交差点と風と

加藤とぐ郎No.2

交差点と風と

 ここでは無いどこか。


「……では西南西の風。風力3。晴れ。19hPa。12℃。……では西北西の風。風力4。晴れ。18hPa。11℃。……では西の風。風力3。」


 中学生の理科の時間、天気図を書いた事があった。

 ラジオの録音は淡々と各地の天気を述べ立てる。それを渡された用紙に書き取る。それだけの作業を繰り返す。

 僕は言い得ぬ快感を覚えたことを思い出した。


 今日は午後から風が強くなって、朝薄着で出たことを後悔するくらいには肌寒かった。しかしそれ以上に、今朝家の鍵を持って出なかった事を後悔している。

 両親は帰りが遅くなるらしい。僕は白い息を吐き出しながら、不透明な雲が流れるのを徒に眺めていた。




 焦っても諦めても、どうにもこの確かな空虚さからは逃げられそうにない。僕は何度目かの溜め息と、チャイムを聞いた。鍵穴を覗いてみたりもしたが、何も見つからなかった。そして冷たい風が肌を撫でると、今朝の事を思い出して後悔に沈みたくなる。


 僕はいつか寒さに耐えられなくなるだろうという予感を思いながらも、玄関の前から動こうという気にはなれなかった。僕は多分、この冷たさに心のどこかで安心しているのだ。一昨日の過ちを浄化してくれる、禊のような物と錯覚しているのかもしれない。見えない滝に打たれるのを僕は感じていた。


「あれ?うーわ。マジかー。」


 隣の家の長男も、僕同様家の鍵を忘れたようだった。その声の様子を聞いて僕は心底彼に共感した。そう。それに気付いた時、心の中は“マジかー”なのだ。わかる。わかるよ少年。


 今、彼の心の中は手に取るようにわかる。自宅の前で立ち往生する気恥ずかしさと、自身の不注意を悔いている。その後、鍵を持っていたら今頃何をしていたかを想像して少し腹立たしさを感じ、しかしどうしようもなく困惑するしかない。

 ただ、彼に元気が残っていれば、僕のように黄昏ることは無いだろう。


 彼はきっとどこかで時間を潰すことだろう。公園か、コンビニか、友人宅か。いずれにせよ玄関の前に座り込むことはしない。


 僕は何かとセンチメンタルになりがちで、考え事に耽るタイプだ。一方彼は、活発的で純粋で、人懐っこい性格をしている。

 彼の弟が赤ん坊の頃、母を取られた兄である彼と、良く一緒に近所の公園で遊んでいた。彼は僕の二つ年下で、背が小さく好奇心旺盛で無鉄砲に車道に飛び出すし、その上すばしっこく注意散漫で、僕は手の掛かる弟のように思っていた。


 けれど、思春期に差し掛かる頃には自然と距離が出来てしまい、今はすれ違っても挨拶もしない関係に落ち着いた。彼の事は嫌いではないが、積極的に仲良くしたいという思いは毛頭ない。


「えっと。直樹くんも?」


 急に話しかけられて背筋に寒気が走った。言葉を返さなくては。僕は下手くそな愛想笑いを浮かべて、低い声を絞り出した。


「あ、うん。マジで、最悪だわ。」


「あはは。奇遇っすね。え、普通に鍵忘れて、って感じですか?」


 僕とは対称的に、明るくはっきりとした声で彼は尋ねた。僕は一瞬間を置いて、弱く答えた。


「そうだね。そっちは?」


「いやー同じっすね。あの、弟が陸上の合宿で居ないんすよ。」


「ああ。弟もやってるんだ。え、今年受験だよね。もう部活は引退した?」


「はい。」


 彼は僕の二つ年下で、中学校三年生だ。陸上競技の全国大会で好成績を残したと聞いている。彼は昔から年上の僕より足が速かった。いつの間にか背も追い抜かれて、僕よりも社交的で、正直別世界の人間だと思っている。


