(四)颶風(ぐふう)の如く

 天頂に達した冬のが、薄い灰色の雲ごしに鈍く輝く中、璃々江りりえは再び寒空の下を歩いていた。行先は、武林たけばやし邸である。

(油断ならぬは、杉平すぎだいら外記げき……)

 璃々江は、外記の茶室でのやり取りを思い返していた。



「斬らぬ?」

 薄咖哩を立てる外記の手が止まった。璃々江は、はい、と短く答えた。

 外記の手がふたたび動き、煤竹すすたけの茶筅がさらさらと音を立てる。杉平家秘蔵の志野茶碗の中でかれているのは、釜から柄杓ひしゃくんだ咖哩だ。

 外記は無言で茶筅を置くと、白い茶碗を璃々江の前に置き、低く声を発した。

「斬らずば、何とする」

 問答を楽しむような口調の中にも、璃々江の本心を鋭く問う気魄きはくがあった。いい加減な答えは許さぬ、そなたは討っ手なのだぞ、と。


 璃々江は家老の問いに即答せず、しばしの間、白く優美な志野茶碗と、そこに注がれた黄金色こがねいろ咖哩を見つめていた。そして咖哩の揺らめきが鎮まり、鏡の如く静かに落ち着いたとき、ずけりと外記の問いに答えた。

此度こたびの一件、北添きたぞえ弾正だんじょう様が背後におられる、と拝察しております」


 福羽ふくう藩は、三人の家老の合議制を採っている。三家老は形式上は同格だが、事実上の筆頭は瀬々倉せせくら伯耆ほうき、次席が杉平外記、そして末席が北添弾正である。


 外記は、その猛禽を思わせる相貌かおに何の表情も浮かべず、ただ先を促す意味でうなずいた。璃々江は端然と正座したまま、外記の黒い目を鋭く見返す。

「ここで武林を討てば、弾正様が喜ばれるは必定。お世継ぎ問題に関して、武林は旗幟きしを明確にし過ぎました」


 外記は答えず、目を炉に移した。璃々江も、外記の反応は期待していない。彼女は無言で一礼すると、志野茶碗を手に取って飲み口を回し、薄咖哩を口に含んだ。



 遠くから聞こえてきた男たちの声に、璃々江ははっと我に返った。外記の薄咖哩の味の秘密を考えているうち、いつの間にか武林の屋敷近くまで来ていたようだ。

 今は武林に集中せねば。璃々江はそう自分に言い聞かせ、道を急いだ。


 武林邸は、番方ばんかたである平沼ひらぬま将監しょうげんの手の者によって周囲を固められている。すでに新年の一件は城下に知れ渡っているらしく、下士たちは集まった物見高い見物人たちに向かって、必死に叫んでいた。

「皆、押すな! 見世物ではないぞ!」

「危険だ、下がれ下がれ!」

 見物人は、年老いた農夫とその妻の二人だけであったが。


 璃々江が近づくと、下士たちは慌ただしく駆け寄り、会釈して出迎えた。

「これは、咖哩道指南役殿……」

「お役目、ご苦労に存じます」

 璃々江が軽く会釈を返すと、下士たちはあわてて再度頭を下げた。

「この場を預かるのは、平沼様でございますね。今どちらに?」

「は……それが……」

 下士たちは互いに顔を見合わせた。何か良くないことが、と璃々江は身構えたが、答えは間もなく向こうからやって来た。


「璃々江殿!」

 突然、武林邸の玄関から、羽織袴の偉丈夫が飛び出してきた。下士たちが、急いで璃々江の前から跳び退く。

「……戸場殿」

 璃々江は嘆息と共に、肩の力を抜いた。武林の屋敷の庭を駆け抜け、内から門を蹴破って現れた福羽藩剣法指南役は、璃々江の前で立ち止まると、涼やかな目元に不審の色を浮かべて問うた。

「璃々江殿、何故こちらへ?」

「それはこちらが聞くべきことでございますね、戸場殿」


 璃々江はもう一度、今度は深々とため息をついた。「戸場殿は、江戸に向かわれたと聞きましたが」

「ああ、五百いお殿に聞かれたのですな」

 類稀たぐいまれな剣の腕を見込まれ、二十七歳という異例の若さで剣法指南役に抜擢された戸場とば勝之進かつのしんは、爽やかに相好を崩した。精悍な体つきに整った目鼻立ち。それだけ見れば、完全な美丈夫なのだが……。


「璃々江殿が江戸に向かわれるとうかがったゆえ、拙者もただちに後を追い申した。されど江戸がどこにあるのか分からぬ故、とりあえず南を目指そうとしたところ、この屋敷で平沼殿に呼び止められたのでござりまするよ」


 かつて戸場に剣の江戸修行を勧めたところ、「江戸とはいったい何でござりますか?」という答えが返って来たとき、彼の剣の師は悔恨の涙を流した――嗚呼、儂はこの男に、剣術以外のことを何一つ教えておらなんだ、と。

 江戸というのが地名だと理解できただけ、戸場は以前よりは進化したと璃々江は空虚うつろに感心した。璃々江の住む獅子浦ししうら邸から武林邸に達するには、道を北東に進む必要があったはずだが、北と南の違いはこれから覚えるだろう。


「それで、平沼様は何と?」

「うむ。戸場殿もご加勢いただけるのかと尋ねてきたので、否、拙者は咖哩道指南役殿に会いに来たのでござります、と答えた」

 璃々江はそっと、戸場の背後でこちらをうかがう平沼の下士たちに目で尋ねた。彼らはそろってうなずき、戸場の言葉を首肯する。


「……平沼様は、いずこに?」

「いや、それがな」

 戸場は困惑して、耳の付け根を掻いた。「何やら考え込んだ後、拙者をこの屋敷の裏手に誘ってな。璃々江殿がこの屋敷を訪ねてくるやもしれぬ、万一異変あらば、裏手から屋敷に討ち入って璃々江殿をお助けしてくれ、と頼み込むのだ。璃々江殿が来られるならと引き受けたのだが、まさにそのとき、璃々江殿のお声が聞こえたのだ」


 璃々江は事情を察した。武林邸を囲む平沼のもとには、璃々江が討っ手としてやって来る旨の念達が来たはずだ。そこにひょっこり戸場が現れたが、武林の件とは何の関わりも無く、ただ璃々江に会うために来たと言う。

 万事そつのない平沼は、家中随一の剣の遣い手をただ追い返すような真似はせず、万一の切り札として裏手に後置することにしたのだ――璃々江を餌にして。


 軍略としては見事だった。しかし、よもや戸場が、表で下士たちと言葉を交わす璃々江の声を聞きつけるなり、裏門から武林邸に突入、颶風ぐふうの如き勢いで邸内を突っ切り、玄関を蹴破って璃々江に会いに来るとは、夢想だにしなかったであろう。


「戸場殿」

 それでも、璃々江は己が責を全うするつもりだった。この桁外れのうつけ者と連れ立って、武林邸には入れない。

「お願いがござります」

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