世界の、こちら側
或図 けい
~時給800円の在宅ワーク。それは、世界を救う、片手間仕事でした~
佐藤美咲、三十五歳。主婦。
アスファルトの匂いがまだ生乾きの深夜二時。夫と小学四年生の息子・翔太が立てる規則正しい寝息だけが、彼女の世界のBGMだった。それは一日という名の灰色のタスクリストを全て消化しきった者にだけ与えられる空っぽの時間。冷蔵庫の低いモーター音だけが時を刻んでいる。
食器乾燥機が鎮魂歌のような電子音を鳴らした。それを合図に、彼女は死んだように重い身体を引きずってリビングの片隅へと向かう。彼女の城。彼女だけのワークスペース。数年前に買ったノートパソコンの天板には、いつか翔太が貼ったヒーローのシールが色褪せてこちらを見ていた。
美咲は電源ボタンを押す。青白い光が彼女の疲れた顔を照らし出した。
お気に入りに登録されたクラウドソーシングサイト「エニシング・ワークス」を開く。
『あなたのスキルで社会と繋がる』
その言葉がちくりと胸を刺す。家事と育児。誰からも評価されない労働。その無限ループの中で、このサイトは彼女が唯一自分の価値を確認できる場所だった。時給800円にも満たない自己肯定感の自動販売機。しかし今の彼女にはそれが必要だった。
その日、彼女の目に留まったのは見慣れない案件だった。
【急募!学術研究用のデータ補正作業。高単価、完全在宅】
クライアント名は「管理者」。アイコンは黒く塗りつぶされていた。
怪しい。そう思った。しかし「高単価」の三文字が彼女の警戒心を麻痺させた。守秘義務の契約書に機械的にチェックを入れ「応募」をクリックする。
一秒も経たずに返信が来た。
『採用させていただきます。つきましては、第一のタスクを送付します。』
早すぎる。その非人間的なレスポンスに背筋が少し冷たくなるのを感じながらも、彼女は送られてきたファイルを解凍した。
「task_01.wav」
ヘッドフォンをつけ、再生ボタンを押した。
耳に流れ込んできたのは音ではなかった。それは死んだ世界のラジオが拾った砂嵐のようだった。時折混じる耳鳴りのような金属音。そしてその奥で何かが蠢いている。胃の底を直接撫でられるような不快な低周波。
指示書は簡潔だった。
「この音声ファイルから、3秒周期で現れる特徴的な音波パターンを特定し、その波形を書き起こしてください」
学術研究。一体何なの。
だが時給3000円超。思考はそこで停止した。
無料の波形編集ソフトを立ち上げる。彼女の夜の内職が始まった。
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――その瞬間、異世界『アルカディア』では絶望が支配していた。
「駄目だ!『死の森』の瘴気が強すぎる!このままでは姫様の命が…!」
「クソッ、森の主である怪鳥『コルウス』を倒すしかないというのに!」
「だが、奴らの弱点である『沈黙の音叉』を鳴らすための古代の詠唱が分からなければどうにも…!」
王国の精鋭である勇者一行は立ち往生していた。希望は王宮の老魔術師が解読を試みている失われた詠唱だけ。
その王宮の一室。宮廷魔術師が青い顔で叫んだ。
「駄目だ…!古文書の損傷が激しく、詠唱の肝心な部分がノイズ(・・)となって読み取れん…!万事休すか…!」
彼が天を仰いだその時。祭壇の神託の水晶が淡い光を放ち始めた。
「――神託が来た!異世界の賢者様からのお告げだ!」
水晶に浮かび上がったのは、何かの波形を写し取った不可思議な図形だった。
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美咲の目はモニターに釘付けだった。
血走った眼球がピクセルの一つ一つを追いかけている。波形編集ソフトの画面に広がるノイズの海。だが、確かにそこには規則性があった。三秒に一度、ほんの一瞬だけ波形が僅かに跳ね上がる。それは生命の兆候というより、システムの異常を知らせるエラーログのようだった。
彼女の仕事は、その微細な山の連なりを正確にトレースすること。地道でひどく骨の折れる作業だった。
しばらくして、背後でリビングのドアが静かに開く音がした。トイレに起きてきた翔太だった。彼は目をこすりながら母親の手元を覗き込む。
「ママ、まだ起きてたの?」
「うん。お仕事もう少しだから。翔太はもう寝なさい」
「……その音、聞かせて」
美咲は少しためらったが、自分のヘッドフォンを外し、翔太の小さな頭につけてやった。翔太は数秒間じっと目を閉じてノイズに耳を澄ませていた。
そして不思議そうな顔でこう言った。
「……ママ、これ、カラスの鳴き声みたいだね。公園でゴミを漁ってるカラス」
「カラス?」
美咲は思わず聞き返した。彼女にはただの不快な電子音にしか聞こえない。
「うん。なんか似てる。……でも、ちょっとだけ違うかな」
「そう。もういいでしょ」
美咲は翔太からヘッドフォンを取り返し、再び自分の耳に当てた。子供の言うことだ。気のせいだろう。彼女は再びモニター上のノイズの海へと意識を沈めていった。
