夢であれば
@wasuregusa
上
今日、私の大事な愛犬が死んだ。14年間の生涯に幕を閉じたのだ。私の人生の半分以上を一緒に過ごしてくれた紛れもない家族の一員であり、明日も会うはずだった大切な存在であった。そこにいるのが当たり前だった。もうこの世にいないということを未だに自覚できないでいる。これを書いている今もだ。
明らかに衰えがあった。だが、飯の時は老いを感じさせない生き生きとした笑みを浮かべ、動き回り、目を離した刹那完食するくらいの食欲を見せてくれていた。そんなあの子は、飯時以外の時はほぼほぼ寝て過ごしていた。元来落ち着きのなく、ちょっかいをかければすぐさま噛みつくような血気盛んで元気な子だった。だが、近年はその活気を失った代わりに穏やかな表情と行動をとるようになっていた。それが、嬉しくもあったが不安の要素でもあった。覚悟を持っておかなければならない時期でもあった。だが、そんなの持ったって持ち腐れてしまうだろうと確信してしまう程あの子がいる日常というのは当たり前で、これから続くことを前提に生きていたから、あの子を失う心の余裕を作ることをしなかった。いや、できなかったというべきだろうか。いなくなることが想像できなかった。今はもう、もし生きていたらと想像するしかできない。そんなことを書いているがとてつもなく空虚的だ。
今朝のことだった。私はいつも通り起床した後、用を足し顔を洗い、そしてあの子のもとへと向かう。これが私のルーティーンであった。あの子は一階、私は二階で寝ているのだが、私が一階へ降り色々していると顔を見せに来てくれることが多い。だが、気づかず寝続けていることも珍しくはなかった。
私は、まだ寝ているのだろうと思い足音を立てずに寝坊助の所へと向かった。ピアノの下に寝転がっているのを見て微笑ましく思った束の間、私は強烈な違和感に襲われた。横たわっているあの子のお尻のすぐ横に糞が転がっており、反対側には濁った液体が広がり、口元には透明な液体と少量の泡。私はその異様な光景を理解するのに戸惑った。ただ、考える前に体が動いていた。大声で名前をよび、口元に耳を近づけ、胸に手を当てた。部屋には私の声と焦燥に満ちた呼吸音だけが響いた。そして私はとりあえず仕事中の母に電話をかけた。携帯電話にかけても出ないので、職場に電話をかけた。そして電話先の名前も知らない母の職場の職員に私は今にも詰まり止まりそうな声で母の名前と急ぎの連絡があることを伝えた。了承した職員さんが母を呼ぶ間の保留音がなんだったかもわからない程、私の心は怯えていた。あの子を愛してやまなかった母がこのことを聞いたらどうなってしまうだろうか、と。そして体感一瞬の間が過ぎた後に、聞き馴染みのある声が聞こえたとともに私の思考は完全に停止した。そしてすぐに、どう伝えるべきだろうか、いっそはぐらかしてしまったら今母を傷つけずに済むのではないかという考えが過った。きっとこれはただの保身だったのだろう。口にしてしまったら、母の反応を聞いてしまったら私は恐らく正気ではいられないから。だけど、私は一言一言紙に書くように口にした。「息をしていない」と。『死』という言葉を無意識に避けた。これも保身であった。そしてそれを聞いた母は思っていたより冷静であった。勿論驚きの声はあった。ただ私は母がその場で発狂しだすものだと思っていたのだ。そんな母に私は残酷にも助けを求めた。「早く帰ってきてほしい」と救いを求めたのだ。今思い返しても本当に残酷なことを強いたと後悔している。そんな私に母はあの子の首輪を外してあげて欲しいと頼んだ。私にはその意図が掴めなかったが、元々あの子に付けていた首輪はあまり良い経緯でつけられていたわけではなく、元来警戒心の強かったあの子は首輪を付けるのも外すのも簡単にはさせてくれなかった。だから、ずっと付け続けていたのだ。そのため、あの子にとって首輪は家族の証というよりも過去の余韻でしかないのかもしれない。そう今は思う。そして、あの子をいつも寝ていた場所に移そうと抱きかかえた。手足が完全に硬直し、首も固まっていた。そして無反応であった。それが私に『死』という存在と抱きかかえたものが亡骸であることを無情に自覚させた。抱っこされるのが嫌いな子だったのであまりしてあげなかったのだが、数年ぶりに抱き上げたその体は最後に感じた重みよりもずっと増していた。そして落ち着いた場所へと寝かしてあげた後に数年ぶりに首輪を外した。首周りの毛は首輪の跡がくっきりと残っており、長年にかけて縛り続けてきたことを示していた。その首輪を握りしめながら、私はあの子に声をかけた。人生の半分以上ともに過ごしてきた家族への言葉は感謝と生涯を全うしたことへの労いの言葉だった。よく生きてくれた。ずっと心を支えてくれた。たくさんの笑顔と癒しを与えてくれた。そしてなにより出会ってくれたことに感謝の念を注いだ。
