奉稲祭

第7話 奉稲祭前夜

「ただいま〜! 疲れたっ……!」


土間の縁側小上がりに腰掛けて草履を脱ぎ落とし、そのまま仰向けに倒れ込む。


初めての銘米神議の務めは無事果たせたものの、様々な出来事が麓の心に不安の種を残した。


「その方は本当に土地神なのですか」


稲丸の言葉が反芻する。曰く、土地神とは銘米神の核を入れた器そのものを指す言葉であり、要はその土地の「土壌」のことなのだ。もちろんそこに「神が宿っている」という認識は共通しているが、稲丸は土地神が人の姿で顕現しているという話を聞いたことがないという。


——すみません。自分が知らないだけかもしれないのに、不安にさせてしまいました。……祖父が地方伝承に詳しいので聞いてみます。お伝えは、来年以降になってしまうと思いますが——


ぼんやり天井を見上げながら葦津について考える。物心つく頃から遊んでもらい、自然についての知識もほとんど葦津に教えてもらったものだ。土地神ということに何の疑問もなかった。じいちゃんも、恐らくそうだろう。


年季の入った天井の梁(はり)が鈍く光を吸い、仄暗く影を落としている。茅の隙間からの冷たい風が、奥の木組みをわずかに揺らした。


(まあ考えてわかることでもないし、俺も明日、葦津に直接聞いてみるか……)


今年も悲願であった格上げはできず、小町さまの心情も気掛かりだ。


しかし、不安だけでなく嬉しいこともあった。


——


「今更ですが、お名前はなんとお呼びすれば。自分は稲丸と言います」


「あ、麓です。ふもとと書いて麓」


「では麓さん、今度お会いするときは敬語じゃなくて良いですからね」


「……! じゃあ稲丸くんも、敬語なしで!」


「それは無理ですね……いや、すごい悲しそうな顔するじゃないですか。違うんです、自分敬語じゃないとめちゃくちゃ方言出ちゃうんで……口もそんなに行儀良くないです、実際は…」


恥ずかしそうに拳で口を押さえる稲丸の姿を思い出しながら、麓は目を閉じた。


「稲丸くん、推せるな……」


特格・神稔の米を作っている稲守と繋がりができた。これは麓にとって今までにない大きな成果だ。みんなきっと喜ぶ――


「かぁっ!! そげなとこで礼袴のまんま寝ころんで! はよ着替えて、風呂入り!」


ガラリ、と勝手口の戸が開き、母親の声が土間に響いた。


「……あ、母ちゃん、ただいま。じゃけん、風呂入ろうかね、もう湯沸いとる?」


むくりと体を起こして座敷にあがり、羽織を脱ぐ。


「沸いとらんし、薪も切れとるけん。あんた、明日の分と一緒に割っといてくれんかね」


母は土間に野菜や藁を運び込みながら、親指でクイッと勝手口の外を指した。


「無慈悲すぎん……? 銘米神議も頑張ってきたんだがな、俺は……」


しくしくとぼやきながら、麓は絣(かすり)の着物に着替え、土間に出て母の荷運びを手伝う。


「お母ちゃんたちかて、朝から祭りの支度でがんばっとったんじゃけんね。……まあ、無事務め果たせたみたいで安心したわ。お疲れさまな」


優しく笑って背中を叩く母を見て、麓は「うん」と頷いた。


「麓〜! じいちゃんが火ぃ焚くけん、そのまま風呂入ってええぞ〜」


勝手口の向こうから祖父の岳が声をかける。


「……だって、ええおじいちゃんでよかったなぁ」


母に肘で突かれ、麓も肘を突き返す。


「ほんま母ちゃんと大違いだわ」


「なんがか! 笑」


笑いながら母は炊事場へ消えていった。


さて、風呂行くかと振り返ったとき、襖の隙間から鳴実がひょっこり顔をのぞかせているのに気づき、うおっ、と声が漏れる。


「おかえり」


「あっ!!!!!!」


鳴実の顔を見て、一瞬で記憶が蘇る。やべぇ……伊都屋の大福…すっかり忘れとった……!


あからさまに「やばい」という顔で固まる麓を見て、鳴実は呆れたように肩をすくめた。


「あー、めっちゃ楽しみにしとったのになぁ」


「ごめん……マジで……」


「あまりのガッカリ具合に寿命縮んだわ」


鼻で笑い、冗談めかす鳴実を、麓は悄然(しょうぜん)とした面持ちで見つめた。


「……なんちゅう顔しとんや。冗談に決まっとるがな……逆だが、逆。あれ食べるまでは死ねんけんね〜」


鳴実はおどけるように、手をひらひらと振ってみせた。


「明日から祭やな。神猪相撲、楽しみにしとるけん、きばってな」


「……おう」


そっと襖を閉じ、部屋に戻っていく鳴実の背を見送りながら、麓は深く頭を下げた。


畳の縁に、先日鳴実が吐いた血の跡が、うっすらと残っていた。




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