episode4 枯れたインク、秋の空へ

 街は秋の色をしていた。


 夢の中にあるというその街は、どこか現実離れしているのに、妙に肌に馴染む空気が漂っている。枯れ葉が舞い、街灯は夕暮れのようにぼんやりと滲んで、どこか寂しくて、それでいて温かい。


 結月は、その街の片隅――朽ちかけた公園のベンチで、ひとり腰かける男を見つけた。


 年の頃は七十前後だろうか。グレーの作業服に身を包み、肩を丸め、無骨な手元には一枚の便箋があった。


 男は目を上げ、結月を見ると短く言った。


「……用があるなら手短にな」


 まるで、誰とも関わりたくないような声だった。


 けれどその背中は、どこか寂しそうだった。


「私はただ……この街で“後悔”を集めているの。あなたも、なにか……誰かに、伝えられなかった言葉があるんじゃない?」


 男は少しだけ口元をゆがめて笑った。けれど、それは自嘲のようだった。


「伝えたくても、インクがもう出ねぇんだよ。……俺には、言葉を綴る資格も、届ける相手もいねぇ」


 結月の視線が自然と、男の膝の上にある古びた万年筆に向く。


 インクは枯れ、何度試しても何も記せないのだと彼の指が物語っていた。


 


 ――修という名のその男は、かつて飛行機の整備士だった。


 空の旅を支えるために、地上から誰よりも熱心に機体と向き合う職人だった。


 そして彼には、かつて“空を飛ぶ人”として、彼の前に現れた女性がいた。名前は、陽子。


 出会いはある日の整備トラブルだった。


 


「整備の状況、教えてもらえますか!」


 CAの制服姿で、陽子は怒ったように修のもとへ来た。


 でも修は、工具を握ったまま、ぶっきらぼうに言った。


「……直してる。飛ばすには問題ない」


「……え、それだけ?」


「余計なことは言わんほうがいい」


 あまりのそっけなさに、陽子は思わず舌打ちをしそうになった。


 けれど、ふと視線を落としたとき。工具箱の横にあった整備メモが目に入った。


《異音チェック完了。整備OK。空の人たちに安心を託す。》


 不器用で、無骨で、でも誠実な想いがその一文に込められていた。


 


 それから陽子は、修に少しずつ心を寄せていった。


 そしてある日のこと。


 陽子が軽く言った。


「ねえ、私たちって……将来とか、考えたりする?」


 修は黙ったまま、うつむいて何も答えなかった。


 けれど翌朝、陽子のティーカップの下に、一枚の紙が置いてあった。


《結婚してくれ》


 それが修の精一杯だった。


 


 2人の結婚生活は、穏やかだった。


 修は言葉にするのが苦手だったけれど、いつも陽子の分まで洗濯し、陽子の好きな紅茶を覚え、仕事終わりには必ず「ただいま」を言った。


 それだけで陽子は笑った。


 けれど、陽子の身体に異変が起きた。


 子宮頸がんだった。


 闘病の末、陽子は帰らぬ人となった。


 


「……子どもはいなかった。あいつの体が弱かったから。だから俺は、あの人と過ごした時間が全部だった。……でも、言えなかったんだ。“ありがとう”も、“愛してる”も、全部」


 修は小さな声で言った。


 結月はそっと言葉を返す。


「……でも、あなたの気持ちはきっと、届いてたと思うよ」


 


 修はうつむきながら、ゆっくりと口を開いた。


「……あいつ、な。家の中に、メモを残してたんだ。俺が見つけるように、まるで宝探しみたいに。タンスの奥とか、茶箪笥の引き出しの裏とか」


 その声が、わずかに震えていた。


「“今日もおつかれさま”“無口でもかっこいいよ”“黙ってても、ちゃんとわかってたよ”……そんな言葉がいっぱい、書いてあったんだ」


 


 ――あの日、自分がプロポーズしたときのように。


 ティーカップの下に、気持ちを隠したメモ。


 陽子は、最後まで自分に気づかせてくれていたのだ。


 


 修は手にした万年筆を見つめる。


 もうインクは枯れていると思っていた。


 けれど、指先に力を込めて――


 白紙の原稿用紙にそっとペンを走らせる。


 


《陽子へ。もっとたくさん連れて行きたかった。

もっとたくさん笑わせたかった。

不器用でごめんな。……お前といられて、俺は幸せだった》


 


 書き終えた手紙を、修は静かに折る。


 紙飛行機にして、秋の風が吹く空へ向けて――


 


 「ありがとう。じゃあな」


 


 放たれた手紙は、風に乗って高く舞い上がり、夕焼けに染まった空に溶けていく。


 その向こうで、一瞬だけ微笑む陽子の姿が浮かんだ気がした。


 


 結月はその様子を、静かに見守っていた。


 紅葉が風に舞い、夢の街に少しだけ、やさしい色が差し込んだ。

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