(五)師弟問答

 武林たけばやしの屋敷に足を踏み入れようとした璃々江りりえの耳に、男の低い声が聞こえてきた。うめくような、形容しがたい声。武林の声ではない。

「御免」

 一声掛けてから、璃々江は戸場とばが蹴破った玄関から屋敷内を見通す。寒々とした邸内の右手、台所のあたりから、男の声が聞こえてきている。複数だ。


将監しょうげん殿の配下か)

 璃々江は、きつく唇を引き結ぶと、慎重に雪駄を脱ぎ、上がりかまちから廊下に足を運んだ。


 先ほど平沼将監から聞いた話では、血気にはやる下士二名が物見ものみと称して屋敷内に侵入したものの、一刻いっとき経っても出てこないとのことだった。声の主はおそらくその二人だろう、と璃々江は腰を落として廊下を進む。この屋敷は、かつて武林に咖哩の湯を師事していた頃に何度も出入りしていたので、薄暗くとも歩みに迷いは無い。


 まずは声の主の正体と安否を確かめるべく、武林がいるであろう書院や寝所はあえて避け、屋敷奥の台所に足を踏み入れると、そこには平沼の配下と思しき二人の男が一心に咖哩を飲んでいた。

「た、たまらんのう、この咖哩」

「さすがは、元咖哩道指南役の咖哩じゃ」

 二人は、大鍋から咖哩を汲んでは大ぶりの茶碗に注ぎ入れ、喉を鳴らして咖哩を飲んでいる。よく見れば、彼らの腰には大小が無い。彼らもそれなりに剣は遣うのだろうが、二人がかりでも武林の敵ではあるまい。


 おそらく屋敷内で武林に打ち据えられて悶絶、腰の大小を取り上げられて台所に放り込まれた。手足を縛る必要などない、武林の咖哩を飲めば、大方の人間は使命なぞ忘れて咖哩を貪り続けるだろう――この、平沼の配下たちのように。

 そう璃々江が察した時だった。かすかな気配に、璃々江は振り返らず無音で横に跳びながら、脇差に手を掛ける。


「やはりお前か」

 声に遅れて台所に入って来た男は、武林だった。そのあまりの荒みぶりに、璃々江は危うく声を漏らしそうになる。最後に会ったのは昨年の暮れの挨拶で、確かにその時も内心の懊悩おうのうが顔ににじみ出ていたが、今の武林の顔は、まるで別人だった。憔悴しやつれた頬を不精髭が覆い始めていたが、その目の奥には、名状し難い光が宿っている。今は大胆にも無腰だが、剣の腕はいささかも衰えていないであろうことを、同じ剣士である璃々江は、即座に看破した。


「……勝手に上がってしまい、失礼いたしました」

 璃々江は脇差から手を放し、無礼を詫びた。武林は手を振って、無用のことだとぞんざいな口調でつぶやいた。

「お前は討っ手だろう。上がっていいか尋ねる討っ手がいるか」

 枯葉が風に鳴るような音がした。どうやら武林の笑い声らしい。

「さっき、戸場とばが屋敷を駆け抜けていったときは、さすがに驚いたぞ」


 武林の言葉に、璃々江も思わず唇の端を上げた。

「かの御仁でしたら、門の外で剣の素振りをされるようお願いしてまいりました。十万回ほど振るようにお願いしておりますので、当分邪魔は入らぬでしょう」

 場の空気は多少なごんだが、武林の暗い目つきはさほど変わっていない。璃々江は早々に懐中の書状を武林に渡そうと考えていたが、どうにもその時期が計れず、内心悩み始めていた。

 しかしふと、背後で咖哩を飲む二人のことを思い出した。


「新しい咖哩でございますね」

 まるで空模様を話すかのような口調で話題を転じると、武林は低く唸りながらうなずいた。「試すか?」

「はい、頂戴いたします」

 璃々江は、勝手知った台所の棚から織部の茶碗を持ち出すと、一心に咖哩を貪る下士二人の間から手を差し入れて、大鍋から椀に咖哩をすくい入れた。


「……これは、上方かみかたの咖哩でございますね」

 とろりとした咖哩の表面に、橙色の油が浮いている。武林は肯定も否定もせず、元弟子が自分の咖哩を観察する様を、無言で見守っていた。


 武林の咖哩道の流派は火天かてん流だが、彼は以前、古い上方の流派である青嵐せいらん流を学び、師である某宮家から『咖哩古今伝授』の秘儀をただ一人授けられたと聞いたことがある。まさかこの咖哩がその秘儀によるものではなかろうが、油をふんだんに使い、肉も鶏や豚ではなく牛を使うあたりは、明らかに火天流ではなく青嵐流の技法だった。


「多めの油で、玉葱を揚げておられますね」

 ふた口喫した璃々江が、赤みがかった橙色の咖哩を見つめながらつぶやいた。

「薄切りの玉葱を揚げて取り出し、その油で刻んだ大蒜ニンニク生姜ショウガを炒める。しかる後に牛の肉を加え、油を絡ませながら表面を焼き付けるように炒め……」

 璃々江は一度言葉を切り、もうひと口味わってから続けた。「粉に挽いた香料と塩を加え、これも油と絡ませて炒める」


「その香料や如何に」

 武林が、かつての弟子に問う。ごく自然に、璃々江も弟子として師に答えた。

馬芹クミン小豆蔲カルダモン、赤唐辛子」即答してから、少し間を空け、「……それと、肉桂シナモン肉荳蔲ナツメグをごく少量。鬱金ターメリックは、入れておられませんね」

「見事」

 武林は、短く元弟子を褒めた。璃々江の解析は続く。


「香料を入れたのち、潰した唐柿トマトを加えて水気を飛ばしつつ炒める……肉に十分火が入った頃合いに、揚げておいた玉葱を鍋に戻し、なじんだところで水を加えて半刻ほど煮込む。煮あがったとき、材料の旨味が溶け込んだ油が表面に浮いているでしょうが、その濃厚な味わいがたまらない――」

 璃々江は、今やよだれをとめどなく流しながら咖哩を飲み続ける平沼の配下たちを眺めた。

「――人を狂わせるほどに」

 油は、熱によって水気を飛ばすのみにあらず。それ自体の旨味に加え、具材の持つ味と香りを引き出す力を持っている。ゆめ、軽んずることなかれ――武林の教えを、璃々江は心の中で反芻していた。


 璃々江は茶碗を置くと、懐紙で口元を拭い、持参した書状を取り出した。

「武林殿。私は、貴公を討つよう命じられました」

「覚悟はしている」武林は、気だるげに応じた。

「しかし、杉平すぎだいら家老に嘆願いたしまして、五日の猶予を賜りました」

 武林の頬が、わずかに動く。璃々江は、書状をかつての師に差し出した。

「ついては、明後日拙宅にて、一客一亭の座を設けたいと思います。仔細はこちらにございますゆえ、何卒、足をお運びのほどを」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る