第4章 失名者たち

 深夜、ふいに目が覚めた。

 湊は寝返りを打ちながら、すでに夢が消えていることに気づいた。

 だが、なにかが残っていた──耳の奥に、声の残響のようなもの。

 いや、それは言葉ですらなかった。濁音のような、口にすることすらできない“音”。


 名を問う声。

 名を欲する影。


 冷たい汗が額に浮いていた。

 体を起こすと、襖の向こうで微かに床が鳴った。家の古さが出した音なのか、それとも──

 湊は布団を抜け出し、静かに縁側へ出た。


 月明かりが瓦屋根を照らし、庭の木々の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 その下に、白い影が立っていた。


 いや、人ではない。

 背は低く、顔の部分だけが空洞のように黒い。

 だが、輪郭はぼやけていない。視界の端にいても、はっきりと“そこにいる”とわかる。


 湊が声を発しようとした瞬間、影は消えた。

 だが、その場所に、何かが落ちていた。


 一枚の、黄ばんだ紙切れだった。

 紙は乾いていたが、裏面に赤いしみのようなものが滲んでいる。

 表に、かすれた筆跡でこう記されていた。


 > 「鈴木    」


 名前の途中で止まっている。

 漢字の「鈴木」まで書かれ、あとの空白が異様に大きい。

 その空白の端が、まるで誰かに破り取られたようにギザギザとしていた。


 


 翌朝。

 朝食の席で湊は、その紙について祖母に尋ねようとしたが、言葉が出なかった。

 澄江の横顔はいつになく硬く、普段通りの口調で味噌汁をよそっていた。


 「湊、今日、駅前の『三隅文具』まで行ってくれないかい? 私の筆がもう限界でね」

 「……うん、わかった」


 文具店に理由があるとは思えなかった。

 だが、澄江が何かを察知していることは確かだった。


 外へ出ると、空は重い曇天だった。

 蝉の声も弱く、町全体が押し黙っているような空気。


 湊は商店街を歩きながら、途中で道を外れた。

 目的は『図書館裏の石碑広場』。

 以前、旧資料室の記録に記されていた“失名者”の供養碑があるとされる場所だ。


 


 広場は、誰もいなかった。

 木々が鬱蒼と茂り、草は腰の高さまで伸びている。

 中心には石碑が四つ。いずれも古び、刻まれた文字は苔で隠れていた。


 そのひとつに、微かに読み取れる線があった。


 > 「  の者 名  」

 > 「 此  町  」

 > 「 あ ら ざる 子 」


 意味がわからなかった。文法も崩れている。

 けれど、“ここに記されているのは、名のない者たちだ”ということだけは、直感で理解できた。


 


 そのとき、背後から小石を踏む音がした。

 振り返ると、葵が立っていた。

 彼女は湊を見るなり、ぽつりと漏らした。


 「……来たと思った」

 「なんで……」

 「あなたが、名を問うたからよ」


 湊は彼女の言葉の意味を測りかねながらも、問い返す。

 「“鈴木  ”って名前、知ってる?」


 葵は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。


 「……それ、私の弟が最後に残した名前。たった一度、名乗った“他人”の名前。

  本名じゃない。けど、それが……あの子の、最後の言葉だった」


 「どういう意味?」


 葵は答えなかった。

 代わりに、ポケットから自分の掌サイズの石を取り出す。

 それは以前の白ではなく、黒く変色していた。

 表面には、小さな裂け目があり、そこから灰のような粒がこぼれている。


 「この石、夜になると囁くの。“名を返して”って」


 湊は、言葉を失った。

 それは夢で聞いたものと、まったく同じ言葉だったからだ。


 


 葵は石をしまい、広場の奥へと歩き出した。

 「ここには、町の中で“存在を失った”人たちの記録が埋まってる。

  名前が消え、戸籍からも抹消された人たち。

  町ごと、それを見なかったことにしてる」


 「なんでそんなことが……」


 「“境”が近い町だからよ。境がある場所では、名が揺らぐの」


 


