第18話 軽やかな社長

 会社に向かう車の中で、静かなラジオの音楽が流れていく。


 純人すみとくんの気配が支配する車に乗っていると、まるで自分も支配されたみたいな錯覚を覚える。


 きっとこの車は私の人生だ。純人すみとくんが運転し、私はその人生に乗っていく。


 滑らかに曲がっていく車が、私の人生の曲がり角。


 赤信号で緩やかに止まる車。長い人生にはそんな日もあるかもしれない。


 でも隣にいるのが純人すみとくんなら、私はこんなにも心が安らいで居られる。


 そんな自分の人生を体全体で感じながら、私は純人すみとくんの横顔を見つめ続けた。


「どうしたの? ずっとこっちを見てるけど」


「――見てたの?!」


「そりゃあ見えるよ。サイドミラーも見なきゃいけないんだから」


 車の運転って、そういうものなのか! ヤバい、気づかれた?!


 私は慌てて純人すみとくんに告げる。


「なんでもないの! ただ、私の旦那様は素敵だなって!」


 純人すみとくんが嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


 ――もしかして、自爆した?!


 私は顔が熱くなるのを自覚しながら、純人すみとくんから顔を隠すように俯いた。


「お願い……忘れて……」


「うん、わかった」


 純人すみとくんはそれからも、黙って車を運転していく。


 ……こんな人になら、私の人生を任せても大丈夫かも。


 どんどん心が傾いていく。もう自分を止められないかもしれない。


 この先にどんな自分が待ってるのか、それを知るのが怖かった。


 だけど――その先を見てみたい。


 私は自分の心に渦巻く期待と不安を見つめながら、黙って純人すみとくんの気配を味わっていた。





****


 会社に着き、エレベーターに乗った純人すみとくんが私に告げる。


「営業の人に社用車を出してもらって、それで移動するよ。

 それでお客さんを巡っていくから」


「うん、わかった」


 ちぇっ、二人きりじゃないのか。


 そんなことを思う自分に驚きつつ、登っていくエレベーターの重力を感じていく。


 もうすぐ私の戦場が見えてくる。浮かれる奥さんは、そろそろ心にしまわないと。


 気を引き締めて口を引き結び、まっすぐ背筋を伸ばした。


 エレベーターのドアが開き、純人すみとくんがいつものように手でドアを抑える。


 私は純人すみとくんの会社の重役として、初めて朝の一歩を踏み出した。





****


 オフィスに入ると、純人すみとくんが大きな声で告げる。


「おはよう! ――阿部あべさん、車の運転を頼めるかな」


 入口の傍に座っていた若い男性が振り向き、笑顔で頷いた。


「ええ、大丈夫ですよ。どこを回るんですか?」


萩沼はぎぬま商事と鴨原かもはら銀行、様子を見て他も回るよ」


 阿部あべさんが眉をひそめて不安気に答える。


萩沼はぎぬま商事さんですか? でもあそこはまだ、営業が進んでませんよ?

 それに鴨原かもはら銀行も、うちのシステムを導入してくれてません」


 ――え?! 『お客さんに顔見せ』じゃなかったの!


