(五)師弟問答
「御免」
一声掛けてから、璃々江は
(
璃々江は、きつく唇を引き結ぶと、慎重に雪駄を脱ぎ、上がり
先ほど平沼将監から聞いた話では、血気に
まずは声の主の正体と安否を確かめるべく、武林がいるであろう書院や寝所はあえて避け、屋敷奥の台所に足を踏み入れると、そこには平沼の配下と思しき二人の男が一心に咖哩を飲んでいた。
「た、たまらんのう、この咖哩」
「さすがは、
二人は、大鍋から咖哩を汲んでは大ぶりの茶碗に注ぎ入れ、喉を鳴らして咖哩を飲んでいる。よく見れば、彼らの腰には大小が無い。彼らもそれなりに剣は遣うのだろうが、二人がかりでも武林の敵ではあるまい。
おそらく屋敷内で武林に打ち据えられて悶絶、腰の大小を取り上げられて台所に放り込まれた。手足を縛る必要などない、武林の咖哩を飲めば、大方の人間は使命なぞ忘れて咖哩を貪り続けるだろう――この、平沼の配下たちのように。
そう璃々江が察した時だった。かすかな気配に、璃々江は振り返らず無音で横に跳びながら、脇差に手を掛ける。
「やはりお前か」
声に遅れて台所に入って来た男は、武林だった。そのあまりの荒みぶりに、璃々江は危うく声を漏らしそうになる。最後に会ったのは昨年の暮れの挨拶で、確かにその時も内心の
「……勝手に上がってしまい、失礼いたしました」
璃々江は脇差から手を放し、無礼を詫びた。武林は手を振って、無用のことだとぞんざいな口調でつぶやいた。
「お前は討っ手だろう。上がっていいか尋ねる討っ手がいるか」
枯葉が風に鳴るような音がした。どうやら武林の笑い声らしい。
「さっき、
武林の言葉に、璃々江も思わず唇の端を上げた。
「かの御仁でしたら、門の外で剣の素振りをされるようお願いしてまいりました。十万回ほど振るようにお願いしておりますので、当分邪魔は入らぬでしょう」
場の空気は多少
しかしふと、背後で咖哩を飲む二人のことを思い出した。
「新しい咖哩でございますね」
まるで空模様を話すかのような口調で話題を転じると、武林は低く唸りながらうなずいた。「試すか?」
「はい、頂戴いたします」
璃々江は、勝手知った台所の棚から織部の茶碗を持ち出すと、一心に咖哩を貪る下士二人の間から手を差し入れて、大鍋から椀に咖哩をすくい入れた。
「……これは、
とろりとした咖哩の表面に、橙色の油が浮いている。武林は肯定も否定もせず、元弟子が自分の咖哩を観察する様を、無言で見守っていた。
武林の
「多めの油で、玉葱を揚げておられますね」
ふた口喫した璃々江が、赤みがかった橙色の咖哩を見つめながらつぶやいた。
「薄切りの玉葱を揚げて取り出し、その油で刻んだ
璃々江は一度言葉を切り、もうひと口味わってから続けた。「粉に挽いた香料と塩を加え、これも油と絡ませて炒める」
「その香料や如何に」
武林が、かつての弟子に問う。ごく自然に、璃々江も弟子として師に答えた。
「
「見事」
武林は、短く元弟子を褒めた。璃々江の解析は続く。
「香料を入れた
璃々江は、今や
「――人を狂わせるほどに」
油は、熱によって水気を飛ばすのみに
璃々江は茶碗を置くと、懐紙で口元を拭い、持参した書状を取り出した。
「武林殿。私は、貴公を討つよう命じられました」
「覚悟はしている」武林は、気だるげに応じた。
「しかし、
武林の頬が、わずかに動く。璃々江は、書状をかつての師に差し出した。
「ついては、明後日拙宅にて、一客一亭の座を設けたいと思います。仔細はこちらにございますゆえ、何卒、足をお運びのほどを」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます