第17話 不安と希望

 夜、私はベッドに入ってもまんじりともできなかった。


 明日のことを思うと胃が痛い。


 横を見ると、いつものように純人すみとくんはこちらに背を向け、ベッドの端で眠っていた。


純人すみとくん、起きてる?」


「起きてるよ? 眠れない?」


 思った通りに答えが返ってきて、私は小さく「うん」と答えた。


 純人すみとくんが寝返りを打ち、こちらに笑顔を向ける。


「そんなに不安がらないで。僕が付いてるから」


「……純人すみとくんは、怖いとか思ったことはないの?」


「んー、ないかな。なんでだろうね」


 私は純人すみとくんをジト目で見つめながら呟く。


「大物なんだから」


「そんなことはないよ。ただ自然体で生きてるだけ」


 それを世間では『大物』っていうんじゃないの?


 私がため息をつくと、純人すみとくんが私に告げる。


「今夜だけ、少し近寄っても大丈夫? そのままだと明日に響くよ」


 少し躊躇った。男性にベッドの上で近づかれるのは、まだ怖い。


 だけど、それ以上に今は明日のことが怖かった。


「……少しだけ、ね」


「うん、少しだけ」


 純人すみとくんが私に近づいてきて、頭を抱え込むように抱きしめてくる。


 二人で寄り添うだけ、それ以上は何もしてくる気配もない。


 純人すみとくんの心臓の音が聞こえてきて、自分の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのが分かる。


 もう嗅ぎなれた純人すみとくんの匂いが、今の私の精神を安定させていく。


「ねぇ純人すみとくん。眠るまでこうしていてくれる?」


「いいよ。光香みかさんが望むなら」


 私は純人すみとくんに抱き着くように腕を回し、目をつぶった。


 幼い頃は、お父さんもこうして抱きしめてくれてたのかな。


 ……年上に甘えるならともかく、七歳も年下の男の子に甘えるなんて。


 自分が少し惨めで、みっともない。


 でも今は自分の小さなプライドより、明日の会社を背負うことを優先しないと。


 きっと明日も、純人すみとくんはこうして傍にいてくれる。大丈夫。


 私は急速に眠気が襲ってきて、すぐに意識が遠くなっていった。





****


 朝、目が覚めると私は純人すみとくんに抱き着いたままだった。


 慌てて離れようと思ったけど、頭を純人すみとくんに抱きしめられていて、身動きが取れない。


 そっと目を上に向けると、純人すみとくんはまだ眠ってるみたいだ。


 私は小声でつぶやく。


純人すみとくん、朝だよ」


 フッと純人すみとくんの目が薄く開いて、眠たそうに欠伸をかみ殺していた。


「おはよう、光香みかさん。よく眠れた?」


純人すみとくんこそ、眠そうだけど大丈夫?」


 私の頭を解放してくれた純人すみとくんが、ベッドから起き上がってこちらに微笑む。


「少しでも幸福な時間を長く味わいたくて、つい夜更かししちゃった」


「ちょっと。社長がそれで大丈夫なの?」


 立ち上がった純人すみとくんが伸びをしながら答える。


「今日の相手ぐらい、問題ないよ」


 私は呆れてため息をついた。


「余裕ね。社長になってまだ一年経ってないんでしょう?」


「キャリアはそうだね。でも大人の相手は昔からよくしてたから」


 私もベッドから立ち上がり、純人すみとくんに尋ねる。


「今日の服、何か気を付けた方がいいことってある?」


「ないよ? いつも通り清潔感のある格好で充分。

 僕らが売るのは自分たちじゃなく、商品だからね。

 相手に不信感さえ抱かせなければ、それでいいんだ」


 部屋から出ていく純人すみとくんを追って、私も洗面所へ向かった。





****


 二人で交互に顔を洗い、歯を磨いていく。


 あー、寝癖が付いてる。純人すみとくんのせいだな?


 私がミストを髪にかけると、純人すみとくんがドライヤーを取り出してブラシでかしていく。


「ごめんね、ちょっと強く抱きしめすぎちゃった」


「もういいわ。おかげでよく眠れたし」


 寝癖を直し終わると、二人で並んでダイニングに向かう。


光香みかさんは着替えてきなよ。朝食の準備はしておくから」


「あら、私は妻よ? 純人すみとくんこそ先に着替えてきたら?」


 きょとんとした顔の純人すみとくんが、可愛らしい笑顔で頷いた。


「うん、じゃあお願い」


 どこか軽やかな足取りで純人すみとくんが寝室に戻っていく。


 私はそれを見送ってから、パンをトースターに入れ、コーヒーメーカーのセットを始める。


 妻か。このまま本当の夫婦になってもいいのかも。


 いつの間にか自分の心が、純人すみとくんに傾いてる。


 現金だなぁ……不安な気持ちを癒してくれただけで、簡単に転ぶなんて。


 そんな自分にちょっと嫌気がさしつつも、今の関係を心地よく感じている。


 純人すみとくんを昨日の夜、受け入れたことで一線を超えちゃったのかな。


 もしかして私、今まで我慢してたの?


