高度一万メートルのバードストライク
うつぼ
高度一万メートルのバードストライク
高度一万メートルで旅客機は空を飛ぶ。そのスピードは五〇〇ノットに及び、大気がマイナス五〇度に凍りつく。旅客機の外は極寒の世界だ。彼は窓からの景色を見る。そして、彼女を探した。空を泳ぐ死体と噂される彼女を。
目の前を通り過ぎる看護師が軽く彼に会釈をした。言葉はかけてこない。ということは今日も妻はベッドで変わらずに眠っているということだ。変わり映えのない壁と天井が廊下に沿って真っすぐに伸びている。突き当たりを右に曲がれば、妻の病室がある。
「ただいま」
彼は意識的にも大きな声を出した。病室にただいまと言うのも変であるが、この声が、この言葉が妻に届けばいい。そんな祈りから自然と言葉が出る。もちろん妻は何も答えない。いつもと変わらない景色に絶望しながらも、妻が眠るベッドの傍らに腰掛ける。
「今日も忙しかったよ」
今日の仕事のことを妻に話す。許される範囲で脚色された同僚の冗談話に妻は相槌すら打つこともなくただ眠っていた。
彼の妻は脳下垂体劣化による抗重力ホルモン欠乏症と診断された。抗重力ホルモンという言葉もそんな病名も聞いたことがない。人間だけではなく、あらゆる生物が持つ生命機能維持のため、様々なホルモンを分泌する。このホルモンはそのうちの一つだと説明された。地球上に生きとし生けるもの、全ての存在を呪縛する重力という鎖。重力は生物の筋肉に負荷をかけ、それを形成する細胞を錆びさせ、劣化させる。その重力に対して生命機能維持を目的とし、細胞の錆びと劣化を防止するために脳下垂体から分泌されるホルモン。それを抗重力ホルモンと言う。
妻に起きた脳下垂体劣化は先天性ではない。発症するまで全く普通に生活を送っていた。「なんかおかしい」と身体の違和感を訴えた妻を病院に連れていく。その原因はすぐには分からない。検査を行い、入院と通院を繰り返す。妻の症状、身体の違和感は完全なる痺れとなり、最終的には四肢の麻痺となる。それでも妻は笑っていた。「ただ箸が持てないだけよ」と。右手で箸を持つという行為、当たり前にできるはずのものができなくなる。そんな当たり前の行為を失った妻に失意の感情が溢れているのが分かる。この笑い顔も彼を心配させない妻の配慮だった。
全身に広がっていく麻痺。何故に。主治医に彼は原因を詰め寄った。主治医は困った顔をするしかなかった。
妻がベッドから自分で起き上がることができなくなった頃、幾度と繰り返し重ねた検査結果から主治医が言う。「奥様は脳下垂体の劣化による抗重力ホルモン欠乏症です」と。
検査で脳下垂体から分泌されるべく抗重力ホルモンが存在しないことが分かった。笑うことが好きだった妻。抗重力ホルモンの枯渇が普通に歩き、普通に笑うという妻の日常を奪っていく。
今妻は病院の白いベッドで人工呼吸器に繫がれたまま、生きている。その妻を献身的に介護し、絶望だけが積み重なる。疲れ果てた彼に主治医が語りかける。
「一度この先生に話を聞いてみては。ただし、あまり希望を持たないように」、治療法の確立されていない病気にどう希望を持つのか。絶望を抱えたまま、その足を紹介された医師の元へ向けた。
そこは小さな病院だった。いかにも流行っていない。そこにいる医師は主治医からもらった手紙にゆっくりと目を通す。
「辛かったですね」、言葉は彼の心に寄り添うように語りかけられる。
「抗重力ホルモンが分泌されれば、改善ができる。しかし、今はそのホルモンは体内でしか生成されない」
「じゃあ、どうすれば」