「どこ受けるの?」


「直樹くんと同じとこです。」


「え、そうなの?うち陸上強かったっけ?」


「いや。陸上はもうやめたので。」


 彼は何故か自信たっぷりにそう言った。彼の中で過ぎた葛藤を僕は朧気ながら想像した。だが、スポーツや何かに打ち込んだことのない僕が容易に理解できる物ではないはずだ。僕は彼の前向きさに少しだけ嫉妬心が芽生えたが、多分気のせいだろう。


「そっか。」


「そうですね。すんません。全然話変わるんですけど寒くないんですか?」


「めちゃくちゃ寒いよ!」


「あはは!そうですよね。いや寒そうだなと思ったんで。」


 彼は屈託の無い笑顔を見せた。こういう“心から笑ってますよ”というように笑う事ができたらと、思わない日はない。


「上着貸しますよ。」


「いやいいよ。コンビニ行くけど、一緒に行く?何か奢るよ。春から先輩だしね。」


「ええ良いんですか!あざーす!」


 僕は寒さに耐えられなくなって腰を上げた。財布は家に忘れていなかったので何か温かい物でも買って食べよう。家から一番近いコンビニエンスストアへは、歩いて十分前後かかる。その間、久しぶりに彼と話をするのも良いかもしれない。


「早く行こう。」


 結局僕が買ったのはホットの缶コーヒーとコーラだけだった。僕たちは歩きながら飲み、飲みながら歩き、帰っても入れない各々の家へゆっくりと近付いていく。話題が尽きたような気配がして、僕は飲むことに集中していると、彼がこんなことを言い出した。


「直樹くんは将来の目標とかってあります?」


 徐にそんなことを尋ねるものだから、僕は真面目に返さないとと思い、黙りこくって考え込んでしまった。その沈黙の間、彼が不安そうにしているのを感じた。しばらくして僕は答えた。


「とりあえず大学出て、公務員になろうかなと思ってる。」


「そうなんですね。」


「目標ある?」


「いやぁ。」


 彼の傾げた首が妙に印象に残った。ずっと彼は純粋で元気で健康的な人生を送るのだろうと勝手に思っていた。

 でも、その時の彼からは、底の無い絶望のような物を感じ取ってしまった。彼の否定とも何とも取れない“いやぁ”という疑問の声が、僕の内に転がり落ちて消えていくような気がした。


 僕は交流を強要される社会という物が嫌いで、時に絶望していた。何か本気になれるような大事な物が無く、一人でいる時間がなんとなく好きだった。笑われるのが怖くて自然と消極的になって、自分で自分を肯定しづらくなっていった。


 僕は劣等感に特に弱く、卑屈になりがちで、自分は誰かの下にいて、それは一生覆らないのだと嘆いていた。これはこうと、誰かの決めた線をはみ出すことはいけないことだと信じ込んでいた。


 そんな僕が、そんな僕だからこそ、彼を心の底から救ってあげたいと思い立った。突風が体の中を通り抜けて荒っぽくなった僕の心は、彼を救ってやらねば気がすまなかった。


 信号の無い交差点に差し掛かる。僕はクラウチングスタートを決めた。


「まあ、目標を見つけるのは大変かもしれないけど、絶対いつかは見つかるから。楽しもうぜ。」


 交差点の真ん中で僕は手を広げる。


「道はたくさんあるんだから。」


 僕の言葉は彼に届いただろうか。けれど、届いていなくとも、僕は構わなかった。そういう独善的な清々しさで今は十分だった。


 隣の家の男の子。ずっと年下で子供だと思っていたけど、いつの間にか追い抜かれていた。


 ここではないどこかで、今日も風が吹く。


「……では西北西の風。風力3。晴れ。17hPa。11℃。」


─────────────────


 雨と雷の音が忍び込む。……屋根と壁のありがたみを感じながら、体のだるさに僕は萎えていた。


『ずっと外にいたの?』

『はい……』

『あんたバカだねぇ』


 出掛ける前に、荷物を確認しよう。

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