第11話

 暗い森の中を歩いている。辺りには虫の声がするが、男の歩みに合わせて、虫が鳴き止む。空には大きな月が、木々のてっぺんを照らしていた。


 舗装された道はないが、不思議と歩くのに苦労しない。自分はなぜ歩いているのだろう。理由はわからないが、とにかく歩き続けなければならない。何者かにせき立てられるように、男は歩き続けた。


 いつからこうしているか、なぜこうしているのか憶えていない。男は無意識に胸のポケットを探った。手帳に、日記を書いていたはずだ。毎日、工場での肉体労働を終えて帰ると、一人で発泡酒を飲みながら日記を書くのが、男の習慣だった。

 もう何十冊目書いたかわからない。最後のページまで埋まると押し入れに放り込んで、新しい手帳に書き込んできた。おそらく、読み返すことはもう無い。


 どうせ碌なことは書いていないのだから、シラフの時に読んでも気が滅入るだけだ。自分を虫ケラのように扱う上司の愚痴や、金払いがいい時だけ媚びる、飲み屋の女への恨み言が並んでいるだけだ。


 ……しかし、それでも手帳が無いのは落ち着きが悪い。それに、もう思い出せないが、この森に来た時のの記録が残っているかもしれない。

 立ち止まって、ポケットを探る男の右手の親指が無かった。

 なぜ、指が無い? ……それに、俺には仲間がいたような気がする。


 『ススメ……ハヤクシロ』


 何者かの声が頭に響く。男は、思い出したように歩き始めた。

 手帳が、どこにあるのかはわかった。あいつが教えてくれるから。場所がわかれば、物理的な距離は関係ない。男は自分がその気になればすぐに『そこ』に行ける事がわかっている。もう、自分は生きていた頃とは違うのだ。


 糸を手繰り寄せるように念じると、次の瞬間、男はそこに居た。

 どこかのマンションの一室のようだ。リビングは、男の住んでいた築60年のボロアパートの3倍はあった。結局、借金が払いきれなくなってその部屋も追い出されたが。


 広いキッチン、大きな革張りのソファー、大画面の壁掛けテレビ。男がどれだけ働いても手に入らないものだ。ソファーには、下着姿の若い女がうつ伏せになっていた。


「おい、さっきチャイムが鳴ったよな!?」

 奥の部屋から、掠れた男の声がする。

「うーん……配達じゃない?」

 女が、スマホをいじりながら答える。30歳ぐらいだろうか、少し下品な顔だが、肉感的な女だった。

 側のテーブルには、怪しげなクスリが散らばっていた。


 男は腹が立った。なぜ俺がゴミ溜めみたいな部屋にすら住めないのに、こんな豪勢なマンションで享楽に耽っている人間がいるんだ。世の中不公平じゃないか。


 男は、部屋の中に進んだ。寒い、猛烈に寒い。この部屋は冷凍庫並みに冷房をかけているのか? ふらふらとソファーに近付いた。


 うつ伏せに寝た女のうなじが見える。この女の背中に触れたら、暖かそうだな。ゆっくり手を近付けると、ぼんやりした眼で、女が突然の侵入者を見上げた。


「ぎゃああああ!」


 女は男の姿を認めると、大きな悲鳴を上げて脱兎の如く逃げ出した。玄関のドアが開閉する音が聞こえた。


 男は目で女の後ろ姿を見ていたが、追いかけなかった。残念だとは思うが、仕方がない。それより……憎むべきは男だな。


「どうした?」

 玄関の反対側のドアから、上半身が裸の男が出てきた。長い髪が、背中までかかっている。若いのに、腹には贅肉がたっぷりと付いていた。


「うわあああああ! なんだお前!」

 若い男は、その場で腰を抜かした。

「く、来るな! 化け物!」

 若い男は、床に尻をつけたまま後ずさる。腹回りの脂肪がだらしなく揺れた。侵入者がゆっくり歩みを進めると、男は奥のドアを開けて部屋に逃げ込んだ。


 だが、侵入者は簡単にドアを開けて寝室に入った。

 若い男は、クローゼットに身を隠そうとしていた。


「うわあああ、来るな、来るな! 俺が何したって言うんだよ!」

 若い男は、クローゼットの中にあった小型のダンベルを投げつけてきた。しかし、ダンベルは空を切って床に落ちた。

 この野郎! 侵入者が怒りの声を上げると、若い男はクローゼットの中の壁に背中を打ちつけた。


「た、助けて! 助けてください!」

 若い男は涙と鼻血を流しながら許しを乞うた。

「お願いします! 命だけは助けて!」

 侵入者は邪悪な笑みを浮かべた。

 俺の半分ぐらいしか生きてないくせに、社会的に成功した人間が、床に這いつくばって命乞いをするのは気分がいい。


 ……しかし、俺はなんでこの男を痛めつけて楽しんでるんだろうな? 俺がここにきた理由は……。


「助けてください!」

 若い男は頭を床に擦り付けている。

 ……こいつを殺すほどの理由が、俺にはあるのか?

 侵入者は若い男を見下ろし、立ち止まる。


 『ダァメ!!!』


 獣のような咆哮と共に、侵入者の背後の暗闇から長い手が伸びて若い男の首を掴んだ。男の悲鳴が、寝室に響いた。



 乃亜は目を開いた。ベットサイドの時計を見ると、午前2時30分を指している。心臓が激しく脈打っている。

 妙に生々しい夢を見た。さっきの夢に見たマンションの一室は、604号室に違いない。そして、男が襲われたのは……この寝室だ。


 乃亜はすぐに体に違和感に気付いた。首から下が動かない。金縛りにあっている。体を起こそうとしても、腕を上げようとしてもびくともしなかった。嫌な予感がする。そして、その予感は的中した。


 腐った臭いが漂ってくる。鼻を押さえたくても手が動かない。

「うぐ……が、あ、あぁ……」

 ベッドの右の方から、男の声が聞こえて来た。


 わずかに動く首と、眼球を右に向ける。すると、クローゼットのドアが動くのが見えた。ドアは内側からガタガタと揺れてて、やがてゆっくりと開いていく。目を逸らしたくても、できなかった。


 ドアが徐々に開きやがて、不自然に座った姿勢の、長い髪の男の後頭部が見えた。その頭が、少しずつ回って乃亜に向き直ろうとしている。


 嫌だ、見たくない! 乃亜はそう心の中で叫んだが、目を閉じることも言葉を発する事も出来なかった。

 やがて男の頭が乃亜の方を向いた。男の首にはベルトが巻かれて、クローゼットの金属製の棒に結えられていた。


 男の顔は苦悶に歪んで目は見開き、大きく開けた口から舌が垂れている。しかし、一番異様だったのは、首が絞った雑巾のように捻れている事だった。首を何度も力任せに回転させられたように。男の首が正面を向いているのに、体は真後ろを向いていた。


 棒が歪んでいたのは、こいつのせいだったのか。

 理解した瞬間、乃亜は大声で叫んだが、その言葉は宙に消えた。


 男はベルトで作った輪を首から外すと、乃亜のベッドににじりよってきた。

「ぁ、ぁ、が……」

 男は言葉にならない声を上げながら、少しづつ近づいてくる。腐臭が強くなり、鼻がおかしくなる。


 来るな!来るな! 乃亜は必死に心の中で念じた。

 男はベッドのそばまで来ると、男は体を起こした。立ち上がると、捻じ折れた首を両手で支える。


 右目と左目は反対方向を向いて、口からは涎と血が混じった液体が垂れ落ちていた。涎が、顔のすぐ横の枕に落ちる


「が、え、れぇ!!」

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