しばらくすると車の音がした。母の車だ。私は緊張に似た感覚を覚えた。電話越しでは感じることのできなかった母の感情を目の当たりにするのがとても怖くなったと同時に安心感もあったのだ。あの子は母によく懐いていた。いつも仕事から帰ってきた母に寂しかったと文句を言う様に鼻を鳴らしていた。だから、やっと母に合わせてあげられることが嬉しかったのだ。車のドアが閉まる音、玄関のドアが開ける音、玄関から鼻を啜る音、近づいてくる足音。音だけが私にいろんな情報を伝えてくる中でふと足音が止み、声にならない泣き始めの一息が聞こえた。振り返ると顔を赤くした母が大粒の涙を流していた。私はそっと母に歩み寄りあの子のもとへと案内した。母はあの子の名前を呼び、なんでと呟き、現状に疑問投げかけていた。そして私は一連の流れを説明した。しばらく母の泣き音とあの子の形の変わらない姿、私の虚無な心情の三角形があの子が眠る部屋にあった。どれくらい経った頃だろうか、母が綺麗にしてあげようと提案してきた。無論了承した。排泄物等で汚れてしまった体をお風呂で洗うのだ。母が準備を整えたのちに私はあの子の亡骸を抱えた。この時が一番あの子になかにはもう意識がなく、腕の中にいるのはあの子の入れ物なのだと認識してしまう。そしてお風呂へと運び、浴室の床にそっと寝かせた。シャワーから出るお湯とともにあの子へ言葉をかける母の声に私はとうとう限界を迎えてしまった。溢れ出る涙と早くなる呼吸に胸が苦しくなってきて、私の意識はどんどん歪んでいき、顔が発熱しているのがよくわかった。両手を洗面台に置いて体を支え、できる限り落ち着きを取り戻そうとした。なんとか呼吸は整いましたが、もう足で体を支える力も気力もとうになかったから、どうしようもなく床にへたりと座り込んだ。あぁ、本当に限界だった。悲しみや悔しさや罪悪感その他諸々の負の感情が一気に押し寄せた瞬間だった。あの子は生きる原動力だった。どんな事象や存在よりも心の支えであった。依存していた。だからもう、仕方がなかった。あの子にとっては数年ぶりのお風呂だった。お風呂が苦手なあの子にストレスを与えないようにとあまりお風呂には入れていなかったのだ。その数少ないお風呂の思い出がその時はっきりと私の頭の中に映った。あの時の音も匂いも気温も視界の低さも全て鮮明にその情景は私に思い出させた。そんな中、まだあの子を綺麗にしている母を見て私はすぐに浴室へと足を踏み入れた。今までは危ないからと洗わせてもらえなかったが、生まれて初めて、いや出会って初めてあの子を洗った。洗い終わってびしょ濡れになったあの子は全然乾かなかった。小一時間くらい乾かしていた。乾かないねと少し笑みを含んだ会話を母とした。そして乾かした後に爪と肉球の毛を整えた。元気な頃だったら絶対切らせてもらえなかったなと思いながらも私史上初めて切った。その後、綺麗になったあの子を保冷剤を下に敷いたシーツの上に寝かせた。そして、毛布を被せて頭のそばに水と山盛りのごはんを置いた。あの子はとても穏やかな顔をしていた。目は眠っている時にたまに見せる少し開いた目だった。瞳孔が開いて真っ黒になったその目は私の心の中を映したようだった。そしてあの子が好きだったピアノを弾いて聞かせた。お世辞にも上手いとは言えない出来だけれど、あの子が何回も聞いた不出来なものが一番だと思った。それからは、思い出話をしたり普段通りの生活をした。私は急激な眠気に襲われ、気を失ったように眠りについた。一時間と少し眠ったあとの第一の思考は夢だったのではないかという淡い期待であった。その期待は当然のように裏切りを運んできて、私は勝手に落胆し、その自分勝手さにも嫌気がした。自己嫌悪に満ちた心情から少しでも目を背けたくて私は普段通りの、あの子がまだこの世に生きていた頃のように生活をした。泣いて泣いて泣き枯らしたというのに、一向に現実味が追い付かなかった。いや、私が逃げているだけなのかもしれない。これを書いている数時間後には今のあの子の姿は無いだろう。そんな未来が来て欲しくないから眠りにはつかなかった。ただ、嫌な時間はすぐに近づいてくる。大きなため息とパソコンのキーボードの音が私の部屋に響き続けた深夜の数時間は人生で一番辛く、空虚なものだった。今から四時間後にはあの子は煙となって天へ向かうのだろう。
あぁ、その未来も今も過去も全て夢であれば。
夢であれば @wasuregusa
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