 そのとき、石碑の奥から、かすれた笑い声のようなものが聞こえた。


 湊と葵は同時に振り返った。

 そこには、誰もいなかった──影だけが、ひとつ分、ずれていた。


 




 その晩、湊は図書館の閲覧室にいた。

 閲覧机の上には、古い住宅地図と、町の戸籍に関する簡易の抄本が置かれていた。

 職員に頼んで閲覧許可を取ったものの、記録はどれも断片的で、読み解くのは骨が折れた。


 湊が探していたのは、「名前を失くした人」の痕跡だった。

 正式な戸籍には当然そんな情報は載らない。

 けれど、葵の言葉を信じるなら、この町には名が失われることそのものが「ありうること」として潜んでいる。


 資料の束の中、手書きの簡易台帳にだけ、不自然な修正の痕跡があった。

 昭和五十六年、ある一軒の住人が、「転出」と記されたのちに、再び「削除」と上書きされている。

 転出先は記されていない。代わりに、消えかけた鉛筆で小さくこう書かれていた。


 > “記録不備につき無効”


 湊は住所を指でなぞった。

 そこは、町の外れ、旧採石場近くの廃村──三ノ倉地区だった。


 地元では“ひと気の絶えた集落”として知られ、いまや人も住んでいないとされている。

 けれど、この削除記録は平成一桁台まで続いており、わずかに何かが残っていたことを示唆していた。


 


 翌日、湊は午後の授業を終えると、そのまま三ノ倉へ向かった。

 自転車で町を抜け、川沿いの旧道を進む。夏の終わりの空気は湿り、木々の影が長く伸びていた。


 三ノ倉へ向かう途中、不意に草の中に人影が見えた。

 見覚えのない中学生くらいの少年が、道の端に立っていた。

 背中には大きめのリュック。帽子をかぶっていたが、顔ははっきり見えた。


 「……君、どこから来たの?」

 湊が声をかけると、少年はふっと笑った。


 「ここにいたよ。ずっと前から」

 その声は不思議に乾いていた。


 「名前、ある?」

 湊がそう訊くと、少年は答えなかった。

 ただ、手の中の紙を一枚差し出した。


 それは、葵が持っていたのと同じ──“途中で途切れた名前”の紙切れだった。


 > 「松    」


 湊が紙を受け取ろうとした瞬間、少年の姿が歪んだ。

 空気が波打ち、彼の輪郭がずれていく。

 そして、次の瞬間にはもうそこにいなかった。


 


