終幕後の世界で父となる
錦紫蘇
第0幕 エンディング後のプロローグ
魔王が討たれ、早三百年。
シェンバルト王会国、ヴァルドリア地方・ハルフェン州北西部、ルーネンヴェルト。
そんな小さな町の端。そこに一軒の家があった。
その家に住んでいる男は子供たちの間では人魔大戦、通称・
その男の名はヴァルネス。かつての魔王国第三王国軍、軍団長ヴァルセリオ・ノクターン。その人であった。
聖戦終結から三二七年後。
ジュフランの森。
ヴァルネスは食材集めに森へと赴いていた。
かさり、かさりと、足元の落ち葉が音を立てる。
湿り気を含んだ風が、苔の匂いと共にゆるやかに吹き抜けていった。
ジュフランの森はこの季節、木洩れ日の色もやや青みを帯びる。
ヴァルネスは黙々とキノコの生える場所を巡りながら、片手の籠に数種の薬草と小さな赤果を集めていく。
「……おかしいな」
立ち止まり、彼は耳を澄ませた。
鳥の声がしない。獣の気配もない。
まるで、森が息を潜めているようだった。
不穏な沈黙の中、風の音に混じって、かすかな――泣き声が聞こえた。
「……」
無言で拳を構える。
足音を殺し、音のした方へ向かうと、木々の裂け目から小さな空間が見えてきた。
そこには、一匹の魔獣と、それに背を向けるように倒れ込んだ少女がいた。
白銀の髪、濃い青の外套。その小さな身体は、地面の草と泥にまみれ、肩が小刻みに震えている。
魔獣――ザルヴァル、狼と猿を混ぜたような獣――はすでに襲いかかる寸前であった。
ヴァルネスはため息のように小さく息を吐いた。
「……」
手から放たれた青白い魔法陣が、空中に展開した瞬間、ザルヴァルの身体は宙に浮かび、動きを止めた。
悲鳴すら上げる間もなく、魔獣は光の帯に絡め取られ、静かに、しかし確実にその命を終えた。
魔法が消え、風が戻る。
そして、少女が顔を上げた。
その瞳――紅色に輝く光彩は、ヴァルネスにとって見覚えのあるものであった。
「……ノイエル族、か」
かつて迫害を受けこの大陸から絶滅したとさえ言われた長寿種族。
その血筋が、いま目の前で震えていた。
少女の服は裂け、腕には引っかき傷が残っていた。だが幸いにも、致命傷はないようだ。
その小さな肩はまだ震えており、警戒するようにこちらを見上げている。
だがその目には、怒りも怯えもなかった。
ただ――疲れ果てたような、諦めにも似た光だけが宿っていた。
「……立てるか」
ヴァルネスが問うと、少女はかすかに首を横に振った。
声は出ないようだった。
ため息混じりに、彼は外套を一枚脱いで差し出す。
少女の肩にそっと掛けてやると、その体温がわずかに伝わってきた。あまりにも冷たい。
「……身を隠して、どれほど経った?」
返事はない。ただ、濡れた睫毛の奥の瞳が、かすかに揺れた。
無理もない。ノイエル族、その寿命は一説では数百年にまで及ぶとされており、最長で千五百年生きたやつもいると聴く。
その価値を知る者は今なお後を絶たず、幾度となくその血は狙われてきた。
この子もまた、例外ではなかったのだろう。
しばしの沈黙。
ヴァルネスは少女を軽々と抱き上げる。細い身体は羽のように軽い。
「……もう十分だ。休め」
少女は何も言わなかった。だがその手が、そっとヴァルネスの袖をつかんだ。
その力は弱々しいが、確かに――縋るような温もりを含んでいた。
森の奥、霧の向こうで、遠く鳥の鳴き声が戻り始めていた。
薪をくべた炉が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。
小さな木造の家。薬草の香りと湯気が室内に満ち、外の冷気はすっかり遮断されていた。
ベッドに横たわる少女の額には、魔力によって冷やされた湿布が当てられている。
傍らでヴァルネスが、無言で茶葉を煮出していた。
「……目が覚めたか」
湯気越しに、少女がゆっくりと目を開けた。
その視線が天井から、ヴァルネスへと移る。
「――ここは……?」
「私の家だ。名乗っておこう。ヴァルネス。……それが今の名だ。君は?」
少女はしばらくじっと見つめていたが、やがて、かすかに唇を開いた。
「……ミリアンティア、です」
声はかすれていたが、その名乗りは出来るようだ。
「でも……ミリィ、って呼ばれてました……。」
その声が震えた瞬間、ヴァルネスは何も言わず、手元の湯を一杯のコップに注いだ。
「……ミリィ。まずは、それを飲め」
コップを両手で包むように持ち、ミリィはおそるおそる湯を啜った。
薬草のかすかな苦みと、ふんわりした甘さが喉を通ると、それだけで瞳に涙が浮かんだ。
「……あったかい……」
ぽつりと漏れたその言葉に、ヴァルネスは何も返さず、炉の火をじっと見つめていた。
長年独りで暮らしてきた彼の家に、久しくなかった音。
ミリィはしばらく木椀を抱えたまま黙っていたが、やがて震える指で外套の裾を握った。
「……助けてくれて、ありがとう……」
素直で、まっすぐな礼。だが、彼女自身がそれに慣れていないことが伝わる、かすれた声音だった。
