(三)師の慧眼

「お戻りなされませ」

 帰った璃々江りりえを、弟子の五百いおが出迎えた。上がりかまちに腰を下ろした璃々江は、腰の大小を五百に預けると、低い声で告げる。

ふみを書きます。硯箱すずりばこを」

「はい。もうご用意しております」


 璃々江の従妹いとこにして住み込みの弟子である五百は、何かにつけ気が利く才女だが、ときに手回しが良すぎると感じることがある。璃々江は苦笑しつつ、廊下を渡って書院に向かう。その背に、五百が声を掛けた。


戸場とば様がお見えになられました」

「そのようですね。彼は何と?」

 背後で、五百が首を振る気配がした。「璃々江殿はおられるか、とだけ――」

「いつもの戸場殿ですね。何と答えました?」

「はい。璃々江様は御家老のお屋敷に向かわれました、そのまま江戸に出立しゅったつされますので、こちらにはお戻りになりません、と」


 璃々江は肩を揺らした。「戸場殿のことです。そのまま江戸に向かわれますよ」

「そのようでございますね。よし分かった、拙者もすぐに行くとおっしゃると、もう駆け出されて見えなくなってしまわれました」


「……道中、路銀や手形はどうされるのでしょうね」

「戸場様ほどの手練てだれなら、辻斬りや関所破りという手もございます」

「…………」

 五百の言葉がどこまで本気か分からなかったが、武林たけばやしの屋敷まで戸場と同道しなくてよいのは助かる――特に、今日のような重い役目の日には――と、璃々江は素直に安堵した。


 璃々江が書院に入ると、火桶で暖められていた部屋の空気が心地好く璃々江の頬を撫でた。障子越しの明るい光を浴びる文机ふみづくえの上に硯箱はなく、代わりに一通の書状が乗っている。

「これは?」

 璃々江が腰を下ろし、その書状を広げて読むと――。


「出過ぎた真似をとお叱りを受けるやもしれませぬが、武林様へのふみ、わたくしがご用意いたしました」

 手に漆塗りの盆を捧げ持った五百が、目を伏せて璃々江に詫びた。「杉平すぎだいら様よりお呼び立てがあったと聞き、武林様の討っ手の件だと拝察いたしました。璃々江様が討っ手となられるなら、必ずや、この――」

「五百」

 璃々江は諦めたように腰を下ろし、書状を丁寧に畳んだ。「私の考えを読むのは構いませんが、少し先回りしすぎですよ」


「申しわけ……」

「良いのです。この書状のとおりのことを、私はしたためようとしていましたから」

 璃々江は、五百から大ぶりの茶碗を受け取ると、咖哩をひと口喫した。

「これは……胡麻の咖哩ですか」


「はい」

 五百は火桶の中を覗き、火箸で炭の位置を整えた。「よろしければ、来月の稽古の折にでも、皆様にお出ししたいと思います」

 璃々江はうなずき、いまひと口咖哩すすった。粘度はあるが口当たりは滑らかで、何よりも香ばしい。胡麻の香りを中核に据えながらも、った香料が、優しく穏やかな味わいの中に、ピンと立った個性を与えている。


「香料は、胡荽コリアンダー馬芹クミン……それにこの爽やかな香りは、姫茴香キャラウェイですか」

「はい」璃々江の指摘に、五百は口元に微笑を浮かべた。が、続く璃々江の言葉に、その微笑は驚愕の喘ぎに転じる。

「……ですが、この香ばしさの秘密はそれだけではありませんね。最初に香料を炒めるのに使うのは胡麻油。そこに潰した大蒜ニンニク生姜ショウガを入れ、玉葱が色づくまで炒めてから、摺り胡麻を粉に挽いた香料と共に投じる。その香料は、胡荽コリアンダーと……胡廬巴フェヌグリークではありませんか?」


「は、はい」師の的確な指摘に、五百は思わず平伏していた。璃々江は目を閉じ、いまこの時の一服を味わっている。

「そして鍋の中身を全てすり潰して十分に攪拌し、鶏肉と共に弱火で煮て、最後に胡麻油を回しかける。なるほど、口当たりが良いはずです」

「お、おそれいりました」

「鶏肉は、あらかじめ香ばしく炒めておいたものですね。おそらく炒める際、煎り胡麻を加えているのでは?」

 師の慧眼に、五百は言葉を失って、ただ茫然とするのみであった。

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