撃退作戦その三

 幸いエロ同人みたいなことは起きなかった。


――でも、これは想定の範囲外だったわ。


 すずめは頭を抱えたくなったが、後ろから腰を抱きかかえられているせいで、身動きは取れなかった。


 誰に?と問われれば、もちろん悪役陰陽師殿にである。


 オセロの勝負に負けてしまった結果、すずめは彼から「妻殿を膝の上に乗せたいな」と可愛らしい笑顔と声でおねだりされた。


 新婚ホヤホヤの夫婦同士としては微笑ましいスキンシップだが、相手は悪役陰陽師である。


 背後を取られている今、何か怪しい術をささやかれて彼の操り人形か式神にされてしまわないか気が気ではない。


 ゲーム終盤のイベントで、火封じの巫女候補は賀茂無残の策略により彼に拉致され殺されそうになる。


 そのイベントでは、好感度の高い相手がプレイヤーを救出にきてくれる。だが、すずめの場合は愛しの皇海様は来ずになぜか別のキャラ、名前は忘れてしまったけれど、暗殺対策修練担当のキャラが来てしまった。もちろん最初からやり直した。――そういえば、今回の人生においてはなぜか暗殺対策修練の担当者が女性である。あのキャラはいなくなってしまったのだろうか。


 しかし、今世ではすずめはモブキャラである。愛しの皇海が助けにきてくれるはずもない。


 背後からヒヤシンスのような甘い匂いがすずめの体を包んでくる。入浴剤を思い起こさせるので、せっかくの警戒心が緩んでしまう。


 先日の初顔合わせのときも今日もふとした拍子にふわりと香ったが、ぴたりと体がくっついている今はさらに濃厚に香って、まるでもう一つの腕のようにすずめの体にまとわりついてくる。


 無残の衣にたきしめられているのは、人を惑わすような妖しげな甘い匂いだ。すずめは頭がくらくらしてきた。普通だったら、あまりの甘い匂いに頭がぽうっとしてしまって何かされても気づきそうにない。


――ここは正気を保たなきゃだめよ、すずめ。相手は極悪陰陽師なんだから。


 すずめは自分を叱咤激励した。


 夏の夕暮れにもかかわらず、密着している二人。じんわりとすずめは脇に汗をかいている。


 今、二人の前にあるのは、急遽蜜麻呂から借りた絵巻だ。今、都でじわじわと人気を集めているものである。


 絵巻物といっても、その名の通り絵が書かれているわけではなく、巻物を紐解いたら物語の映像が流れていくのだ。登場人物の声もとても生々しい。前世の日本でいう映画である。


 ゲームをプレイしているときもこの絵巻物アイテムはあった。攻略対象とお部屋デートのときに使うのだが、まさか悪役陰陽師とこうなろうとは。


 借りた絵巻の内容は、とある御曹司が許嫁のいるお姫様に一目惚れし、洞窟に拉致して嫁になるよう迫るもののずっと拒まれ、御曹司はとうとう鬼になってしまい、姫を殺し、皮や肉や腹わたどころか骨まで食べ尽くす話だ。まさに骨まで愛す、である。すずめはこれをスプラッタ絵巻と心の中で読んでいる。


 悪役陰陽師の彼はこんな強烈な愛の話を好ましく思うかもしれないが、こんな恐ろしい話が好きな女はどうだろうか。御しづらいとでも思ってきっと今後足を運ぶ気も失せるだろう。名付けて『スプラッタ絵巻でドン引き』作戦である。なんのひねりもない。


 悪役陰陽師撃退のために、この絵巻物を選んだだけで、特に気に入ってはいない。むしろ、蜜麻呂といっしょに開いたとき、すずめも蜜麻呂もトラウマになってしまい、二度と開かないでおこうなんて話をしていたものだ。用が済んだら蜜麻呂へすぐに返そうと考えていた。


 鬼と化した男が愛しい女の骨を無心に貪っている場面は、実に不気味で空恐ろしくなり、すずめは体がすくみ上がった。


 すずめは思わず、後ろから回された男の腕をぎゅっとつかんでしまった。その相手こそ、絵巻物の主人公の鬼のような悪役だというのに。


 すると腕に急に力がこもり、体を反転させられ後ろを向かされた。とくとくと脈の速い鼓動が聞こえてくる。どちらの音かわからないぐらい、そのとき二人は磁石のようにぴたりとくっついていた。


 すずめが見上げたら無残はこれまでの愛らしい表情はどこへやら、とても怖い顔をしていた。まるで怒りと深い絶望の谷底につき落とされて鬼と化し、そこから強い憎しみと恨みの気持ちだけで這い上がろうとしているかのようである。


 すずめは悲鳴をあげ、彼から離れようとしたが、畳に押し倒されてしまった。肩を抑え込まれてしまっては抜け出せない。


般若のように鬼気迫った様子で無残はすずめに迫ってきた。彼の頭から角が、口から牙が今にも生えてきそうである。


――わたしも食い殺される!