「現代の医療で解決ができる病気ではない。一〇年すれば、医学も進歩し、抗重力ホルモンの生成も可能かもしれない。しかし、今ではない」
「もういいです」
無意味だった。絶望を完全肯定する言葉にうなだれる彼。
「こんな話があります」
医師はある薬剤メーカーの話を始めた。
抗重力丸とはある薬剤メーカーが開発した。人は美しい肢体を求める。しかし、人は錆び、劣化する。筋肉がたるみ、美しくない肢体に誰もが到達する。年齢を経た結果だけではない。若かろうと、年寄りであろうと起こり得る現象だ。
理論上、筋肉を形成する細胞が錆びること、劣化することがなければ、年齢を重ねようと、不摂生で自堕落な暮らしを送ろうと、モデル並みの美しい肢体を維持することは可能だ。
そのために開発されたのが抗重力丸である。
抗重力丸の被験者となった彼女。彼女は醜悪な肢体を持っていた。その姿は誰もを不快にさせる。全身を覆うたるんだぜい肉。ぜい肉の塊が歩いていると言っていい風体だ。ただ歩くという行為すら息が上がる彼女。血液検査の結果から判明した抗重力ホルモンの低値。異常に低い値が身体に影響を与えている。それが筋肉を形成する細胞を錆びさせ、劣化させる。たるんだぜい肉が全身を覆う原因が抗重力ホルモンの異常な低値にあることは明確であり、抗重力丸の治験者として最適な存在であった。
薬剤メーカーが開発した抗重力丸とは人工的に生成された疑似抗重力ホルモン。投与することで全身の筋肉に疑似抗重力ホルモンが行き渡る。抗重力丸を投与した結果、彼女の醜悪であった肢体が日々変化する。地球からの重力の呪縛が解放され、僅か数日、数週間でぜい肉は溶けるように消える。残る筋肉はみずみずしく、張りがある。彼女が歩くとアスファルトで舗装されたただの道路もレッドカーペットに映るほどだ。
数日、数週間で劇的な変化を見せる肢体、抗重力丸の効果は絶大で誰もが簡単に美しくなれることを証明した。
薬剤メーカーは美しい肢体の維持のため、抗重力丸の投与量を調整し、ケアをしていた。彼女は毎日鏡を見る。モデル並みにデザインされた美しい肢体にうっとりする。だが、気づく。昨日より一ミリ乳房が下を向いている。一ミリ尻がたるんでいる。彼女をよぎる過去の醜悪な自分。もう戻りたくない。街を歩けば、美しさに誰も振り返る今の自分を失いたくない。彼女は薬剤メーカーより指示された投与量以上の抗重力丸を自らの意思で摂取する。
過剰に摂取された疑似抗重力ホルモンにより彼女の肢体は変化する。美しく、より美しくなる肢体を毎日鏡で確認する。
それは突然訪れた。抗重力丸の過剰摂取による副反応。窓枠に手をかける彼女、肢体がその軽さにふわりと浮いた。重力から解放され、彼女の美しい肢体は空を舞う。遠ざかるアスファルトの上で自動車がミニカーに、人間が豆粒になっていく。彼女が高度一万メートルに達した時、すでにその呼吸は止まっていた。マイナス五〇度の世界で彼女は凍りつく。重力という呪縛から解放された彼女はそのまま空を流れ続けた。
空を泳ぐ死体の正体は抗重力丸を過剰摂取した治験者。その治験結果により抗重力丸の開発は中止せざるえなかった。
「その薬剤メーカーも潰れ、抗重力丸の生成方法は誰も分からない」
医師はいつか同様の効果がある薬が開発されるかもという希望を含めてこんな馬鹿げた話をしたのだろう。
この世界のどこかに空を泳ぐ死体があるという噂。彼はそんな噂を知っていた。飛行機から目撃される数多くの証言が抗重力ホルモンの過剰摂取により空に消えた彼女と重なる。
妻に抗重力丸さえあれば。
彼は思い、祈る。
彼は空を泳ぐ死体を手に入れることを心に決めた。彼の仕事は航空路管制業務だった。だから、空を泳ぐ死体の噂を知っていた。全て偶然であるが、それは必然にも思えた。この日より彼の希望は空を泳ぐ死体へと向かっていく。