 三ノ倉に着くころには、陽は傾き始めていた。

 廃屋が点在し、草が家屋を覆っている。

 舗装されていない小道を進みながら、湊はふと風の向きが変わったことに気づいた。


 家々の隙間から、低い祠のような建物が見えた。

 屋根は朽ちていたが、扉には“二重の注連縄”がかかっていた。

 そこだけ、空気の密度が違っていた。


 湊が近づくと、石の段差に座っている老婆がいた。

 この廃村に、まだ人が──そう思った瞬間、老婆は湊の方を見ずに口を開いた。


 「“問うた”のかい、あんた」

 湊は心臓が跳ねるのを感じた。

 言い訳もできず、ただ黙っていた。


 老婆はゆっくりと立ち上がり、震える指で祠の中を指した。


 「ここは、“名を返す場所”だよ。忘れられた名前が、ここに溜まる」

 「どうして……名を返すんですか?」

 「返さなきゃ、向こうに行けないからさ。あの世でも、この世でもない、“名前の底”に沈んだまんまだよ」


 老婆の声は空気に溶けるようだった。

 風が吹き、祠の注連縄がかすかに鳴る。


 そのとき、湊の背後で足音がした。

 振り返ると、少年──さきほど見たリュックの少年が、祠の入口に立っていた。


 その顔は、もはや人のものではなかった。

 瞳がなく、口元だけがかすかに笑っていた。


 そして、少年の背中に、裂け目のような“影”が現れていた。



 祠の中は、外見に反して広かった。

 土間のような床に、四角く囲われた石畳。

 中央には、まるで墓石を横たえたような大きな板があった。

 板の表面には無数の線刻が刻まれている。それは文字ではなかった。いや、もともとは“文字だったもの”が、長い時間のなかで読み取れなくなった、と言うべきかもしれない。


 湊はその板に近づいた。

 ふと、視界の端で何かが動いた。

 振り返ると、先ほどの老婆がいない。少年の姿もない。


 板の中央にだけ、濃い影が集まっていた。

 そこに掌を伸ばすと、空気が歪み、音も光も吸い込まれるような感覚がした。


 そして──声が聴こえた。


 


……まつ  

……はる  

……な な  

……      くなった……


 誰かの、無数の名前。

 それらがすべて、最後まで届かず、言い終わられることなく消えていった断片。

 名の、未完の連なり。


 湊の内側に“ざらり”とした冷気が広がった。

 それは、耳で聞くのでもなく、視界で読むのでもない。

 名を与えられず、存在に定着しきれなかった“者たちの輪郭”が、身体に染み込むように流れ込んでくる。


 


 その瞬間、湊は“視た”。


 ──三ノ倉の集落が、まだ人で賑わっていたころの風景。

 ──夕刻、紙芝居を囲む子どもたち。

 ──学校の名簿にない名前を持つ少年。

 ──日が暮れると消える、呼び名のない弟。

 ──母親の背中にすがりながら、名前を呼ばれずに育った少女。

 ──名がなければ学校に通えず、通えなければ記録もされず、存在の輪郭すら持てなかった者たち。


 


 湊は膝をついた。

 呼吸が浅くなる。意識が散り、思考がまとまらない。

 だが、その中で“ある感覚”が芽生えていた。


 ──自分のなかにも、名前の空白がある。


 朝比奈湊という名。

 呼ばれ、書かれ、存在を形作るその“名”の奥に、誰にも触れられてこなかった“別の呼び名”があったような気がする。


 


 そのとき、板の奥に小さな引き出しがあるのに気づいた。

 力を込めて引くと、古びた紙の束が現れた。

 一枚一枚に、途中で終わった名前の断片と、それに対応する「空白時間」が書かれていた。


 > 【 松本         】 空白時間:1年2か月

 > 【 山川 はる     】 空白時間:2週間

 > 【 杉          】 空白時間:18年


 それは、名を失っていた時間。

 世界との接続が一時的に切断された“穴”の記録。


 湊は、その束の最下部にある1枚を手に取った。

 そこにはこう記されていた。


 > 【 朝比奈 湊     】 空白時間:──


 思わず手が震えた。

 そこには、確かに“自分の名前”があった。

 けれど、“空白時間”の欄だけが異様に長く、何も記されていなかった。


 次の瞬間、周囲が強く揺れた。

 空間が、歪んでいた。

 それは地震でも風でもない、名前の重心が傾いたときに起こる“存在の偏り”。


 


 足元がふらつくなか、祠の外から声が響いた。


 「湊! こっちに戻って!」


 葵だった。

 その声に引かれるように、湊は紙束を抱えて祠を飛び出した。

 彼女の手が、寸前で彼を引き寄せる。


 次の瞬間、祠の入口が“閉じた”。

 音もなく、まるで息を止めたかのように。


 