 ぎゅっと目をつぶると、首筋に唇とは違う何か柔らかいものが押し当てられた。かと思えば、耳元ですすり泣く声が聞こえてくる。


 おまけに何だかすごくかたいものが太ももに当たっている。その何かの正体なんてすずめは考えたくもない。


 無残はぐずぐずと子供のように泣き始めた。かと思えばいきなり起き上がって、部屋の隅へ駆け走り、うずくまっておいおい泣き始めた。


「ちょっと、どうしたの?」


 その泣きじゃくりっぷりは、まるで夜盗に忍び込んで裸にひんむかれてしまった乙女のようである。


こんなに激しく泣かれてしまうと、もう少ししたらきっと何事かと衛士が飛んでくるだろう。 


 巫女候補のまひわ付きの女房が、仮にも都いちばんの陰陽師を大泣きさせる女だなんて、それはまずい。まひわの評判を貶めるわけにはいかなかった。


 そもそもまひわを守るために賀茂無残を自分から遠ざけようとしているのに、これでは本末転倒である。


 すずめは泣いている無残をなだめようと、彼のそばに寄った。


「いったい急にどうしたの?」


「ぐすっ、ぐす、き、君が――」


 無残は面を上げた。白い顔は涙と鼻水だらけでぐちゃぐちゃだ。せっかくの美形も形無しである。


 彼は天井に向かって叫んだ。


「君が、こんなに破廉恥だとは思わなかった!」


「え」


 無残はまたしても顔を伏せた。両手で顔をおおっておいおい泣いている。


「ひどい、しれっとした顔で媚薬を飲ませるし、趣味の悪い座布団は、下半身の血の巡りを増強させる呪具だし、挙げ句の果てに都いちばんの官能絵巻を読ませるだなんて!」


「何ですって? 青汁が媚薬?」


 他にもツッコミどころは多々あるが、すずめはまずそこがいちばん気になってしまった。


「青汁は有名な媚薬だ。いくらやんごとないお生まれとはいえ、知らなかったなんて言わせないよ」


 血走った眼球が、すずめをにらみつける。まるで深い恨みを抱いて都の大通りをさまよう怨霊のようだ。すずめは、ひっと小さく悲鳴をあげて後ろへ飛び退った。


――青汁が媚薬ですって? そんなことまったく知らなかったわ!


 けれど、青汁がないかと厨に勤めている女性に問い合わせたとき、やけににやけた顔をされたのだ。


「あなたもお好きなんですね」と言われたから、案外使っている人は多いのかもしれない。


 そういえば、石室御殿では男性の宿泊は禁じられているが、出入りは禁じられていない。門限も亥の刻と、つまり夜の九時だ。


 女性の園である石室御殿の闇を垣間見てしまったようだ。


「座布団は座るだけで精力を増強させられるし、男が愛しい女の骨まで貪る場面を見せつけてくるなんて、なんて破廉恥で恥知らずなんだ!」


 買った座布団はたしかに健康用品だったようだ。どこの健康を増進させるかはともかく。


「座布団はともかく、その場面て破廉恥なの? ホラーじゃないの?」


「ホラーってなんだい?」


「なんでもないわ」


 前世の言葉が、このゲーム世界で通用するときもあればしないときもある。さすがゲームの世界だ。


「妻殿とはもっと、もっとゆっくり時間をかけて愛を育みたかったのに! うわあああん!」


 無残はまたしても顔に手をあて、おいおい泣き始めた。


 これでは、まるですずめのほうが彼に襲いかかって無理やり衣を剥いで手籠めにしようとしたみたいである。彼をこの石室御殿から追い払うつもりの作戦が、ことごとく裏目に出てしまった。


 非常に気まずい。


「悪かったわ。全部ちょっとした悪戯心だったのよ。だからもう泣かないで」


 すずめは泣いている背中を何度もさする。そんなに上背はないのに触るとけっこう筋肉質だ。


――あれ、そういえば何だかこういうこと昔もあったような。ひょっとして、前世の記憶かしら。


 何かを思い出そうとしたそのとき。


「なーんてね」


 おちゃらけた声とともに無残は両手をずらした。現れた顔には、もはや鼻水一筋も涙一つもなかった。


 すずめは息をのむ隙もあたえられず、あっという間に壁へ背中を押しつけられた。


 逃げ場がない。


 無残は膝ですずめの膝を強引に割って入ってきた。彼の整った顔が目の前にあった。熱い吐息がすずめの頬にかかる。


――キスされる。ああ、わたしこれからきっとエロ同人みたいなことされてしまうのね。この悪役陰陽師に! 初めては皇海様じゃなくても、せめてまともな人がよかったのに!