 トースターがせりあがり、お皿にトーストを乗せていく。


 戸棚からマグカップを取り出し、毎朝のように定位置に置いた。


 カップにコーヒーを注いだ後、ふと子供の声が聞こえたような気がした。


 ――子供か。いつかはこの朝食風景に、子供が加わるのかな。


 自分のお腹にそっと手を当ててみる。純人すみとくんの子供、どんな子かな。


 優しくて頼りになる男の子? それとも、私みたいな意地っ張りな女の子だろうか。


 小さな子供たちがダイニングテーブルで朝食をとる幻覚が見える気がした。


 ふと、背後で野菜を洗う音が聞こえた。


 慌てて振り向くと、スーツ姿の純人すみとくんがサラダを作り始めている。


「――ごめんなさい! ついボーっとして!」


「大丈夫だから、光香みかさんも着替えておいでよ」


「……うん」


 純人すみとくんの優しい声に背中を押されるように、私も寝室に向かった。





****


 朝食を食べていても、なんだか世界が輝いて見える気がする。


 不思議な気分、まるで生まれ変わったみたいだ。


 ジャムの味も、トーストの味も昨日までと変わらない。


 なのに幸せが胸から溢れて、今が代えがたい時間なんだと伝えてくる。


純人すみとくん、誕生日はいつなの?」


「十二月。そこで十九になるから、光香みかさんと離婚するときには二十歳になってるね」


 私は眉をひそめて純人すみとくんを見つめた。


「離婚……しちゃうの?」


 純人すみとくんはコーヒーを飲みながら微笑んでいた。


「離婚するんじゃないの? 最初はそのつもりだったでしょ?」


「それは――まだ、決めてないんだけど」


 マグカップをテーブルに置いた純人すみとくんが、私の手に触れた。


「今はそれでいいよ。焦らないで。僕は待つから」


 その目は私をまっすぐに見つめ、愛されている実感が私を包み込んでいく。


 この愛に、私は応えられるのかな。


 なんでもできる純人すみとくんに、私は何を返せるだろう。


「……ごめんね、純人すみとくん。はっきり答えられなくて」


「大丈夫だって。僕は気が長いんだ」


 私はクスリと笑みをこぼして答える。


「それじゃあ、オバサンになる前に答えを出さないとね。

 あまり待たせちゃうと、純人すみとくんもオジサンになっちゃう」


「僕は十年でも二十年でも待てるよ? 僕の隣にいる女性は、光香みかさんしか居ないから」


 私は純人すみとくんの手を見つめながら告げる。


「そうやって女性を口説いてるの? いけない坊やね」


「僕が口説くのは光香みかさんだけだけど? 不安なら那由多なゆたに聞いてみたら?」


 私はリビングの隅にとまっている那由多なゆたに振り向いて告げる。


「ねぇ那由多なゆた、本当なの?」


 那由多なゆたが「カーッ!」と鳴いた――『朝からのろけるな』?


 純人すみとくんが明るい声で笑い声を上げた。


「ごめん、那由多なゆた。つい楽しくて」


「ちょっと那由多なゆた! それじゃあ分からないわよ?! ちゃんと教えて!」


 那由多なゆたが再び「カーッ!」と鳴いた――『言ってない』? 本当に?


 純人すみとくんが嬉しそうな声で私に告げる。


「ほらね? 那由多なゆたは神様だから、嘘はつけない。これで信用した?」


 私は唇を尖らせながら答える。


「仕方ないわね。信じてあげる」


 私は純人すみとくんと顔を見合わせ、明るい声で笑い合った。


 ――こんな家庭も、悪くないかも。


 きっと楽しい家族になれるだろう。


 そんな予感はするけれど、あと一歩を踏み出す勇気が出せない。


 笑い終わった私は、ぽつりと純人すみとくんに告げる。


「ごめんね」


「待つよ。僕が言えるのは、それだけ」


 ……何も言わなくても察してくれる。私にはもったいない男性だ。


 私は両手で両頬を叩いて気合を入れた。


「よし! 今日を二人で乗り越えよう!」


「うん、頑張ろうね」


 私は立ち上がると、朝食のお皿を片付けてから着替えの準備を始めた。

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