 「……なに、見たの?」

 葵の問いに、湊は答えられなかった。

 ただ、手の中の紙束が重く、湿っている気がした。

 それは誰かの記憶の濡れ衣のようで、けして乾くことのない重さだった。





 翌日、葵は湊の家に現れた。

 紙束──三ノ倉の祠から持ち帰った“失名者記録”をもう一度確認するためだった。


 縁側に座り、二人で黙々と紙を並べる。畳の上に広げられた紙片は数十枚。その一枚一枚に、途中で切れた名と、時間の空白が刻まれていた。


 「……この記録、本当に町の中だけのものかな」

 葵がぽつりと呟く。

 「他の町でも、境ってあるかもしれない。でも、この町だけが“記録してる”気がする。そういう役割を持たされてる」

 「名を問う者と、名を記す場所……?」


 湊の頭に、祖母・澄江の言葉が浮かんだ。

 ──“うちは代々、名の管理人だった”。

 それが意味していたのは、単なる名字の継承ではなく、“存在そのものの所在”を記す役割だったのかもしれない。


 「これ、見て」

 葵が一枚の紙を差し出した。


 > 【 吉田        】 空白時間:7年11か月

 > 【 杉村 あき     】 空白時間:3か月

 > 【 朝比奈 ──   】 空白時間:──


 再び、自分の名を目にしたとき、湊の指がかすかに震えた。

 「この“朝比奈”って……やっぱり、俺?」

 「それしかないと思う。でも、おかしいの。空白時間が“書かれてない”っていうのは、この町の記録では“計測不能”って意味なの」


 「どういうこと?」


 葵は真顔で続けた。

 「たぶん、湊は一度……名前を完全に失ってる」


 空気が重くなった。

 その瞬間、自分の手足の感覚が少し遠のいた気がした。


 「私の弟──樹も、最後は“名前を名乗らなかった”。あれは、自分の存在が消える前兆だったの。湊も、それを経験してたなら……」


 湊は静かに言葉を挟んだ。

 「……思い出せない。小学校の途中、1年間くらいの記憶が曖昧なんだ。誰と遊んでたか、何が好きだったかも……。ただ、誰かに“湊”って呼ばれるたびに、心のどこかで“違う”って思ってた」


 


 部屋の外、風鈴が鳴った。

 その音がどこか不安を煽るような響きに聞こえたのは、気のせいではなかった。


 葵は紙束を畳み直しながら言った。

 「……ねえ、今日の放課後、もうひとつ行ってみたい場所があるの。町役場の“旧公報室”」

 「なにがあるの?」

 「町が公式に扱わなくなった記録──住民情報の“修正履歴”。戸籍とは別の、非公開リストが残ってるはず」

 「そんなの、見られるの?」

 「うん。昔、手伝いで一度だけ出入りしたことがあるの。書庫の鍵の場所、覚えてる」


 


 その日の放課後、二人は町役場の裏手にある古い棟へ向かった。

 平屋の古い事務棟。現在は書類保管庫として使われており、人の出入りも少ない。

 施錠はされていたが、裏手の窓が少しだけ開いていた。


 葵はためらいもなく中へ入った。

 「高校生のやることじゃないな……」

 湊が呟くと、葵は微笑んだ。

 「“名を問う者”に、年齢制限はないでしょ」


 


 棚の中には、段ボール箱が山積みになっていた。

 埃をかぶったラベルに“除籍処理候補”“重複削除”“記名異常”といった語句が並ぶ。


 二人で慎重に箱を開け、ファイルをめくっていく。

 数分後、葵が手を止めた。


 「……これ」


 見せられたページに、明らかに異常な空欄があった。


 > 【住民番号:10583】【氏名:朝比奈  】【期間:2007/04〜2008/03】

 > 【備考:本人照合不能につき仮抹消、再登録:2008/04】


 「……照合不能?」


 「たぶん、“その期間だけ”、湊の存在が“名として成立してなかった”ってこと。

 名前が書かれてても、“その名が指している存在”が明確に定義されていなかった」


 