 すずめは恐怖でぎゅっと目をつぶった。同級生のお姉さんが持っていたエロ同人誌の内容が走馬灯のようによみがえる。


 ところが、唇を無理やり貪られるとか、着物の袂からおっぱいを掴まれるなどエロ同人のようなことが起きる気配は一向にない。


 うっすら目を開けた瞬間、強く鼻をつままれた。


 小さく悲鳴を上げて目を開ければ、星火草の花の絵が飛び込んできた。


 無残は左手で扇子を広げて顔を隠してはいるが、肩を小刻みに震わせている。


「ひどい、からかったの」


 すずめは思わず抗議した。


――別にエロ同人を期待したわけじゃないんだけれど、なんだろう、この肩透かし感。


「僕もからかわれたんだから、これはお返しだよ」


 無残が指を鳴らすと、絵巻物が彼の手元へ瞬間移動した。彼は 「これは破廉恥すぎるから没収するね」と言って、狩衣の袖の中に収めた。


 あっという間の出来事で、すずめに有無を言わさなかった。悪役陰陽師は本領を発揮してきたようだ。


 すずめは無意識に眉を寄せた。まるで同居家族にエロ同人が見つかって没収されてしまったかのようなこの感覚はなんだろう。あの絵巻はエロ同人ではないはずなのに。


「こんな小細工を弄さなくても、妻殿が望むならいつでも伽の相手はしよう。ただし、君が自らすすんで衣を脱いで僕に口付けてくれるなら、だけれど」


「なっ」


 さきほどの初な青年ぶりはどこへやら、無残は破廉恥極まりないことをいけしゃあしゃあと言ってのけた。


 すずめは顔が鬼灯のように真っ赤になり、開いた口がふさがらなかった。


――皇海様ならともかく、好きでもない相手に、それも悪役陰陽師相手にそんな恥ずかしい真似できるわけないわ。


「今、近衛中将殿のことを思い浮かべたでしょう?」


――どうしてそれを。


 すずめは今度こそ息の根が止まりそうになった。

 

 どこで彼への片想いを無残に知られたのだろう。今まで誰にも打ち明けたことはないはずなのに。


――でも蜜麻呂には言ったかしら。まさか田舎に住んでいたときのご近所さん? 誰に言ったかしら、全然覚えていないわ。


 蜘蛛男の情報網は伊達ではないようだ。恐るべし、賀茂無残。


「ふふ、図星だね」


 無残は面白がっているような口調だが、垂れた瞳はまったく笑っていない。


「まさか自分の妻が他の男に心奪われているとは思わなかったが、恋の遊戯は難度が高いほど面白いものさ」


 そううそぶいたが、全然面白がっていない。むしろ今までになく冷ややかな様子で、すずめをみつめてきた。


 すずめはまるで長年の浮気が発覚してなじられているような気分になった。


――そりゃ夫の立場からすると、他の男性に憧れているとなると浮気なんだろうけれど。でも皇海様とはわたし何もないどころか、向こうはわたしのことすら知らないんだから浮気じゃないはずよね。


 どうしてこんなに罪悪感を覚えさせられなければいけないのか、理不尽です、とすずめは思った。平安時代風のゲーム世界にナタデココやコーヒーが存在するぐらいの理不尽さだ。


 ぐいっとまた無残の顔が迫ってきた。すずめは息が止まりそうになった。今度こそキスされると思いきや、


「僕は必ず君を攻略してみせるよ、妻殿」


 耳元で熱を込めてそうささやかれた。


 すずめはぞくりと背筋が震えた。恐怖だけではない何かで。


 無残は立ち上がると、広げた扇子の奥でうっそり笑った。どういうわけか、彼は満足そうだ。まるで彼こそが今日ここへやってきた目的をしっかり果たしたかのようである。


「次は我が屋敷へお招きしよう。迎えをよこすよ」


 そして彼は部屋を後にした。


 ひぐらしの鳴き声とともにまひわの「ただいま戻りました」という声が聞こえてきた。とうとう修練から帰ってきたらしい。ここでようやくすずめは我に返った。


「お招きするって、それって!」


 

 つまり、撃退作戦は見事に失敗に終わったのだった。










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