人を信じては裏切られ、隠れては追われ――そんな年月の積み重ね。
「礼を言う相手を間違えたな」
ヴァルネスの言葉に、ミリィは目をぱちくりとさせる。
「……君が助かろうとした。だから助かった。それだけだ」
彼はそう言って立ち上がり、棚の上から乾いたタオルと着替えを取り出した。
少し古びた布だが、少女には十分すぎる温もりだ。
「風呂場に湯を張っておいた。しばらくぶりだろう。ゆっくり浸かってこい」
ミリィは言葉を失い、ただヴァルネスの背を見つめた。
助けた理由も、ここに置く理由も言わず、過度な優しさも見せず――
それでも確かに、拒絶もなく、追い出しもせず、彼女に「居場所」を与えていた。
……それは、ミリィがずっと求めていた何かに、似ていた。
しばらくして
風呂場から戻ってきたミリィは、借りたローブの袖を少し引きずりながら、恐る恐る部屋を覗いた。
ヴァルネスは机に向かい、何かの古文書を開いている。
「……あの、ヴァルネスさん……」
「“さん”はいらん。呼びたいように呼べ」
「じゃあ……ヴァル、」
ミリィは口の中で確かめるようにその名を呟き、それからおずおずと近づいた。
焚かれた薬草の匂いが、かすかに眠気を誘う。
「……ここに、いてもいいの?」
ヴァルネスはページをめくる手を止め、彼女の瞳を一瞥した。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、ほんのわずかに口角を持ち上げて――彼は言った。
「……朝になっても、まだここにいたいなら……そのときに答えるよ」
その夜、ミリィは暖かい布団の中で、久しぶりに深く眠った。
扉の向こう、静かに薪が燃える音がする。
ヴァルネスは炉の火を見つめながら、独り言のように呟いた。
「……ノイエル族……ただの偶然か、それとも……また、面倒なことになるか」
それでも、彼は追い出さなかった。
そしてそれは、彼自身が思っている以上に、大きな一歩だった。
翌朝。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
森の冷気を孕んだ空気はすっかり和らぎ、炉の余熱と魔力の結界が、室内をほどよく保っている。
ミリィは、目覚めてしばらく、天井を見つめていた。
まるで夢の続きかと疑うように。
――布団は柔らかく、身体の節々の痛みもやわらいでいた。
けれどそれ以上に、「誰にも追われていない朝」という現実が、彼女には信じがたかった。
そっと身体を起こし、部屋を見回す。
木の床。棚には乾いたハーブ。窓際には小さな植木鉢が並ぶ。
“普通の生活”の匂いがする部屋だった。
「……おはよう、ございます」
小さく、控えめな声で呟く。
返事はない。
扉を開けてみると、外気がふわりと入り込み、朝露の香りが漂った。
そのまま居間へと向かうと、ヴァルネスはすでに起きていた。
炉に新しい薪をくべ、鍋に朝のスープを温めている。
「……起きたか」
短いひと言だったが、それだけでミリィの胸に、小さな火が灯る。
「……はい」
昨夜よりも、わずかに声がしっかりしていた。
「水場は裏手にある。顔を洗ってから来るといい」
「はい……!」
ミリィは慌ててローブの裾を整え、小走りに扉の方へ向かった。
外へ出ると、霧が森を淡く包み、朝日がその隙間から差し込んでいる。
見たことのない花が咲き、鳥たちが枝で囀っていた。
――追われていない朝は、こんなにも静かで、やさしい。
手桶で顔を洗い、冷たい水に息を吐きながら、ミリィはそっと空を仰いだ。
澄んだ空に、雲がゆるやかに流れていく。
戻ると、ヴァルネスはすでにテーブルを整えていた。
簡素な木製の椅子に、素朴な朝食――野菜と豆のスープ、干し肉のほぐし、そして黒パン。
「……これ、私のぶん?」
「ほかに誰がいる」
ヴァルネスはそっけなく言って、スプーンを手に取った。
ミリィもそっと椅子に腰を下ろし、スープをすくう。
口にした瞬間、目を瞬かせた。
「……おいしい……」
「ただの保存食の寄せ集めだ。味を期待するものじゃない」
そう言いつつも、ヴァルネスの鍋捌きは妙に手慣れていた。
ミリィは何も言わず、それでも嬉しそうにスプーンを動かした。
やがて食事が終わると、ミリィはおずおずと口を開く。
「……昨日の答え、してもいいですか?」
ヴァルネスは一瞬だけ、彼女に視線をやった。
「まだ、ここにいたいか?」
ミリィは迷いなく、こくんとうなずいた。
その瞳には、夜明けの色が宿っていた。
「……じゃあ、そうしろ。とくに用がない限り、私は口出しはしない」
「うん……ありがとう」
そうして、ふたりの生活は始まった。
――小さな家の、小さな朝の食卓から。
世界の喧騒から遠く離れた、静かな森の中で。
終幕後の世界で父となる 錦紫蘇 @coleus
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