 湊は、頭の中が静かになっていくのを感じた。

 現実から切り離されるような感覚ではなかった。

 むしろ、今この瞬間こそが“輪郭を与えられていく時間”だと直感していた。


 葵はゆっくりと呟く。

 「……私たち、もしかして“もう一度、名を得るため”に出会ったのかもね」


 その言葉が、風の音よりも確かに胸に響いた。



 夜、湊は一人で机に向かっていた。

 目の前には、町役場で見つけた住民記録のコピー。

 「2007年4月〜2008年3月」の欄に記された“照合不能”という文字列が、何度読み返しても現実感を伴わなかった。


 両親はこの期間について、何も語ったことがない。

 小学校の同級生にも、この時期の話題はほとんど記憶にない。

 まるで湊という存在が“棚に上げられていた”ような、曖昧な一年。


 不意に、古いアルバムを探したくなった。

 階下の物置には、子どもの頃の写真が箱に詰められている。

 灯りをつけ、ホコリの舞う段ボールを開けていく。


 2007年の春からのアルバムは、確かに存在していた。

 だが──その年だけ、ページの中身がごっそり抜けていた。

 写真の台紙に、紙を剥がしたような跡だけが残っている。


 「……なんで?」


 代わりに、アルバムの最奥に、小さな封筒が挟まっていた。

 中には、破れかけの小さなスナップ写真が一枚。

 写っていたのは、見覚えのない男の子と、祖母・澄江らしき人物──そして湊自身だった。


 しかし、その湊の顔だけが、なぜか“ぼやけていた”。

 ピントの問題ではない。顔の部分だけが、何かの処理で滲んでいるように見える。


 「……これ、ほんとに俺?」


 見れば見るほど、湊自身の記憶と結びつかない。

 ただ、手に持っている小さな白い石だけが、今の自分のものとまったく同じだった。


 


 翌朝、湊は祖母に問いただした。

 澄江は、しばらく沈黙したあとで、仏壇の脇から一冊の古びた帳面を取り出した。


 「これは“家の帳”だよ。お前の名前が正式に“戻った”とき、ここに記録された」


 その帳面には、筆書きで何十人もの名前と日付が並んでいた。

 中には、“朝比奈湊”という記述と共に、“再命日”という見慣れない言葉が添えられていた。


 > 【朝比奈 湊】 再命日:平成20年4月1日


 「……俺、名前を“再び与えられた”ってこと?」

 「そうだよ。あんたは一度、境に片足を突っ込んだ。まだ小さかったから、はっきり覚えていないかもしれないけど……あの年、ほんの少しの間、湊って名前が、この家の中から“消えた”」


 「消えたって……」


 「誰も、お前の名前を思い出せなかったんだよ。私も、母さんも、父さんも。

 声をかけようとしても、喉が詰まるようにして言えなくなってた。

 “あの子”とか“坊や”って言うしかなかった」


 その言葉に、湊は背筋が冷たくなるのを感じた。

 自分の存在が、家族の中からもこぼれ落ちていた時間──それが“空白時間”だったのだ。


 「それで……どうやって名前を戻したの?」

 「お前が、自分で書いたんだよ」


 


 澄江は、帳面の奥に挟まれていた古い紙を差し出した。

 そこには、子どもの筆跡で「みなと」と平仮名で書かれた文字があった。

 その周囲に、何かの印のような記号が複数、描き込まれていた。


 「お前があのとき書いた“名のかけら”を、私が“印”にして祠に戻したんだ。

 そしたら、名前が戻ってきた。戸籍にも登録できたし、誰も違和感なく呼べるようになった」


 湊は膝の上で、拳を握りしめた。


 「じゃあ、あの一年間、俺は──」


 「名前のない子だった。それが、お前の始まりでもある」


 


