(二)一足一見の間合い
今朝方うっすらと積もっていた雪はすでに溶け始めており、道はところどころぬかるんでいたが、雪駄履きの璃々江の足は、器用にぬかるみを避けて
璃々江の装いはいつもどおりの羽織袴だが、ぬかるんだ道中も泥を跳ね上げることなく、衣服には汚れ一つ付いていない。
しかし、と璃々江は灰色の空を見上げた。――
「あ、璃々江殿!」
いつの間にか自邸の門前まで戻っていたことを気付かせたのは、隣家の垣根越しにかけられた少年の声だった。
「これは、
璃々江が声の主に応えようと顔を向けたときには、すでに少年は門外に出て、璃々江のそばに駆け寄っていた。
「先ほど、
「戸場殿が?」
璃々江は苦笑して、自分の屋敷に目を移した。
「ですが、璃々江殿がご不在と知るや、出直すとおっしゃられてお帰りになられたようです」
「そうでしたか」
璃々江は内心安堵のため息を漏らした。戸場の目的は、武林が立て籠る屋敷まで、討っ手である璃々江を送り届けることだろう。護衛の必要など皆無だし、道中の話し相手はもっと不要だったから、帰ったのは好都合だ。
一方、兵河はそんな璃々江を黙って見上げている――璃々江の方が、頭一つ背が高いのだ。何か声を掛けようとしているが、掛けていいものかどうか、迷っている様子だった。
おそらくこの幼馴染の少年も、武林の一件と璃々江の外出、そして戸場の訪問を結び付け、璃々江が討っ手に選ばれたという結論を導き出したに相違ない。
璃々江はそう察したが、兵河がこの件について知るにはまだ早いと思い、さりげなく話題を転じた。
「ところで、先日は貴重な
兵河は漢方医・
そして漢方薬の多くは、
そうした生薬を豊富に有する漢方医が、
生薬の礼を言われた兵河は、ただでさえ幼く見える顔を気の毒なほど赤らめて、それほどでも、と激しく首を振った。
「ちょうど、余っておりましたから。古くならないうちに、と差し上げただけです」
「こちらも蓄えが無くなりそうでしたので、助かりました」
璃々江は如才なく礼を重ね、では、と自邸に戻ろうとした。
「あ、あの!」
その背を、兵河が呼び止める。璃々江が立ち止まって振り返ると、兵河の真剣なまなざしが、彼女の目を捉えた。
「なにか?」
「……武林様を討つお役目、璃々江殿が仰せつかったのでございますね?」
わずかに震えるその声に、璃々江は小さくうなずいた。「はい。ですが、どうぞご内聞に願います」
「分かっています」
兵河は、璃々江が討っ手となった事実を否定しなかったことに、むしろ安堵したようだった。
「私ごときが申し上げることではございませんが……どうか、ご無事で」
「お言葉、ありがたく頂戴いたします」
璃々江は深々と頭を下げた。兵河は、うろたえつつも励ましの言葉を続ける。
「もし私にできることがあれば、何なりとお申し付けください!」
「ほう……今、『何なりと』と、仰せられましたね?」
璃々江は一歩、兵河に向かって踏み出した。剣で言えば、
「……!! あ、あの、璃々江殿……!!」
突然の出来事に、兵河は目を白黒させて動揺する。数瞬、璃々江は年下の少年の狼狽ぶりを見下ろしていたが、やがてふっと口元を緩めて、手を下ろした。
「男子たる者、心安く『何なりと』などと口にされてはなりませぬ」
そのまま璃々江は兵河に背を向け、今度こそ自分の屋敷に戻ろうとした。
「……わ、私は本気です!」
璃々江の背を、再び兵河の声が
「私ができることと言えば、薬のことくらいですが……璃々江殿が望まれるなら、どんな薬でも手に入れてさしあげます!
「兵河殿」璃々江は、顔だけを兵河に向け、微笑んだ。
「当家の
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