Chapter 3

06 終わりと始まり

『おはようございます、綾世くん』


 穏やかな声が聞こえる。世界が光に包まれる。数度瞬きをすると、横になっている小さな綾世先輩を覗き込む千さんの姿が見えた。


 先輩の体には包帯や絆創膏があちらこちらに貼られている。呆然としながらも、先輩は千さんの手を借りて上体を起こした。


『……千兄さん』

『はい、どうしましたか?』

『どうして、……どうして助けてくれたの?』


 淡々としたその言葉に、千さんは後悔を滲ませた笑顔で答える。


『綾世くんが住んでいた家のご夫婦です。あの方たちが異能省に通報したんです。「ずっと距離を取ってきた私たちが言うことではないが、助けてほしい」と。……こうして実際に助けるまではしばらく時間がかかってしまいましたが』


 小さな先輩は口をはくはくとさせた後、悲しそうに笑った。


『やっぱり、優しい人たちだった』


 その声には安堵のようなものが含まれていた。


「黒の異能者の俺にも優しくしてくれる人がいた。少ないながらも言葉を返してくれて、衣食住を与えてくれた人たちは、やっぱり優しかった。……そんな風に思ったよ」

「先輩……」


 半透明な綾世先輩は、小さな先輩と全く同じ表情をしている。泣いている時みたいに眉を下げて、くしゃりと顔を歪ませて。でも、その瞳から涙は一向に溢れてこない。


「……あのお守りを壊されてから、ずっと泣いてないんだ。もしかすると、涙を溜める部分が泣きすぎてすっからかんになったのかもしれないね」


 それは違うと思った。涙は流れていないけど、先輩は泣いている。涙を流すということだけ、大きくて重い蓋で押さえ込んでしまっている。それはきっと私の想像以上に苦しいはず。涙に乗せて、感情を流せないのだから。悲しさも苦しさも辛さも、一向に溜まっていくだけになってしまう。


 ああ、まただ。また視界がじわりと歪む。


「本当に、陽翠は優しいね。……ほら、泣かないで?」


 綾世先輩は、私の頬を伝った涙を優しく拭ってくれた。その表情はやっぱり泣いている。


「…………ありがとう、ございます」


 先輩の方こそ泣かないで、その言葉は感謝の裏にしまいこんだ。


 世界は流れるように過ぎていく。


 千さんに頭を撫でられてうとうととする小さな先輩、千さんと一緒に手を合わせてカレーを食べる小さな先輩、千さんに勉強を教えてもらい飲み込みが早いと褒められる小さな先輩……。だんだんと包帯や絆創膏が取れていく。ぎこちないながらも幸せそうだった。


 カレンダーが10月になってしばらく経った頃、小さな綾世先輩は憂い顔を見せることが増えていた。


『綾世くん、何か気になっていることがあるんですか?』

『……うん』

『教えていただくことはできますか? 力になれるかもしれません』


 先輩は迷うように視線を左右に動かした後、ぽつりぽつりと話し始める。


『俺、いつまでここにいられるのかな……。千兄さんと暮らすの、すごく嬉しいけど……俺、いつかは出ていかないといけないでしょ?』


 はっと目を見開いた千さんはふわりと小さな先輩を抱きしめた。


『不安に、させてしまいましたね。……もしも綾世くんが良ければ、これからも自分と暮らしませんか?』

『……いいの?』

『もちろんです。ただ、自分が所属しているところは少々……いや、かなり特殊なところなので、綾世くんにお願いしなければならないこともたくさんあると思います。それでも、いいですか?』


 千さんは先輩から一度離れて、真っ直ぐと目を見て訊ねる。正面から見つめ返した綾世先輩は、真剣な表情を浮かべていた。


『千兄さん、俺……それでも一緒がいい』


 迷う時間もなく、すぐに返された言葉に微笑む気配がした。


『分かりました。では綾世くん……いや、綾世。今日からきみは、異能省所属特殊異能事件対策局の一員です』


 その日から、小さな先輩は千さんに連れられて異能省所属特殊異能事件対策局——通称、特異局とくいきょくを出入りするようになった。


 そこは黒の異能者や紫の異能者ばかりが集まっている、その名の通り特殊な空間。綾世先輩は千さんを中心に局員から可愛がられながらも、教科学習以外の異能や法律に関する勉強をこなしていった。


 異能者養成学校卒業後、特異局で働くことを前提とした実践的な異能の訓練もあった。千さんに異能をかけられたり、かけ返したり、精神力も体力もぎりぎりになるまでやっては休憩の繰り返し。


 見ている私も疲れてくるようなものだったけど、小さな綾世先輩にとってそんな毎日は楽しくてたまらないようだった。


 小学校を卒業し、中学校に入学する。だが、本人の希望と特異局預かりだという状況を鑑みて、先輩は今まで通り特異局にて勉強することになる。


 先輩もとい、綾世先輩が中学3年生になってすぐ、千さんが軽い怪我をして帰ってきた日があった。先輩は軽く目を見開いたと思ったら、綺麗な笑顔を浮かべる。


『千兄さん? その怪我はどうしたの?』

『えぇっとですね……綾世。まず、きみのお父さんとよく似た笑顔で怒るのはやめましょう』

『どうして?』

『自分の心臓が跳ねます』

『そっか。それで、その怪我はどうしたの?』


 千さんの誤魔化しは失敗したようだ。綾世先輩は千さんが怪我をして帰ってくるたび、今みたいに笑って怒っている。先輩なりの心配なのかもしれないが、正直、かなり怖い。笑顔の圧が半端ない。


『……今日保護した子が異能の暴走を起こしまして』

『それで?』

『……うっかり直撃しました。でも、問題はないです。受け身を取ったので』

『問題なくはないよね?』

『……次から、一段と気をつけます』

『うん、そうしてください』


 過去の綾世先輩はふっと怒りの笑顔を消して、疑問を持ったように話しかける。


『千兄さんがうっかり直撃するなんて……その子、そんなに強い異能を持ってたの?』

『そうですね……。……綾世も特異局の一員ですし、話しても問題はないでしょう』


 2人は改めて姿勢を正した。


『その子は綾世と同じ黒の異能者です。ちょうどきみより2つ下の女の子で、名前は方波見陽翠さん』


 ……私? 突然出てきた自分の名前に、どくりと心臓が跳ねる。……でも、確かに時期は合っている。


『陽翠さんの両親は、異能収奪罪で逮捕しました』


 先輩は苦虫を噛み潰したかのような表情で頷いた。


『この子の異能はかなり特殊で、……痛みを代償にどんな奇跡でも起こせるというものです』

『それは……』

『綾世、きみが異能者養成学校の3年生になった時、入学してくるであろうこの子を気にかけてもらえますか?』

『……もちろん、そうする。ひとりが苦しいのは分かっているから』


 深く頷いた過去の先輩の頭を、千さんは微笑んで撫でていた。


『ありがとうございます、綾世』


 どことなく嬉しそうな綾世先輩が離れていく。世界が暗転する。


『——綾世が特異局に入って、もう3年ですか……時の流れは早いですね』

『正確には明日で、ね』

『そうですね。明日の夜ご飯はカレーにしましょう』

『毎年カレーだよね』

『だって綾世、カレー好きでしょう? 自分からのささやかなお祝いですよ』

『……ありがとう、千兄さん』


 ——その次の日、千さんは朝早くに出ていったきり、帰ってこなかった。

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