一時間後。彼女はようやく全ての波形の書き起こしを終えた。奇妙なギザギザの線の集まり。彼女はその図形データを「pattern_A.jpg」と名付けて保存し、サイトの納品ボタンを押した。
『納品確認しました。素晴らしい仕事です。引き続き、次のタスクの準備を進めます。』
すぐに管理者からの返信が来た。報酬額の表示はない。この案件は全てのタスクが完了した後にまとめて支払われる契約だった。
美咲は凝り固まった肩を回した。
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――その頃、異世界『アルカディア』の王宮では歓喜の声が上がっていた。
「賢者様からの神託だ!来たぞ!」
老魔術師が震える手で水晶に映し出された波形の図を羊皮紙に写し取っていく。
「しかし、老師よ…。これが本当にあの怪鳥コルウスの詠唱だというのですか?」
若い魔術師の問いに、老師は首を横に振った。
「お前にはまだ分からんか。……これは詠唱そのものではない。詠唱を音として捉えた時の『波形』そのものなのだ!なんと恐るべき叡智…!」
老師は別の水晶を取り出し、写し取った波形をその上にかざした。そして魔力を込める。
ブゥン、と低い音と共に水晶が振動を始めた。それは美咲が聞いていたあの不気味な低周波と全く同じ音だった。
「間違いない...!これがコルウスの鳴き声の基本周波数!ならば、これの逆位相の音波を作り出せば、『沈黙の音叉』が奴らの鳴き声を打ち消し、無力化できるはずじゃ!」
魔術師たちはすぐさま逆位相の音波を作り出し、それを魔法に乗せて前線の勇者一行へと転送した。
死の森。
「来ます!『沈黙の音叉』の魔力です!」
パーティの神官が叫んだ。勇者は頷き、天に銀色の音叉をかざす。
「――鳴れ!『サイレント・フォーク』!」
キィン、と人間には聞こえないはずの音が世界に響き渡った。
その瞬間、勇者たちを囲んでいた無数の怪鳥コルウスたちが一斉に苦しみの声を上げ、バサバサと地に落ちていく。
森に静寂が戻った。
「やった…!やったぞ!賢者様のおかげだ!」
勇者たちの歓声が木々の間にこだました。
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翌日。翔太が学校へ行き、夫も仕事でいない平日の昼下がり。
がらんとしたリビング。テレビの音もつけず、美咲は家事を一通り終え、PCの前に座る。管理者から二つ目のタスクが届いていた。
依頼は「意味のない文字列の羅列の中から、特定の法則性を持つ単語を全て抜き出す」というもの。
彼女の画面に表示されたのは、何十万字にも及ぶアルファベットの川。意味を持たないデジタルなゴミの洪水。その中から、例えば「最初と最後の文字が同じ5文字の単語」といった指定された条件に合致するものを探し出し、リストアップしていく。
子供がいない静かな空間。それはこの手の作業にはうってつけだった。誰にも邪魔されず、彼女は驚異的な集中力で画面に食らいつく。
(見つけた)
(これもそうだ)
(あと一つ…あった)
彼女はそれを機械的な喜びだと知っていた。パズルが解ける瞬間の脳内麻薬。このために、彼女はこの仕事をしているのかもしれない。
数時間後、彼女は指定された全てのキーワードを抜き出し、納品した。
「キーワードリスト.txt」ファイル名は味気ない。
彼女はソファに倒れ込み、そのまま短い眠りに落ちた。
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――その頃、王国の王立図書館。
宮廷魔術師たちは神託(美咲の納品物)を前に歓声を上げていた。
「おお…!賢者様が送ってくださった、このキーワード!間違いない、失われた古代魔法『絶対凍土(アブソリュート・ゼロ)』の起動詠唱(コマンド)だ!」
「まさか、あの意味不明な羅列と思われた古文書から、これだけの神代の言葉を抜き出すとは…!」
「これさえあれば、魔王軍の幹部、火炎将軍も恐るるに足らず!」
彼らはまだ知らない。その魔法が数時間後、魔王城の結界を破るための最後の切り札となることを。
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最後の仕事が送られてきたのは、それから二日後の深夜だった。「最後の仕事です」という管理者のメッセージが、やけに寂しく感じられた。
依頼は「衛星写真の微細な色の違いを識別し、修正する」というもの。
美咲のPC画面に映し出されたのは、広大な砂漠の真ん中にポツンと存在する、巨大な岩山の高解像度の衛星写真だった。
「この岩山には、地質学的に極めて稀な鉱物が含まれており、その影響でごく僅かに変色している箇所が一点だけ存在する。その『シミ』を特定し、周囲の岩肌と全く同じ色(カラーコード:#C3B091)に修正せよ」
彼女は写真を最大限に拡大した。ピクセルの塊になるまで拡大し、しらみつぶしにその「シミ」を探し始める。それはもはや間違い探しというより、苦行に近かった。
「……ママ、まだ起きてるの?」
また翔太だった。今夜は寝付けないのだろうか。
