第7話
それからしばらく沈黙が流れた。
紗奈は涙を拭いながら、感情的になってしまったことを反省していた。
「紗奈ちゃん、『Sanuk』の意味、知ってる?」
場の空気を変えるように、穏やかな口調で不意に琉生が尋ねる。
「え? ……はい。楽しいとか、楽しむって意味ですよね?」
思わず顔を上げて答えると、琉生が嬉しそうに優しい笑みを浮かべた。
「さすがだ。調べてくれたんだね」
「はい。お店の名前なんで、気になって」
琉生は頷くと、ふと視線を遠くに向けて言った。
「こっちで生活して思ったんだ。今でももちろん、いろんな意味でこの国には魅力を感じる。だけど、こっちで一生暮らす覚悟は、僕にはないみたいだ」
紗奈は意味を理解できず、琉生の顔を覗き込むようにして問いかける。
「どういうことですか?」
琉生は視線を泳がせながら、照れ隠しのように微笑んだ。
「それは……君に出会ってしまったから、かな」
琉生の言葉が、ゆっくりと胸に染みていく。
「琉生さん……」
ぎこちなく差し伸べられた琉生の手を、紗奈は両手で包み込むように握った。
「恋愛はしないって決めてたんだ。いずれ、こっちに住みたいって考えがあったから」
「そうだったんですか」
紗奈は小さく頷きながら、夢を語っていたあの日の琉生の顔を思い浮かべた。
「でも、徐々に君に惹かれていく自分に気付いて、このままじゃ駄目だって思ったんだ。それで、予定を少し早めて発ったんだ」
琉生がそっと目を伏せ、小さく息を吐いた。
「それは、夢を叶えるために、ですよね?」
「ああ、そうだね。でも……夢が叶ったはずなのに、全然楽しくないんだよ」
不意に、琉生が表情を曇らせた。
「え?」
「君がいないと、心が満たされないんだ」
その一言で、胸の奥がじんと熱を帯びた。
「日本に戻って、また店を始めようと思う。次の夢を叶えるために」
予想外の展開に、驚きと嬉しさで言葉が出ない。
「君が嫌じゃなければ、店を再開したら、また前みたいに時々会いに来てほしいな」
それは、琉生なりに選んで口にした言葉に違いない。けれども、今の紗奈が聞きたいのは、その言葉ではなかった。
「どうしてそんな意地悪な言い方するんですか?」
思わず口にしていた。
琉生の言葉は、いつも少し遠回りをして紗奈に届く。
「あ……いや、そんなつもりじゃないんだ」
琉生が困ったように唇を噛む。その仕草が、紗奈の胸を甘く切なく締め付けた。
「私は、あなたに会いたい一心でここまで来たんです」
それが、紗奈のすべてだった。
琉生が一瞬目を見開き、そして小さく頷く。
「――君が好きなんだ。ずっとそばにいてほしい」
その言葉に、紗奈の心が音を立てて震えた。
「私も、あなたが大好きです」
口にした瞬間、不意に琉生が立ち上がり、紗奈を引き寄せた。
肩にまわされた腕の力強さと、シャツから香るほのかなバニラの匂い。その胸元にそっと顔を埋めると、心が溶けていくのを感じた。そうして、新たに始まる二人の未来に胸を高鳴らせた。
【完】
香りが導くその先に 凛子 @rinko551211
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