エーデルワイスの約束

Chocola

第1話



 母の部屋には、いつも静かな音楽が流れていた。


 かすかに響くピアノの旋律。

 窓辺に飾られた白い花の押し花。

 そして、読まれた形跡のない古びた脚本。


 ──あの頃、私はまだ何も知らなかった。


 母が、どれほど舞台を愛していたのか。

 どれほど、演じることに命を懸けていたのか。

 そして、どれほどの痛みとともに、それを手放したのか。


 


 私、篠原日葵(ひまり)は、今、舞台の上に立っている。

 心臓が喉元まで競り上がる。

 幕が開く直前、ふと頭に浮かんだのは、

 あの日、母が病室で私に差し出した、あの小さな白い押し花だった。


 「これはね、エーデルワイス。高い山の上にしか咲かない花なの。勇気の花よ」


 母の瞳は優しく、どこか寂しかった。

 その時は、ただ綺麗だな、と思っただけだったのに。


 


 演劇部の全国大会、地方予選。

 私は、主役を演じる。


 ……でも、本当に演じたいのは、私自身なのか。

 それとも、母の夢を追いかけているだけなのか。


 


 演劇部に入ったのは、母への憧れからだった。

 中学の頃、母の昔のビデオを観た。

 舞台の上でまるで命が宿ったように台詞を紡ぐ母。

 その姿は眩しすぎて、涙が出た。


 「いつか私も、あの場所に立ちたい──」


 そう思った。


 でも、母は言った。


 「夢はね、人からもらうものじゃないの。自分で見つけて、自分で歩くものよ」


 その言葉が、今でも胸に引っかかっている。


 


 オーディション前夜。

 母が昔使っていた書斎で、一冊の脚本を見つけた。


 タイトルは、『雪の声』。

 母が最後に自分のために書いたとされる、未発表の戯曲。


 ……これが、母の夢のかたち?


 


 私は、その脚本を読んで泣いた。


 登場人物は、一人の少女。

 病で動けなくなった母に代わって、舞台を目指す物語。

 少女の名前は、「日葵」だった。


 母は、最初からわかっていたのだ。

 私が、自分の夢に向かっていくことを。


 母の夢を引き継ぐためではなく、

 自分自身の物語を演じるために。


 


 本番、私はセリフを間違えなかった。

 でも、それだけじゃない。


 私は、母の言葉を、自分の声で語った。


 「私は母の夢じゃない。私の夢は、ここにある──」


 


 幕が降りたあと、客席で拍手する母の姿が見えた。

 涙を浮かべて、それでも笑っていた。


 終演後、楽屋に戻ると、机の上に置かれていた。

 一輪のエーデルワイスの花。


 まるで、時間を越えて、

 母が今ここに、夢を咲かせてくれたようだった。


 


 あの日、母から受け取った小さな押し花。

 それは、母の夢の記憶であり、私の勇気の種だった。


 ──夢は、引き継ぐものじゃない。

 咲かせるもの。


 私は、今日、ようやくその意味を知った。

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