窓辺のバター
乃東 かるる
気まぐれな訪問者
その猫は、近所で「バター」と呼ばれていた。
毛並みは薄いクリーム色で、太陽の光を浴びると、ツヤツヤと輝く毛並みは本当にバターのようにとろけそうに見える。どこかのおうちの飼い猫というわけでもなく、人懐っこくて、日によって現れる場所も違った。
ある日、わたしのアパートのベランダにも、バターがやってきた。
ちょうど休みの日の午後、洗濯物を干していたら、フェンス越しにふわっと現れて、目が合った。
「……こんにちは」
声をかけると、バターはまぶたをとろりと下げて、にゃあとひと声鳴いた。
それが最初のあいさつだった。
それから、バターは時々わたしの部屋に来るようになった。窓の外に座ってこちらを見ているときは、そっと窓を開ける。入ってくるかどうかは、バターの気分しだい。気まぐれだけど、彼なりに礼儀正しいところがあって、いきなり飛び込んだりはしない。
窓の前に佇み、家主が「どうぞ」と言わない限り入ってこない。
部屋に来た日は、窓辺のクッションにちょこんと座って、丸くなる。
わたしは隣でコーヒーを飲んだり、本を読んだり。
ふとバターを見ると、目を細めて、こっちを見ている。
「なんだい、バター」
声をかけると、にゃあと鳴いて、尻尾をピンっと立てた。その日の午後は、世界が少しだけやわらかくなる。
***
ある日、バターは部屋に入るなり、テーブルの上に置いたみかんを、ちょいちょいと前足で転がし始めた。
すぐ落ちるだろうと思ったら、意外と器用で、右に左に、見事なドリブル。
でも途中でごろんと寝そべって、そのままぷすんと電池切れのように眠ってしまった。
「なにその遊び方……」
思わず笑って写真を撮ると、シャッター音でむくりと顔を上げて、まばたきを一つ。
その顔が、ちょっとむくれてるように見えて、また笑ってしまった。
***
雨の日には、バターは来ない。
けれど、一度だけ大雨の日に、ずぶ濡れのバターが窓の下に立っていたことがある。
「どうしたの!? 風邪ひくよ!」
急いでタオルを持って窓を開けると、バターはちょこんと中に入ってきて、わたしの足元に丸くなった。
そのままタオルで拭いてやると、心なしか喉を鳴らしているような音がした。
「……んもー、こういうときだけ甘えるんだから」
それ以来、雨が降ると、窓の外を何となく見てしまうようになった。
来ないとわかっていても、つい、見てしまう。
***
近所の人に言わせれば、「あの子は、気に入った人のところにだけ行くのよ」とのこと。
だからといって私が特別なわけではない。バターは、誰のものでもないから。
冬が近づいてきたある日、バターが来なくなった。
冷たい風が吹きはじめて、窓辺のクッションが空っぽのままになると、部屋の静けさがやけに身に染みた。
もしかして、どこかへ行ってしまったのかもしれない。
それとも、誰かの家に本当の「おうち」を見つけたのかも。なんだかとても寂しくなってしまった。
そう思っていた、ある雪の朝。
窓の外に、ふわりとクリーム色の影が見えた。
目をこすると、そこには、雪を鼻にちょっとだけつけたバターがいた。
「……バター!おいで!寒いでしょ?」
窓を開けると、にゃあと鳴いて、バターは一足飛びで部屋に入ってきた。
雪の粒をはらいながら、いつものクッションに座り、丸くなる。
わたしはコーヒーをいれて、そっと隣に座った。
すると、バターが一度だけ、わたしの膝に前足をのせてきた。
あたたかくて、やわらかくて、胸の奥がじんわりと溶けた。
凍える朝に、バターがいる。
まるで冷えたフライパンに落としたひとかけらのように。
じゅう……と音はしないけれど、あたたかさだけが、確かに広がっていく。
なぜか涙が出そうになった。
窓辺のバター 乃東 かるる @mdagpjT_0621
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