君との九年間、あの門出の桜木へ。

雪方ハヤ

理解できなかった蒼い恋

『恋にならない恋』

 それは俺が中学一年のときに国語の授業ではじめて触れた言葉だ。俺にはよく理解しがたい感覚がする。でもなぜか不可解なこの言葉にモヤモヤ感だけが伝わる。それでも作者がどういう意図でそれを述べたのかはわからない。

 一般的にみれば抽象的かつ矛盾している言葉にみえるが、それが具現化してしまったのは三年後の卒業式、いや――この九年間のなかだった。



「じゃな、ばーか!」

「早瀬こそばーか!」

 空が灰色に染まり、さむい風が吹く信号機の下で、俺は幼い彼女に悪口を吐いた。

 早瀬アヤト。俺の名前だ。小学一年に入り――ずっと気にくわない奴がいた。


「愛川のアホアホ!」

「いい加減だまれよ!」

 玉を転がすような声をたどり、少し痩せかたの少女に目を向けた――愛川エリカ。もみあげが肩まで伸びていて、ひたいを思いっきりあけている。そのおかげで、その純粋なあおき瞳が愛しく見える。

 ひらり。ひらりと揺れる髪が、川のように腰まで流れていく。

 完全に白い、とは言えないちょっと日焼けをしている肌を持ち、運動をするのが趣味らしい。

 なんで俺はこいつのことが気にくわない? と、よく自分に問いかけることがある。

 しかしそのときの俺にもよくわからない。なんだか、こいつといると心がソワソワする。その気持ちが良いのか悪いのかがわからず、少し苛立ったからだ。


 小学三年生、あたかも当たり前かのように、ずっとイジメ合う日々が続く。


「アヤト! もうついてこないで!」

 夕日が溢れ落ちる道に、ほのかに吹く涼しい風が緑葉と重ねて俺たちの身にあたる。


「はあ、なぁにいってんの? 俺もこっちから帰るんだけど」

 そう言いつつも、俺はいつもエリカが帰る直前に、彼女のランドセルに全力で拳を叩きつけるのだ。

 パンッ!

 エリカは「きゃっ!」と叫び、驚いたように前に飛び出す。


「ざまあみろぉ」

「アヤト……ちょーしにのるなー!」

 しかし当時の俺は足がとても遅い。スポーツが得意な彼女の足から逃れることはできなかった。


「いたいぃ! ごめんごめん」

 彼女は二、三歩ですぐに走り出した俺の髪の毛を掴み、冷たい目で睨む。もう片方の手は拳を握っている――。


 こうやってイジメ合ってもお互いのことを先生にチクったり、他人に言ったりすることはなかった。

 エリカだけにくっついた理由はほんとにくだらない。ただ友達がいなかっただけだ。なぜなら帰り道がいっしょなのは彼女しかいないし、他の人とは喋る話題がなかったのだ。


 小学四年。今日は地元から離れた市に遠足をする。バスで長い路程を過ごすことになり、エリカは俺のバス座席の隣に座ることになった――が。

 朝日の光が車内に溶けこむように暖かい。エアコンと芳香剤から爽やかなミントの匂いを拡散する。


「うっ……んん……」

 隣から苦しそうな声が伝わり、俺は頭を彼女に向けた。


「どうした……? エリカ?」

「わたし……くるま酔う……うぅっ」

 彼女はもっていた黒いビニール袋で口を隠していた。愛しい優雅な顔が崩壊寸前までに追いこまれている。


「車ごときで酔うなんて、エリカもお子ちゃまだな!」

「あーやーとー! 降りたら……ゆるさな――うっ……」

 少し時間が経ち、バスから降りると俺はいつも通り彼女に殴られた。とはいえ弱々しいパンチだったからやり返さなかった。その後はさすがに俺のせいだったからちゃんと謝ったけどな。