 沈黙が落ちた。

 どこかで時計の秒針だけが、淡々と進んでいた。


 湊は、その紙をそっと胸に当てた。

 あのころの自分の声は、もう思い出せない。

 でも、この紙が残っていたということが、“名を取り戻した”事実の証明だった。


 そして同時に、その紙は“もう一度、名を失う可能性”を示す警告にも思えた。


 葵の弟が、どこかでそれを越えてしまったように。




 翌朝、湊は早めに学校へ向かった。

 教室に着くと、すでに葵が席に座っていた。

 ふたりは顔を見合わせただけで、すぐに言葉を交わした。


 「……もう調べるべき場所、絞れてきた」

 湊が呟くように言うと、葵は頷いた。


 「町内の“住民統計”と、“生活実態調査”に食い違いがある。数だけじゃなく、“存在が確かめられていたのに、今は痕跡がない人”が複数見つかった」


 放課後、ふたりは公民館へ足を運んだ。

 古い統計資料が並ぶ棚の前で、湊が一冊のファイルを手に取った。


 「これ……平成二十年の調査資料」

 中を開くと、手書きの記録が綴られていた。

 そのなかに、ある異質な表があった。


 > 「調査対象不達成者一覧」

 > ・居住確認不能者:6名

 > ・戸籍上登録者(但し現住所不明):4名

 > ・声をかけたが名乗らなかった者:1名


 「……これが、実態に近い“空白者”たちのリストだと思う」

 葵の指が最後の行を示していた。


 > ・声をかけたが名乗らなかった者:

 >  ・所在:西花町二丁目 路地裏 

 >  ・年齢不明/性別不明 

 >  ・対応者メモ:『光の中で輪郭が曖昧だった』


 湊は記憶を遡る。

 それは、あの祠の前で出会った“少年”の像と、奇妙に一致していた。


 「……これ、今から行こう」


 


 西花町の路地裏は、雑居ビルの裏にある狭い道だった。

 入り組んだブロック塀と、塀の隙間から覗く自転車の残骸。

 午後五時。空の色が徐々に青から灰色に変わるころ、ふたりはその場所に足を踏み入れた。


 「……いた」

 葵が声を低くした。


 電柱の影に、ひとりの子どもが立っていた。

 背中にはあのときと同じ、大きなリュック。

 帽子を目深にかぶり、こちらに背を向けている。


 湊が歩み寄る。

 「……君、名前、ある?」

 振り向いた少年の顔は、やはり“像のように無表情”だった。


 しかし今回は、彼が小さく首を横に振った。


 「ない。でも……昔、あった」

 その声は微かで、今にも消えそうだった。

 「思い出せないだけ。誰かが、呼んでくれたら、きっと……」


 湊は、胸ポケットから例の紙を取り出した。

 「“松”……で始まる名前。これ、君のじゃないの?」


 少年はその紙を見て、一瞬だけ表情を変えた。

 まるで、何かが内側で“振動した”ような顔。


 「それ……ぼくのだったかも。でも、最後まで……呼ばれなかった」

 その言葉のあと、少年の体がゆっくりと透けていく。

 夕暮れの光のなか、輪郭が解けるようにして、彼は消えた。


 湊と葵は、その場にしばらく立ち尽くしていた。

 声にならない呼び名だけが、まだ空中に残っている気がした。


 


 その夜、湊は再び夢を見た。

 それは、音のない町の風景。

 全ての家に灯りがついているのに、誰もいない町。


 ある路地に立つと、足元にひとつの石碑があった。

 そこには、こう彫られていた。


 > 「名を失くした者 この地に眠る」


 風が吹き、石碑の下から無数の声が聞こえた。


 > ……ここにいた……

 > ……でも呼ばれなかった……

 > ……名前、もう一度……


 湊は目を覚ました。

 心臓がゆっくりと、しかし深く打っていた。

 夢の記憶が、現実と溶け合いながら残っていた。


 


