ピンポン・デュエル
古木しき
停留所の勝負 ―押すか、押されるか―
俺は毎日、勝負をしている。
決まった時間に、決まった席に座り、そのときが来るまでじっと待つ。勝負は、ギリギリのリミットを競うチキン・レース。先にビビった方が負けだ。
「次は○○前、○○前。こちらでお降りの方は、降車ボタンを押して下さい」
車内アナウンスと共に、降車を告げる押しボタンの音が響く。やがてパスは停まり、ほとんどの客がここで降りてゆく。
俺とじいさん、二人だけを残して。
ドアが閉まる。バスが、ゆっくりと動き出す。
ここからだ。次の停留所までは、三分もかからない。商店街を過ぎ、信号を抜けたところから本当の勝負がはじまる。
ワンブロック。俺たちはどちらも動かない。角で曲がる。まだ動かない。
ここで車内アナウンスが流れる。
「次は○○、○○。こちらでお降りの方は、降車ボタンを押して下さい」
直線に入り、遠くに停留所が見えてくる。
俺はちらりとじいさんをうかがう。いつものように、ポーカーフェイスですっとぼけている。「ここで降りる気はないよ」とばかりに、前を見つめたままで。
前はそれにだまされた。けど今は、そうはいかない。
じいさんは、押しボタン。
いや、あえて呼ぼう、「ピンポン」と。
そのピンポンに、 静かに手を伸ばす。下から、そろりそろりと。まるでかたつむりが木の幹を上るように。
ポーカーフェイスの横で、人知れず上を目指す指だけが動いている。
じいさんのこの「スネイル・フィンガー」に、俺は何度も騙された。
停留所が、迫ってくる。あと二百メートル。俺はぐっと拳を握る。
あと百メートル。素人なら、ここで絶対に押してしまう。
「通り過ぎてしまうかも」という不安と、「負けたくない」という気持ち。そのせめぎ合いが、ぐんぐん高まってくる。
あと五十メートル。じいさんの指が、ピンポンにたどり着いた。
でも、まだ押さない。押すわけがない。
あと四十メートル。拳の中が汗ばんできた。
あと三十メートル。バスがブレーキをかけてから停まるまでの、制動距離を考える。
あと二十メートル。目印の病院をすぐ先に確認した。
もう、ダメだ。あと三秒待ったら、バスはこの停留所をスルーする。
一、──俺はピンポンに指を伸ばす。
二、──負けたくない。病院を通り過ぎた。
三、――車内に響き渡る音。
負けた。
(……ちくしょう!!)
俺の指は、めり込むように深くピンポンを押してしまっていた。
ピンポンを押したら負けだ。でも、ピンポン自体を押したくないわけじゃない。
小さい頃は、とにかくピンボンを押したかった。でもそれはガキ全般に共通することらしく、今でもバスに乗っていると「ピンボン押すー!」というガキの叫びが聞こえてくる。
初めて一人でパスに乗ったのは、小学生のとき。俺はボタンを押したくてたまらなかった。だから前の停留所でドアが閉まるやいなやボタンを押して、大人の失笑を買っていた。
車内の攻防に気がついたのは、中学生になってからだった。すべてがだるくてださくて、くだらなく感じていたとき。もはやボタンを押すことに何の喜びもなくなった俺は、 ただ漫然とバスに乗っていた。指を上げるのすらかったるくて、もういっそ終点まで行っちまえと、一番後ろのベンチシートでだらけていた。
そうしてぼんやり車内を見ていると、おかしなことに気がついた。
大人は、いや、ある種の大人は、ピンポンをぎりぎりまで押さない。
俺は不思議に思った。そしてよく見てみると、そういう人々はボタンを押したがっていないのだとわかった。なぜだろう。
でも、とある停留所直前でボタンを押したおっさんの顔を見て、俺はその理由を直感的に理解した。
悔しいのだ。そして、悔しいということは負けたと思っているのだ。
理由は、他にもあるかもしれない。「子供が押したいだろうから、ギリギリまで我慢していた」とか「潔癖性で、公共のボタンに触りたくない」とか。
でも、ピンポンを押さない人というのは、予想外に多かった。
そして年齢も性別も、 バラバラだった。「仕方ない」という顔で押してゆくOL風の女に、舌打ちをするサラリーマン。ばあさんまでもが、「やれやれ」と言いながら、制動距離ギリギリのところでボタンに指を伸ばした。
「お前が降りるのは知ってる。だったらてめえが押しやがれ」
そんな声が、聞こえてくるようだった。