 時が過ぎていき、小学五年生になった――。

 視界が広がる深木のゆかの上には、ギター、ピアノなどといった楽器が並べてある。

 背もたれのない木製イスも、数えきれないほど教室に散乱。窓から澄んだ青空を見晴らし、カラスの鳴き声がかーかーと響く。

 音楽のリコーダーのテストを終え、エリカがそばにいた。


「おいア、ヤ、ト! さっきのテスト、絶対てきとーに吹いたでしょ?」

 俺はこれまでずっと音楽が苦手だ。しかし今回たまたまエリカと同じペアとなり、ふたりで先生の前でリコーダーを吹いた。

 勉強全般できる彼女は、あきらかに俺の拙い演奏に引きずられたと思う。


「はあ? 別にてきとーに吹いてないよ! 教えてくれね?」

「――あんたが下手くそのせいで、私の点数も下がったんだけど……っ!」

 しかし悠々とイスに座っていた俺は、エリカの冷たい目線と合った。瞳孔には震えをこもっていて今でも殴ってきそう。


「ご、ごめん……」

 ――こ、こわい。

 エリカはうでを組んで、じっと睨む目で俺を見つめる。


「ごめんて! 次からがんばるよ!」

「『次』って……次もできないでしょ。ほら教えてあげるよ」

「…………え?」

 寒気を感じる彼女のオーラはやわらぎ、心暖かく甘い声が近づく。

 目の前のイスに座り、さらさらとしている長い髪から、桜の美しい匂いが伝わる。

 リコーダーを取り出して指の使い方を丁寧に指導してくれた。

 一つひとつの要点がまとめられ、かつ品のある優雅な声が俺の心のソワソワがさらに増した――。


 時は小学六年生になり、自然にかこまれた郊外に修学旅行にいった。

 樹木の緑と天空の青は、視界の前で果てしなく広がる。

 しかし最悪なことに午後、俺は集団から勝手に離れ、迷子になってしまった。

 木造住宅がところどころに並べてあり、見知らぬ顔に包まれ、俺は恐怖を覚えた。


「くそぉー! さっきこっそりトイレにいかなければよかった」

 だれかに簡単に助けられることはありえない、通り抜ける人に聞こうとしても勇気がない。やがて歩いていくと、人の気配がない橋の上に立った。

 夕日が下がっていく焦りと、だんだん重くなっていく足。灰色のコンクリートと、鳥肌が立つ風が吹く。


 ――どう、しよう……。


「おい……」

 はぁはぁ吐く弱い声が、俺の背後から伝わる。

 その声は、何度も聞いたことのあるあの女の声だ。


「あ、愛川!?」

 振りかえると、藍色の体操着姿のエリカは、橋の欄干らんかんをつかまっている。その弱々しい青い目で俺を無言で睨む。足がくたばったようにプルプル震えている。


「はぁ……あんた……ほんとに心配させるもんね……」

 彼女の荒い息のなかにも、なにかホッとしたかのような安心した白い息が見えた。


「ご、ごめん! みんなはどこ?」

「この大馬鹿……! つい、てきて……」

 道中もエリカの叱りと愚痴が止まらなかった。少しは言い過ぎだろ、って腹立ったけど、さすがに俺のせいだから何も言えなかった。


「ていうかエリカ、お前はどうして一人でここに来た?」

「私はあんたを心配してるんだから、私も勝手にみんなから離れて探してたんだよ……」

「エリカ……」

「勘違いするなよ。先生たちがあんたを探すのに手間がかかるから、普通に私が探したほうが速いって思ったからね!」

 こうして再び道を歩きはじめた俺は、改めて涼しい風が顔に静かにあたる。身が軽くなったかのように足がすらすら動く。鳥の静かななき声が、この夕日が降り注ぐ道に響く。

 やがて、俺とエリカは集団にもどり、先生たちの質問に答えることになった。


「おい早瀬! なんで勝手に離れた!?」

 眉間のしわが立つ赤面の男の先生は、肺を絞るように怒鳴った。

「ごめんなさ――」



 ――「私のことを助けるために離れたのです」



 となりの少女は、真剣な顔と口調で目のまえの男に向けた。


「え? エリカ、お前……!?」

「あい、愛川!? お前もなんで離れたのだ?」

 目線をエリカに移し、不可解に彼女の瞳を見つめた。しかし彼女はあたかも本当のことのように、ウソを言っている。


「私が遊び心が湧いて、彼が私を探すために離れたのです。ごめんなさい」

 先生も、俺も。エリカの口述におどろいた。言葉を失うほど。


「ほ、ほんとか? 愛川……」

「ほんとです」

 その後、先生は軽くエリカのことを叱り、俺を注意程度で口を挟んだ。

 帰り道のバスのなか、エリカの席は俺のとなりだった。騒乱な喋り声に包まれる車内に、暖かい橙色の光がさしこむ。


「ねえ、なんでウソをついたの?」

 俺は彼女にしか聞こえない囁きの声をかけた。