「翔太、もう三時よ。早く寝なさい」
「うん…。ねえ、今度は何してるの?」
翔太は眠い目をこすりながら画面を覗き込む。
「この写真の中にある小さなシミを探してるのよ」
「シミ…?」
翔太は画面に顔を近づけ、目を細めた。そしてある一点を指さして言った。
「……ここ?」
美咲は翔太が指さした箇所を見た。確かに、言われてみれば、周囲よりもほんの僅かに青みがかって見える、数ピクセルほどの領域があった。
「本当だ。よく見つけたわね、翔太」
「……ねえ、ママ。このシミ、なんだか人の顔みたいに見えない?泣いてるみたい」
「え?」
美咲はもう一度その部分を拡大した。ただの色の塊にしか見えない。
「そんなわけないでしょ。さあ、今度こそ本当に寝なさい。明日起きられないわよ」
「……うん」
翔太は渋々寝室へと戻っていった。
美咲は息子の言葉を頭から追い出し、作業に戻った。彼女はスポイトツールで周囲の色を正確に抽出し、翔太が見つけたその「泣いている顔」のようなシミを丁寧に、そして無慈悲に塗りつぶしていく。
完璧に周囲と同化したのを確認し、彼女は修正後の画像を納品した。
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――その瞬間。魔王城の最深部で異変が起きた。
「なんだ!?結界の魔力が急速に低下していく!」
魔王軍の幹部が叫ぶ。彼らの城は、古代の精霊の力を宿した『嘆きの涙石』によって生成される絶対防御結界に守られていた。勇者一行のどんな攻撃も魔法も、その結界の前では無力だったはずだ。
「馬鹿な!涙石の反応が…消え、て…」
ゴゴゴゴ、と城全体が揺れる。そして今まで城を覆っていた不可視の障壁が、ガラスのように砕け散る音が響き渡った。
城の外で好機をうかがっていた勇者一行。そのリーダーが叫んだ。
「結界が消えた!理由は分からん!だが天が我々に味方した!総員、突入せよ!魔王を討つのは今だ!」
王国軍の雄叫びが大地を震わせた。
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『全タスクの完了を確認しました。素晴らしい仕事ぶりに感謝します。これにて本案件は終了となります』
管理者からの最後のメッセージ。
美咲はふぅと長い息を吐き、椅子に深く身体を預けた。終わった。この数日間、彼女を夢中にさせた奇妙で、しかしやりがいのある仕事が。
達成感と同じくらいの寂しさが胸に広がる。もうあの意味不明なノイズを聞くことも、衛星写真を睨めっこすることも、ないのだ。
(さて、一番のお楽しみね)
彼女は気分を切り替え、エニシング・ワークスのマイページを開いた。報酬の確認。これがあるから頑張れる。
彼女は報酬確定のタブをクリックし――そして固まった。
そこに表示されていた数字に、ではない。その単位に、だ。
【案件名:学術研究用のデータ補正作業】
【確定報酬額:500,000ゴールド】
「……ゴールド?」
声に出して呟く。
見間違いか?いや、何度見ても「ゴールド」と書かれている。ゲームの通貨じゃあるまいし。システムの表示エラーだろうか。
彼女は震える手でサイトの問い合わせフォームを開いた。
『お世話になっております。先日完了しました「学術研究用のデータ補正作業」の報酬についてですが「500,000ゴールド」と表示されています。これは何かの間違いではないでしょうか。ご確認お願いいたします』
送信ボタンを押す。
深夜三時半。返信は明日の朝になるだろう。そう思った矢先だった。
チャットウィンドウがポップアップし、すぐに返信が来た。
『お問い合わせありがとうございます。エニシング・ワークス、カスタマーサポートです』
そのやり取りをいつの間にか再び部屋に入ってきていた翔太が、静かに背後から見つめている。
『あっ、お客様。大変申し訳ございません。』
続く文章に、美咲は目を疑った。
『あっちの世界の案件が混ざってましたか…報酬はきちんと日本円のレートに変換しますので、ご安心ください。…それから、この件はくれぐれも他言無用で。』
あっちの世界?
日本円のレート?
他言無用?
美咲の思考が完全に停止する。
そのチャットメッセージを最後に、案件は彼女のページから完全に消え去っていた。美咲はただ呆然とディスプレイを見つめる。
その夜、彼女は一睡もできなかった。
翌日の午後。
学校から帰ってきた翔太は、ランドセルを床に放り出すなり、リビングの共用パソコンの電源を入れた。マウスを握り、検索窓に向かって彼は独り言のように呟く。
「えーと、確か、エニシング・ワークス、だったけな?」
その呟きをキッチンで聞いていた美咲は、手にしていた皿を取り落としそうになった。翔太はそんな母親には全く気づかず、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。
世界の、こちら側 或図 けい @aruzukei
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