05 エイのぬいぐるみ
次の日、小さな綾世先輩が目覚めたのはいつもより1時間遅い7時半だった。
『……行かなきゃ』
漠然と呟いて、慌てた様子で洗面所へ行く。幸い、持ち物の準備は昨日のうちに済ませていたから、遅刻にはならないはず。服を着替えた先輩は、首から黒い羽のついたネックレスを下げ、ぼろぼろの黒いランドセルを掴んで家を出た。
それなりに先生の話を聞いて、それなりにノートを取って、それなりに呼吸をして。いつもと違ったのは、あの3人が昼休みになってもやってこなかったこと。小さな先輩が暴力を振るわれることがないのは喜ばしいことのはずなのに、どうしてか嫌な予感がする。
終わりの会の後、小さな先輩は普段通り帰ろうとしていた。
『異能者、ちょっと付き合えよ』
ちょうど下駄箱で靴を履いたところで、にやにやと嗤っている3人に声をかけられる。もちろん綾世先輩に拒否権なんてものはなく、引きずられるようにして、あのブランコと滑り台とジャングルジムだけがある公園に連れてこられた。
『今日、昼休みに先生たちからなぜか詰められてな? 要はオマエをいじめてないかって話だったんだ』
『誰がちくったんだろうね?』
『そんなのいじめられてる法月綾世クン本人に決まってるでしょー?』
3人は口々に嗤う。小さな先輩は何の感情も映さず、黙ったままだ。
『なぁ、オマエがちくったんだろ? おかげで先生たちからひたすらに問い詰められたんだ』
『セキニン、取ってくれるよね?』
『「取ってくれるよね?」じゃなくて取って当たり前じゃない?』
『たしかにー!』
『そういうわけだ』
3人のうち1人が動いたと思ったら、綾世先輩はぐっとうめき声を漏らす。腹部を、勢いよく殴られていた。私がやられたわけではないのに、さっと血の気が引く。手を伸ばしても、3人を止めるどころか触れることすらできない。
小さな先輩はその場に座り込んだ。追い打ちをかけるように暴力と嘲笑の雨が降ってくる。
『……ランドセル邪魔じゃない?』
『中身ぶちまけちゃおうよ』
その言葉の通り、先輩が背負っていたランドセルは簡単に取られてしまった。壊れかけの留め具は壊され、その中身は重力に従う。ばさばさと落ちたのは今日の授業で使った教科書とノート、宿題と連絡のプリント、筆記用具、そして——エイのぬいぐるみだった。
綾世先輩が手を伸ばすより早く、そのお守りは取られてしまう。
『なんだこれ?』
『汚くない?』
つんつん、ふにふにと3人は遠慮なくそれを弄る。
『……て』
『あ? なんか言ったか?』
『……やめて』
何の感情も映していなかった先輩の瞳に、恐怖が映った。めざとく気づいた1人はにやにやと気持ち悪い笑顔を作って、エイのぬいぐるみの端の方を持って揺らす。
……この子、綾世先輩の大切なものを壊そうとしている? それに私が気づいたのは、先輩と同じタイミングだった。
さっと顔色を悪くさせて、全力で取り返そうと手を伸ばす。だけどそれはあっけなく止められてしまった。
『ちゃんと抑えてろよ』
『任せて』
エイのぬいぐるみを持った男の子は、その両端を思い切り引っ張った。
やめて、私の心と小さな先輩の声が重なる。
びりびりびり。
酷い音を立てて、お守りは真っ二つに裂けていく。ぽとりと落とされたエイのぬいぐるみだったものは、無惨にも踏み潰された。
なんで、どうして……? どうしてこんな酷いことを……?
『……あ、ぁぁ……あ』
力なく膝から崩れ落ちた小さな綾世先輩を見て、3人は腹の奥底から嗤う。
綾世先輩がお父さんからもらった大事なものだったのに、……綾世先輩が涙を流せる唯一のものだったのに。
『…………なぃ』
ぐしゃぐしゃになったそれを見て、呟く。3人が反応するよりも早く、小さな先輩は口を開いた。
『許さない。……絶対に、許さない』
ぱっと顔を上げて見えたその瞳は、怒りを帯びた柘榴色に光っている。先輩はゆっくりと瞬きをして、この場に似合わない綺麗な笑顔を浮かべた。——異能の暴走だ。
途端に恐怖を浮かべた3人は、じりじりと近づいてくる綾世先輩から逃げようとする。だけどそれを許すはずもなく、先輩は一人一人と視線を絡ませた。
『ねぇ、きみたちも俺が体験した恐怖を味わう?』
ついさっきまでの無感情はどこにいったのか。小さな先輩の表情は雄弁に語っていた。怒りを、悲しみを、辛さを……全てその笑顔に乗せて。笑い方が先輩のお父さんによく似ている、ふとそんなことを思った。
『父さんを目の前で失う怖さ、異能者だと指を差されて嗤われる恐ろしさ、大事なものを目の前で壊されるやるせなさ。……きみたちも味わってよ』
瞳の光が強くなった次の瞬間、男の子3人はぱたりと電池が切れたように倒れる。
『……あはは』
乾いた笑いと共に、綾世先輩はすっきりと晴れた高い夕空を見上げた。……泣かないで。涙は一滴も流していないけど、どうしても泣いているようにしか見えない。
今の私の手では、やっぱり触れることはできない。その時、強い風が吹いた。
『——綾世くん!』
私の真横を、白いメッシュが入った長い黒髪の男性が通る。そして小さな先輩に目線を合わせて、その頬を優しく包む。灰色に光る瞳と、柘榴色に光る瞳が交差した。
『大丈夫、大丈夫ですからね。……ゆっくり息を吐いて、ゆっくり息を吸って。自分の目を見て?』
いつか綾世先輩が私に伝えてくれた言葉で、黒い紐で髪を束ねた男性は言う。
『綾世くん、もう大丈夫ですから。……一緒に帰りましょう?』
『……ゆき、にぃさん』
千さんはふわりと笑った。
『やっと見てくれましたね』
小さな子をあやすように、優しく、ゆったりとしたリズムで千さんは先輩の頭を撫でる。
『大丈夫、大丈夫です。今はひとまず、ゆっくりおやすみなさい』
温かな心地と共に、ぼんやりと世界が暗転していく。「泣かないで」そんな声が遠くに聞こえた気がした。
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