 彼女の澄んだ瞳は一瞬、当惑した表情を見せた。するとその整った顔をらす。


「私にもよくわからない。あんたが叱られる姿が、なんか見たくなかったから、かな?」

 彼女のそういうところのせいで、心のなかのある気持ちがさらに増殖する。

 小学校を卒業していき、中学一年へ向かう――。

 見慣れない数々の顔が並べ、ずっといっしょにいたエリカも他のクラスにいる。不安と期待の気持ちが交わる。


「みんな……こんにちは、早瀬アヤトです……」

 緊張の寒気に触れながらも、みんなから伝わる情熱な拍手が贈られる。これははじめてエリカ以外の人からソワソワを感じる瞬間だった。


 ――いったい……あのソワソワはなんだろうね。

 壇上から降り、椅子に座った俺はずっとそれを考えてた。すると隣の席から耳を舞い踊らせるような柔らかい声が聞こえた。


「早瀬さんっ! よろしくね」

 ささやきよりもわずかに大きな声、すぐ横にある俺の耳にちょうど届く。


「あっ、よろしくお願いします……」

 返答とともに頭を振り向くと、そこには俺の瞳を見つめている少女がいた。俺と関わりのある女子はあまりいないため、少し驚いた。

 エリカの長いもみあげとロングとは違い、肩までいかないショートの黒髪だ。その人からうつくしい薔薇ばらの香りが発散。

 彼女の前髪はきれいに眉の上に揃えている。青春っぽい遊び心が浮いている暗褐色あんかっしょくの瞳がジロジロと俺を見つめる。乳白色な頬には少し桃の色がかかっている。

 彼女と目が合うだけでも口腔が甘い唾液を分泌し、温かみのある笑顔に俺は息をのんだ。


「うちの名前はユメ! よろしくね!」

「はい……よろしくお願いします……」

 そして彼女は俺の中学生活のはじめての友達になった。頼もしくて元気のある子だ。ときには友人として恋バナをしたり、いっしょに図書館で勉強することもたまにあった。


 時はさらに疾る。やがて中学二年生にあがった――。

 今年はエリカと同じクラスになり、俺はいつも彼女とグループ活動をするようにしている。


「エリカ、なにか文化祭の出し物の案とかある?」

「劇をやったり……クイズ大会とかするのはどう?」

 特徴的な長いもみあげと、艶のいい額が大きく出している。相変わらずの透き通った蒼の瞳が輝く。見晴らす空のような。陽光が照らす海のような。

 ルージュに包まれるぷっくりな唇に目が離せない。光に照らされる拳サイズの校章を胸に、ベージュの制服が彼女の身をつつむ。

 だがそう関わっていくうちに他の人から誤解を生じることもある。ある日の休み時間、あるクラスの男が寄ってきた。


「おいアヤト! お前まさかエリカのこと好き?」

 俺はその言葉に対して苛立った。幼い頃から気にくわないやつのことが好きなわけがない。俺は拳を握って相手を睨んだ。


「ちげぇよ! あんなやつのことなんか誰が好きなんだよ!」

 俺がそういうと目の前の男は嘲笑う口でその人を呼んだ。


「おいエリカ! バカにされてるよー」

 席に座って勉強していたエリカは、逆鱗に触れられたように拳を握って立ち上がった。

 彼女は頭を低く下げた。震えがこもっている小さめの声で俺に鋭い指をさす。


「あんたみたいな頭悪いし、性格もクソなやつに好かれたくもないし!」

 いつもは端正で優雅なエリカはめずしく暴言を吐き、よくない顔色で教室から走り去った。


「あれぇ。わりぃなせっかくのお二人の関係を壊しちゃったな」

 彼女の機嫌が悪くなったことに俺も気分が悪くなったが、好きという誤解であおられるのが嫌だった。


「べつに……いいけどっ……!」

 エリカと関わってきて始めて彼女が憤怒した様子を見た。あれだけイジメたり、悪口を言い合ったりしても、あのみじめめな姿は見たことはなかった。

 謝りも気まずかったため、エリカと仲間割れをしてしまった。こうした状態で一年が過ぎてゆく。


 ついに三年生に上がる。彼女と再び別々のクラスになった俺はいま、受験に頭がいっぱいである。

 ある日、俺は図書館の端っこの席で勉強をしている。受験まであと一ヶ月、卒業まであと二ヶ月だから。

 すると、後ろから軽い足音が聞こえた。

 トン、トン、トン。


「早瀬さんっ……久しぶり」

「あっユメさん……久しぶり」

 背後から伝わった声の相手は久しぶりに会うユメさんだった。彼女は瑠璃るり色のカーディガンを着ていて、微かな薔薇の香水の芳香がする。

 中二のときはユメさんと別クラスになっていたため、月に何回かぐらいしかいっしょに勉強してない。中学三年になってからはさらに頻度が減っていた。しかしやっぱり青春感が溢れる少女に変わりはない。彼女は静かに俺の席の隣に座った。