 翌朝、葵からメッセージが届いた。


 > 「次は、“呼ばれなかった名前”を探そう。

 >  まだ町のどこかに残ってる。

 >  その人たちを見つければ、きっと“境”が見える」


 湊はその言葉を読んで、スマートフォンの画面を閉じた。

 その瞬間、耳元で誰かの囁くような声がした。


 > 「──おまえの名を、呼ぶよ」





 週末の朝、湊の部屋に葵が訪れた。

 机の上には、町の住宅地図が広げられている。

 ふたりは昨晩遅くまでかけて、祠の紙束と町の記録から拾った“名の空白”を一つずつ転記していた。


 赤いマーカーで印がつけられた場所は、全部で二十五か所。

 住宅跡地、廃屋、空き地、名前の削除された集合住宅の一室──それらは不思議なことに、町の“外縁部”に集中していた。


 「これ……なにかの“輪郭”みたいだね」

 湊がマーカーをなぞりながら呟く。

 「町の中心を囲むようにして、名の空白が配置されてる。まるで、何かを“囲んで”封じてるみたいだ」


 「うん。私もそう思った。

 たぶん……“名の境界”が、町全体をひとつの“容器”にしてる。

 外から何かが入り込むのを防ぐため、あるいは内側にある何かを逃がさないため」


 「……祠も、この輪の一部だよね」

 「境を、ひとつの“呪的構造”として見るなら、そうなる」


 


 ふたりは、赤い点が取り囲んでいる中心部分──町のど真ん中に、印をつけた。

 そこには現在、何も建物がない。


 「ここ、いま空き地になってるけど……昔は何があったんだっけ?」

 「記憶にないな」

 湊は首を傾げる。

 「子どものころ、通学路だったのに、なんで何も覚えてないんだろう」


 「私も。写真にも写ってないし、地図にも空欄になってる」


 「じゃあ、ここが──本当の“名の空白”なんだ」


 


 昼すぎ、ふたりは自転車でその場所へ向かった。

 町の中心にぽっかりと空いた四角い更地。

 雑草が生え、フェンスの隙間から風が抜けている。

 立て看板には、薄れて読み取りづらい文字。


 > 「この土地は現在 地権者不明のため 管理保留中」


 「あの時代に、地権者不明なんてことある?」

 湊の疑問に、葵は首を振った。

 「町のなかにあって、誰のものでもない土地──それは“名を失った場所”だよ」


 フェンスの鍵はかかっていた。

 だが、一部が傾いており、葵が手を差し入れて内側の錠を外す。


 「いいのかよ……」

 「これは“儀礼”だから」


 


 空き地の真ん中に、ふたりは立った。

 そこには何もない。

 だが、湊の皮膚がほんのかすかに、冷気に触れている。


 「なにか……変だ」

 「風が、外と違う。音が遠い」


 空き地の隅に、石の破片が落ちていた。

 湊が拾い上げると、それは明らかに何かの碑の一部だった。

 彫りがかすかに残っている。


 > 「──なき 名 ──」


 「ここに、碑があった。きっと、“呼ばれなかった名”を刻むための……」

 「なのに、壊されてる」

 「そして、町の記憶からも消された」


 


 そのとき、地面の下から音がした。


 ごう……ごう……と、空気が吸い込まれていくような音。

 湊が石碑の破片を戻すと、足元がわずかに陥没した。


 「なにか、ある。地下かもしれない」

 「降りる道は?」

 「……ない。けど、“呼べば”出てくるかもしれない」


 


