「落ち着け、俺に考えがある。今日は、朝までここで時間を潰せ。日が暮れる前に、何とかしてやるよ」
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