第8話 奉稲祭・朝

明け六つ(午前四時)、障子の向こうにかすかな明かりが滲み始める。


小鳥たちのさえずりが遠くで聞こえ、麓は布団の中で小さく身をよじった。胸の奥にわだかまる緊張は、じっとしていると余計に騒がしくなる。


(やばい……あんまり寝れんかった)


そっと布団を抜け出し、背伸びをして左右に首を回す。


冷たい床板に音を立てぬよう足を置き、階段を下りると、座敷奥の台所で母が湯気の立つ鍋をかき混ぜているのが見えた。


「……おはよう」


「おはよ、随分早いねぇ。さては、緊張であんまり寝れんかったか?」


図星を突かれ、麓は「うん」と曖昧に笑った。


座敷の端には、黒地に白い稲穂紋の半被と帯が用意されている。


「小町さまへのお供え、用意できとるけん。朝ごはん食べたら社に運んどいてな」


「わかった、ありがとう。……今日の味噌汁、具がいっぱいやな」


鍋を覗き込むと、味噌の香りを含んだ湯気が鼻先をくすぐった。大根、にんじん、長ネギ、それに麓の好物の鶏のつくねが浮かんでいる。思わず「やったぁ」と小さな声が漏れた。


「ほれ、ご飯よそっておいで。盆に鰯と漬物も置いとるけん」


促されて竈の蓋を開けると、炊き立ての白米の湯気がもわっと顔にあたる。しゃもじを差し入れると、もっちりとした手応えがあり、ふくふくと膨れた米粒が湯気の奥から顔を覗かせた。ひとすくい茶碗に盛ると、一粒一粒がつややかに立ち、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐる。思わず腹が鳴り、麓は味噌汁を受け取ると足早に座敷へ戻った。


「いただきますっ!」


甘い米と熱々の味噌汁が、じんわりと緊張をほぐしていく。


(うまい……やっぱ、これやな)


噛むたびにふわりと甘みが広がり、しゃっきりとした食感が心地よい。香りはあっさりとしていて、どんなおかずにも寄り添う。


(……そうだよな。これ、格七位は超えとるよ)


稲丸の言葉を思い出し、麓は小さく頷いた。


「――よしっ! じゃあ行ってきます!」


食事と身支度を終える頃には、すっかり緊張はほぐれ、いつも以上に元気が漲ってきた。神猪相撲用の厚底地下足袋を締め、お供えの大風呂敷を抱えて大戸口を開けると、外はすでに屋台や土俵の準備で賑わっていた。


「おはよう、麓!」「今日は頼んだぞ!」


村人たちの声に頭を下げ、笑顔を返す。


(今年の奉稲祭も天気が良くて良かった)


高く澄んだ空を見上げ、麓は微笑んだ。


奉稲祭――出穂村に古くから続く収穫祭。


毎年十月十日、村人たちはその年に刈り上げた稲を社に供え、感謝とともに来年の豊穣を祈る。もともとは身内のみで行われるこぢんまりとした祭だったが、最近は「穂鳴おどり」や「神猪相撲」を目当てに村の外からも多くの人が訪れるようになった。


社に着くと、小町が社の縁側に座っているのが見えた。


麓に気付いた小町は笑顔で小さく手を振った。


「おはよー、晴れて良かったねぇ!」


「おはようございます」


挨拶を交わし、お供えを社の内へ運び込んで並べる。


「……見てください、今年も吉備団子と米菓子、いっぱいですよ」


「うおー! 最高のやつだ!」


一個たべちゃお〜、と目を輝かせて早速つまみ食いをする小町を見て、麓は少しホッとした。


「あ、銘米神議お疲れ様。初めての神議、どうだった?」


「いや〜、色々あって……」


と話しかけかけて、麓はふと気づく。


「そういえば葦津は……?」


「葦津? 多分、山にこもってるんじゃないかな。猪変化の準備するんだよ。あれって実はものすごく神気使うんだって」


もにもにと団子をかじりながら、小町は社奥にそびえる羽鳴山を見上げた。


「……今年はついに麓と葦津の神猪相撲が見られるんだねぇ。私も見に行くから、頑張ってね!」


「……葦津、俺にもちゃんと手加減してくれますかね?」


「それはどうだろう」


真顔で返され、「えっ」と戸惑った麓を見て小町は吹き出し、麓の背を軽く叩いた。


「大丈夫、葦津だもん。きっといつもと同じように盛り上げてくれるよ」


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