 湊は、胸ポケットの中の紙──かつて自分が書いた「みなと」の文字を取り出した。

 それを地面の上にそっと置き、目を閉じて、静かに声を出す。


 「……朝比奈 湊、ここにいる」

 「この名前を持って、“境”に問う」

 「失われた名を、返してほしい」


 風が止まった。


 次の瞬間、足元の地面にうっすらと“環”が浮かび上がる。

 まるで、誰かが内側からそれを描いていたかのように。


 その輪郭が完成したとき、空気が一気に圧縮された。


 「……今、なにかが“応えた”」

 葵がそう呟いたとき、ふたりの背後から声がした。


 > 「──名を、欲しているのは、お前たちではない」


 振り向くと、そこには誰もいなかった。

 けれど、空き地の中心に、かつての“少年の像”に似た影が、微かに立っていた。





 空き地に刻まれた“環”は、陽の傾きとともに次第に明瞭になっていった。

 湊と葵の足元には、石畳のような模様が現れ、その中心に沈み込むような“影の井戸”が開いていた。


 「……行こう」

 湊は声を落とすようにして言った。

 その表情には、迷いよりも静かな決意があった。


 ふたりが一歩ずつ輪の中へ踏み入るたび、風が渦のように巻き、遠くの町の音が徐々に消えていった。

 やがて、風も止み、空間は“音を反射しない沈黙”に包まれた。


 


 そこは地下空間だった。

 だが、“地下”という感覚ではなかった。

 空間は広く、天井の気配はない。

 ただ、古い祠に似た“構造物”がいくつも並び、その一つひとつに白い紙が結ばれていた。


 「これは……全部、“名”?」

 葵が、結界のような結び紙をひとつ手に取る。

 そこには、掠れかけた筆文字で、名前とも言い難い“字の破片”が書かれていた。


 > 【……坂……ゆき……】

 > 【      仁】

 > 【つ……や】


 「呼ばれなかった名。名乗られなかった名。

 きっと、ここに眠ってるのは“完成しなかった存在たち”」

 湊が呟く。


 


 そのとき、奥の空間から何かが動く気配がした。


 ふたりは慎重に歩を進める。

 最奥に、円形の台座のようなものがあった。

 その上に、黒い鏡のような石板が横たわっている。


 「これは──」


 湊が手を伸ばすと、鏡面がふっと光を帯びた。


 そこに映ったのは、彼自身──ではなかった。

 顔も輪郭も、かろうじて“湊”に似ていたが、どこかが違っている。

 まるで、“彼が名を持たなかったままだった可能性の存在”のようだった。


 「……これが、“名の器”」

 葵の声は震えていた。

 「名は、個人の記号じゃない。“存在をこの世にとどめるための、仮の形”……。

 それがこの町では、場所や血筋とともに“管理”されてきた。

 でも管理されなかった名は、こうして器の外にあふれていった──」


 湊は、手を引っ込めた。

 石板の光がすっと消える。


 「俺、たぶん……もう一度、この器に戻されかけたんだ」

 「でも、自分で“名を再び書いた”。

 だから器の外に出られた。

 湊──あんたの“名”は、もう揺るがない」


 


 ふたりが踵を返そうとしたとき、空間に小さな声が響いた。


 > 「──まだ、終わってない」


 足元の影が微かに揺れる。

 その中心から、少年の“像”がゆらりと立ち現れた。


 「君は……」

 湊が声をかけると、少年は一歩近づき、口を開いた。


 > 「ぼくの名は、まだ誰にも呼ばれてない。

 >  誰かが、ぼくのことを呼んでくれるまで、

 >  ここにいるしかない」


 葵が、そっと手を差し出した。

 「なら、あなたの“かけら”を集めよう。

 この町のどこかに、あなたの名が、まだ残っているはずだから」


 少年の像は、微かに微笑み、風のように空間に溶けた。


 


 再び地上へ戻ると、日はすっかり暮れていた。

 輪郭の消えかけた夕闇の中で、町はいつもと同じ顔をしているようで、何かが違っていた。


 「町の“構造”は、名のうえに立ってる」

 湊がポツリと呟く。

 「そしてそれは、人間の記憶と結びついてる。

 忘れられた名前は、存在を削られる。でも……きっと思い出すこともできる」


 葵は頷いた。

 「失名者を見つけて、呼び戻そう。

 それが、私たちにできること」


 


 ふたりは並んで自転車を漕ぎ出した。

 風が頬をなでるたび、背後の空き地が微かに光を放っている気がした。

 それはまるで、名を持つ者たちが、名を失った者へ光を届けるような──


 夜の町に、灯りがひとつ、またひとつとともっていく。


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境の子 @tomooon777

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