 純人すみとくんが笑顔で告げる。


「ちょっとしたOJTだね。

 光香みかさんに慣れてもらうには、多少スパルタの方が分かりやすいし」


 阿部あべさんが私の顔を見つめ、覚悟を決めたように頷いた。


「わかりました。若奥様の為ですね? アポはどうします?」


「すぐ出かけるから、アポなしで行こう。

 飛び込み営業ほどはきつくないでしょ」


「……本当にやるんですか?」


 不安気な阿部あべさんに純人すみとくんが頷いた。


「やるよ? 大丈夫、僕が付いてるし」


「じゃあ車のキーを取ってきます」


 立ち上がった阿部あべさんが、オフィスの奥に小走りで向かっていく。


 私は思わず純人すみとくんの肩につかまり、顔を見上げて尋ねる。


「ねぇ純人すみとくん! 話が違わない?!」


「違わないよ? 営業中のお客さんにも顔を知ってもらわないと。

 これから光香みかさんが付き合っていくお客さんたちだし。

 最初は僕が手本を見せるから、それを見て覚えて」


 大丈夫かな……胃がキリキリと痛む。


 純人すみとくんはオフィスの入り口に立ったまま、笑顔で佇んでいる。


 彼は不安や緊張とは無縁みたいだ。


 少しでもその力を分けてもらいたくて、私は体を寄り添わせていく。


 純人すみとくんの体温を感じると、それだけで胃の痛みが治まっていく気がした。


 阿部あべさんが車のキーを手に戻ってきて、自分の席から鞄を取り出した。


「本当に行くんですね?」


 純人すみとくんが笑顔で答える。


「もちろん。さぁ行こう!」


 純人すみとくんがきびすを返し、私の肩を抱いてエレベーターに向かっていく。


 背後から付いてくる阿部あべさんの気配を感じながら、私は純人すみとくんの手の感触に意識を集中させた。


 純人すみとくんが『大丈夫』って言うんだから、きっと大丈夫。


 私たち三人は、黙ってエレベーターに乗り込んで地下駐車場に降りていった。





****


 阿部あべさんが運転する車の中で、私と純人すみとくんは後部座席に並んで座っていた。


 純人すみとくんがノートPCを広げて告げる。


阿部あべさん、萩沼はぎぬま商事の手応えはどうなってるの?」


「まだ難しそうです。あそこはシステム投資を渋ってますから」


「オーケー、じゃあ鴨原かもはら銀行は?」


 阿部あべさんが苦笑を漏らしながら答える。


「私たち営業の言葉は、聞いてくれそうにないですね。

 今日で若奥様が口説いてくれるなら、大助かりってとこです」


 私は慌てて純人すみとくんに尋ねる。


「ちょっと純人すみとくん?! どっちも話を聞いてくれなさそうじゃない!」


「そうだね、報告通りだ。でも今日、商談を成立させるから。

 僕が片付けるなら、一緒に光香みかさんのOJTを終わらせた方が手間が省けるでしょ」


 OJTの範囲を超えてない?! 重役最初の仕事が、契約を取り付けることなの?!


 私は純人すみとくんの袖に手を伸ばして告げる。


「……私で大丈夫なの?」


「僕が現場に行って、話がまとまらなかったことはあんまりないよ。

 駄目だと判断したらすぐに撤退! ――簡単でしょ?」


 私は苦笑を浮かべながら純人すみとくんに答える。


「撤退もあるんだ?」


「僕は若いからね。話を聞く気がない人と話をするだけ無駄でしょ。

 うちの商品を魅力的だと理解できる人にだけ売る。それで充分だよ」


 運転席から阿部あべさんが笑い声を上げた。


「若旦那は強気ですよね。

 私ら営業が必死に口説いても落とせない強敵、どう落とすかお手前を拝見します」


阿部あべさんも勉強しておいてね。

 とはいっても僕らと阿部あべさんじゃ持ってる手札カードが違うから、あまり参考にならないけど。

 『こんな方法もあるのか』くらいに受け取っておいて」


「はい」


 純人すみとくんはノートPCを叩いて資料をまとめ上げてるみたいだ。


 十八歳の癖に、年上の私や阿部あべさんよりも堂々としてる。


 これが社長の貫禄なのかな。


 技術と度胸を併せ持った、会社を背負って戦う人。


 なんだか世界中に『この人が私の夫です』と、叫びたい衝動に駆られていた。


 そんな気持ちをぐっと飲みこみ、深呼吸をしていく。


 純人すみとくんが懐から名刺ケースを取り出して、私に手渡してくる。


「忘れてたけど、これが光香みかさんの新しい名刺ね」


 ケースを開けて名刺を見ると、『取締役兼開発部長 伊勢崎いせざき光香みか』と書いてる。


 軽いはずの名刺ケースが、とてつもなく重たいものに感じた。


 鞄から名刺入れを取り出し、そこに新しい名刺を一枚ずつ差し込んでいく。


 これを出したが最後、私は会社の看板を背負って戦う戦士になる。


 緊張している私に、純人すみとくんが微笑みながら告げる。


「そんなに緊張しなくていいよ。最初は僕が全部話すから。

 それを見て勉強して。どうやってお客さんを口説くのか」


 私は黙って頷いて、名刺入れをトートバックにしまった。





****


 社用車が目的地に着き、駐車場に入る。


 車から降りた私の足は、情けないほど震えていた。


 こんなに怖いのは、いつ以来だろう。入社式の時より緊張してる。


 純人すみとくんはノートPCを片手に、そっと私の背中に手を当てる。


「行くよ、光香みかさん。ここから君はうちの重役。一人で立って戦えるようになってね」


 純人すみとくんが私から手を離し、颯爽さっそうと歩き出す。


 私は思い切って足を前に出し、その背中に付いて行く。


 横を歩く阿部あべさんが私に告げる。


「若旦那が付いてますから、大丈夫ですよ」


「……本当に?」


「今まで若旦那が判断を間違えたことはありませんから」


 凄い信頼……まだ一年も経ってないのに、営業からここまで信頼されてるの?


 どれだけの修羅場をくぐってきたんだろう。


 ――あの背中に追いつきたい。そして純人すみとくんを支えられるようになりたい。


 私は拳を固く握りしめると、地面を踏みしめるように歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る