一方、そんな攻防には一切気づかない人々がいる。ピンポンに対して、何の思い入れもなく、ただ自分が降りたい場所で自然にボタンを押して、自然に降りてゆく。そういうう普通の奴らが、「そうじゃない」奴らにとっては不確定因子になるわけだ。
不確定因子があるからこそ、勝負は面白くなる。
ギリギリのところで「あ、いっけない!」なんて言いつつボタンを押すババア。いい感じに緊張感が高まったところで「次降りるから、押してね」とガキに告げる母親。
そして勝負は、朝と夕方のラッシュ時が特に面白い。通勤や通学で、毎日乗り合わせる面子が揃い、互いが降りる場所を知っているから盛り上がるのだ。
特に朝は、名勝負が多い。セカンドバッグのおっさんと毛玉ベストのばあさんが繰り広げた「区民センター前の一騎打ち」など、背筋が震えるようだった。
勝負の後、停留所に降りた二人をギャラリーが固唾をのんで見送る。
するとばあさんは、敗れたおっさんの背中をそっと叩いた。
ギャラリー全員、心の中で拍手喝采。以来この時間のこの路線では、勝者が敗者に触れるというルールができた。
この攻防に気づいてから、俺は学校に通うのが楽しくなった。
電車通学の奴にはわからない、このスリル。ましてや自転車や徒歩の奴になんて、理解すらできないだろう。
それは、静かに燃える青い炎。わかる奴だけにわかる、熱い勝負のひとときなのだ。
ただ残念だったのは、俺は片道しか勝負に参加できないということ。
俺の学校は終点の近くにあったため、行きは最後まで乗っているしかないのだ。そこで帰りに勝負をかけるわけだが、それがまた微妙だった。
俺の降りる停留所は、終点の一つ手前。そしてこの路線の終点は「車庫前」。
つまり、 乗客はそれまでのどこかでほとんど降りてしまうということだ。
勝負をしようにも、相手がいない。
車内を見回すと、前の方にじいさんが一人ぼつんと座っているのが見えた。
あれじゃ相手になんないな。そう思っていたら、じいさんは俺の押したビンポンで、悠々と同じ停留所で降りやがった。
しかも、すれ違い様俺の肩に軽くぶつかってきた。
これはまぎれもなく、勝者の行動だ。
やりやがったな。
その日から、じいさんが俺の相手となった。
今日は負けたくない。俺は静かにスマホを鞄に滑り込ませる。両手を軽く膝の上で握って、ポジショニングは完了。
あとは無関心を極限まで装った末、人差し指を光の速さで動かすだけ。
『ライトニング・フィンガー」が、俺の得意技だ。
終点の二つ手前の停留所で、いつものように二人きりになる。高まる緊張感。アナウンスが流れ、直線に入った。
あと二十メートル。勝負に出るか。
そのとき──
いきなりじいさんが、ピンポンを押した。
(なんだそれ!?)
思わず声を上げそうになると、じいさんが立ち上がって叫んだ。
「止めてくれ! そこの角に、人が倒れてるぞ!」
幸い、バスのドアは開いたままだった。
運転手も事態を察して待ってくれていたらしい。俺たちが後ろのドアから再び乗り込むと、じいさんが、
「このおばさんを、そこの病院前の停留所まで進んでくれ」
と告げた。
運転手がうなずき、バスは素早く発進した。
おばさんを降ろすときは、運転手も手伝ってくれた。三人で病院のドアをくぐると、 じいさんが「ヒマだから、私が付き添うことにしよう」と言った。
「あんたは会社に報告する義務があるだろうし、あんたは学生さんだ。二人とも忙しいだろう」
運転手は戸惑いながら、「もし何かあったら」と俺たちに名刺を渡した。
翌日。
俺が降りる一つ手前の停留所で、やはりほとんどの人が降りた。
今日こそ。
いや、今日しかない。俺はこの勝負に、すべてを賭ける。
近づいてくる。今日は倒れている人もいない。
あと三十メートル。じいさんの手が、ピンポンにかかっている。
そのとき、車内にピンポンとチャイムの音が響き渡った。
ピンポンが鳴った瞬間、俺とじいさんはぴたりと動きを止めた。
同時に、ため息をついて視線を後ろにやると――
そこには、俺たちの勝負などまるで興味なさそうに、「バス慣れてないんで」といった風の新顔――カバンを抱えたピンクのカーディガンを着た女子高生が、イヤホンをしたまま立ち上がっていった……。
ピンポン・デュエル 古木しき @furukishiki
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