機長、副機長、キャビンアテンダントら同僚から空を泳ぐ死体の噂をかき集め、部屋に世界地図を作る。空を泳ぐ死体が目撃された地点に点を打ち、線でつなぎ合わせる。
日々病気が進行する妻。いずれ人工呼吸器での呼吸すら困難になるだろう。時間がない。時間がない。
バードストライクとは航空事故の一つだ。鳥の生息域と飛行機の航空域が重なる領域で起きる。飛空する鳥がコクピットのキャノピーを割り、エンジン部分に入り込み、飛行機が墜落する。本来、鳥の生息域は低空であり、離陸時、着陸時に起きることが多い。
空を泳ぐ死体が目撃されるのは常に高度一万メートルを飛行する飛行機からだ。高度一万メートルの世界はマイナス五〇度の極寒の世界。それ故に生物が存在するはずがない。もし、高度一万メートルの世界でバードストライクが起こるのならば、それは鳥ではなく、空を泳ぐ死体が飛行機と衝突したということだ。
脳下垂体劣化による抗重力ホルモン欠乏症の妻とともに歩き、笑うため、高度一万メートルの世界でバードストライクを起こし、抗重力丸を手に入れる。一筋の希望が加速していく。
十数年の月日と彼の執念が辿り着いた結末。世界地図に記された空を泳ぐ死体の軌跡。空を泳ぐ死体は必ずこの一点を通るということが証明された。そこに飛行機の航空路を合わせれば、高度一万メートルで起こるはずのないバードストライクが起きる。
彼は管制塔のシステムで空を泳ぐ死体が流れる軌跡と旅客機の航空路を確認する。このままの航空路であれば、この旅客機は必ず空を泳ぐ死体と衝突する。あり得ない高度一万メートルのバードストライクが起きるのだ。決してアラートが発生しないよう管制塔のシステムに細工を施した。レーダーに映る旅客機は思い通りの軌跡を辿る。あと少しあと少しで辿り着く。彼は何事もないように仕事場を後にした。これから起こる高度一万メートルのバードストライク、旅客機が墜落するべき地点へと車を走らせるために。
旅客機には一〇〇人の乗客が乗っていた。仕事帰りのビジネスマンはノートパソコンで契約書を作成する。楽しい家族旅行の帰り道に子供が疲れ果て眠る。最後の飛行機旅行と老夫婦はこれまでの人生を振り返る。キャビンアテンダントはすっと背筋を伸ばし、笑顔で乗客の状態を確認する。機長と副機長はプログラム通りに動く旅客機を人の手で微調整し、操作する。これから起きること。高度一万メートルのバードストライクのことなど知る由もなく。
彼が辿り着いた場所、民家もなく、ただっ広い荒野。ここに旅客機とともに空を泳ぐ死体が落ちてくる。もうすぐだ。もうすぐ妻とともに笑い歩くことができる。
真っ黒い空に炎の帯が伸びる。それは空を駆ける龍のよう。旅客機が轟音をたて、炎をあげ、落ちてくる。その機体が傾き、翼が地面を抉る。彼はキャノピーに突き刺さる美しく笑う彼女を見た。高度一万メートルのマイナス五〇度の世界で泳ぐ彼女が突き刺さっていた。
何もない荒野に墜落した旅客機と燃え盛る炎に溶けることのない空を泳ぐ死体。彼は走り出し、彼女を引きずり出す。炎で手が焼ける。彼女で手が凍りつく。ようやく手に入れた空を泳ぐ死体、いや、抗重力丸。一〇〇人の乗客の生命などどうでもいい。救助活動することなく、彼は車でその場を走り去った。ああ、これで妻が笑ってくれる。彼はそう呟いた。
了
高度一万メートルのバードストライク うつぼ @utu-bo
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