(二)一足一見の間合い

 璃々江りりえが杉平邸を辞して帰途に就いたのは、四ツ(午前十時)頃であった。

 今朝方うっすらと積もっていた雪はすでに溶け始めており、道はところどころぬかるんでいたが、雪駄履きの璃々江の足は、器用にぬかるみを避けて颯々さつさつと歩みを進めていく。

 璃々江の装いはいつもどおりの羽織袴だが、ぬかるんだ道中も泥を跳ね上げることなく、衣服には汚れ一つ付いていない。


 外記げきの話は、予想されたことではあった。そして自分が討っ手に選ばれる覚悟も、とうにできている。

 しかし、と璃々江は灰色の空を見上げた。――武林たけばやしは悩乱した。かつての我が師は、ついに火天流の咖哩カレーの味の蘊奥うんおうを極めることあたわわなかった。すべてを捨てて追い求めても、あの味の秘密は……。


「あ、璃々江殿!」

 いつの間にか自邸の門前まで戻っていたことを気付かせたのは、隣家の垣根越しにかけられた少年の声だった。


「これは、兵河ひょうが殿」

 璃々江が声の主に応えようと顔を向けたときには、すでに少年は門外に出て、璃々江のそばに駆け寄っていた。

「先ほど、戸場とば様がお見えになられたようです」

「戸場殿が?」


 璃々江は苦笑して、自分の屋敷に目を移した。福羽ふくう藩剣法指南役が直々にお越しになる用件と言えば、一つしかない。これほど速く来たということは、外記から命じられてきたのではあるまい。――すべてを察して、先手を打ってきたということか。


「ですが、璃々江殿がご不在と知るや、出直すとおっしゃられてお帰りになられたようです」

「そうでしたか」


 璃々江は内心安堵のため息を漏らした。戸場の目的は、武林が立て籠る屋敷まで、討っ手である璃々江を送り届けることだろう。護衛の必要など皆無だし、道中の話し相手はもっと不要だったから、帰ったのは好都合だ。


 一方、兵河はそんな璃々江を黙って見上げている――璃々江の方が、頭一つ背が高いのだ。何か声を掛けようとしているが、掛けていいものかどうか、迷っている様子だった。

 おそらくこの幼馴染の少年も、武林の一件と璃々江の外出、そして戸場の訪問を結び付け、璃々江が討っ手に選ばれたという結論を導き出したに相違ない。

 璃々江はそう察したが、兵河がこの件について知るにはまだ早いと思い、さりげなく話題を転じた。


「ところで、先日は貴重な肉桂シナモンを都合していただいて、かたじけのうございました」

 兵河は漢方医・駒江こまえ家の子である。一人息子の兵河は、元服を済ませて間もない年でありながら、すでに俊才の呼び声高く、近いうちに江戸へ藩費漢方修行に出るという噂まで出ていた。


 そして漢方薬の多くは、咖哩カレーの香料でもある。血流促進と鎮痛にげんのある肉桂シナモン、胃を健やかに保ち発汗を促す生姜ショウガ、去痰のみならず食思不振にも効く胡荽コリアンダーなど、咖哩カレーに使われる生薬しょうやくを挙げていけば、きりがない。

 そうした生薬を豊富に有する漢方医が、咖哩道指南役を勤める獅子浦ししうら家の隣に屋敷を構えていて、双方に年の近い――といっても璃々江が七つも年上だが――子があれば、両家の交流も盛んになろうというものだった。


 生薬の礼を言われた兵河は、ただでさえ幼く見える顔を気の毒なほど赤らめて、それほどでも、と激しく首を振った。

「ちょうど、余っておりましたから。古くならないうちに、と差し上げただけです」

「こちらも蓄えが無くなりそうでしたので、助かりました」

 璃々江は如才なく礼を重ね、では、と自邸に戻ろうとした。


「あ、あの!」

 その背を、兵河が呼び止める。璃々江が立ち止まって振り返ると、兵河の真剣なまなざしが、彼女の目を捉えた。

「なにか?」

「……武林様を討つお役目、璃々江殿が仰せつかったのでございますね?」


 わずかに震えるその声に、璃々江は小さくうなずいた。「はい。ですが、どうぞご内聞に願います」

「分かっています」

 兵河は、璃々江が討っ手となった事実を否定しなかったことに、むしろ安堵したようだった。

「私ごときが申し上げることではございませんが……どうか、ご無事で」


「お言葉、ありがたく頂戴いたします」

 璃々江は深々と頭を下げた。兵河は、うろたえつつも励ましの言葉を続ける。

「もし私にできることがあれば、何なりとお申し付けください!」

「ほう……今、『何なりと』と、仰せられましたね?」


 璃々江は一歩、兵河に向かって踏み出した。剣で言えば、一足一見いっそくいっけんの間合いを越えた、と言っていい。そして硬直している兵河のおとがいを、指で軽く持ち上げた。

「……!! あ、あの、璃々江殿……!!」

 突然の出来事に、兵河は目を白黒させて動揺する。数瞬、璃々江は年下の少年の狼狽ぶりを見下ろしていたが、やがてふっと口元を緩めて、手を下ろした。


「男子たる者、心安く『何なりと』などと口にされてはなりませぬ」

 そのまま璃々江は兵河に背を向け、今度こそ自分の屋敷に戻ろうとした。

「……わ、私は本気です!」

 璃々江の背を、再び兵河の声がつ。璃々江は振り返らずに、自邸の門をくぐろうとした。それでも兵河は必死に叫んだ。


「私ができることと言えば、薬のことくらいですが……璃々江殿が望まれるなら、どんな薬でも手に入れてさしあげます! 小豆蔲カルダモンでも丁子クローブでも、附子トリ〇ブトでも阿芙蓉ア〇ンでも!」

「兵河殿」璃々江は、顔だけを兵河に向け、微笑んだ。

「当家の咖哩カレーにはあまり使わぬものも混じっておりますが、そのお気持ち、ありがたく頂戴いたします」

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