「いっしょに勉強しよっ」

 図書館だからなのか、陽気なユメさんの声がとても静かだった。そのおかげで彼女の柔らかい声の甘さがさらに増している。


「ユメさん……国語の勉強?」

「フブー! 小説だよ。まぁっ、読解力をあげるためでもあるけどね!」

 彼女は片手で持てるほどの小さな本を持ち、興味津々な目でその文字を追う。


「恋愛ですか?」

「そうだよぉー」

「じつは俺、あんま恋愛についてわからないんですよね」

「ええっ!?」

 その小説を読みながら俺と会話してたユメは、即座に目線を合わせた。彼女はまるで異類を見てるかのように、驚いた口が微かに開いている。

「ガチですか? アヤトさん」

「ガチです」


 ユメは俺のあわれを同情する表情で、じっと目を見つめる。すると彼女は白くて小さな手を俺の肩にポンと置いた。少し真剣な瞳孔から俺の唖然あぜんの顔が見える。


「じゃあ、誰でもいいから。女の子を見るとなんかドキドキするような気持ちはない?」

 ――心がドキドキする……どこかでした気がする。

 俺はすぐにエリカのことを思い出す。しかし俺がそいつに抱いた感情は恋に関係していないはずなのに。


「いやぁ……特にいないかもしれないです……」

「そっか……。なんだか、かわいそうだね」

「え?」

 すると彼女は手に持っている小説の表紙を見せた。そこにあるのは作中の主人公とヒロインが見つめあっているシーン。


「この小説から読んだけどさ、恋っていうのはよく相手のことを意識したり、あるいは『幸せ』にさせたいっていう意味らしいよっ」

 ――『幸せ』かぁ。

 まさかイジメ合っているエリカに、幸せを願いたいなんて一度も思ってなかったし。


「まあ、いまは恋愛なんかする暇はないでしょ? 勉強しよ!」

「はい……」

 一ヶ月後、受験が終わる。その二週間後、合格発表される。俺はあやういな点数で地元の高校に受かった。ただただ受験に受かった気持ちになっているまま、俺はなにか大切な存在を忘れかけている。

 受験が終わってから高校生活が始まるまでの期間は、まるで置き忘れていた本の空白のようだった。


『一時間目、卒業式練習(四時間目まで)』

 ホワイトボートに書かれている文字の表情がとぼしく、もはや見る必要もない。

 当たり前のようにあった授業が一気に消え、あるのは早下校と数少ない卒業式の練習だ。

 寒い季節が過ぎてゆく。つくえでボーッと朝学活を待つ。いまでも居眠りしそうな心地いい温度を感じる。教室のなかは、甘やかな花の香りが漂う。


「アヤトさーん!」

「ん?」

 教室の外から、陽気がみなぎるような可愛らしい声が届く。振り返ると、そこには笑顔を隠せないユメさんがいた。


「ユメさん?」

「ちょっときてくれなーい?」

「はい……」

 椅子から立ち上がり、教室から出る。

 整ったベージュ制服に、リボンをきれいに首元に飾ってるユメさん。白い壁に背をつけて美しく佇む。彼女は唇を微かに持ちあげて微笑む。

 あの遊び心に包まれた暗褐色の瞳は、ここ数週間であっという間に成長して落ち着いた冷静さが増している。


「アヤトさんっ受験おつかれさま!」

 変わらないのはその甘い口調と、彼女から匂う薔薇の微かな香り。


「ありがとー。その表情からすると……ユメさんも受かったんだね!」

「そうなのよぉー。てかてか聞いてよ! 私、好きな人から告白されたの!」

「ほんと!? ユメさん好きな人いたんだ。おめでと!」

 しかしユメさんの笑顔がかたい。あまり嬉しいとは言えない目だった。いっさい好きな人と付き合えたような顔ではなかった。


「ううん。断っちゃったの」

「え? なんで?」

「だってさぁっ。行く高校が違うし、私なんか彼に相応しくない人だって知ってるもん」

 行く高校が違うから好きな人を断るならわかる。しかしどうして告白してきたのに『相応しくない』なんて言うんだろう。


「でもユメさんだって素晴らしい人なのに!」

「私って別に彼のように頭がよくないし。もっといい相手を探してほしいからなぁー」

 やっぱりよくわからない。

 なぜ自分を捨て、他人の幸福を願うのだろう。恋というのは双方が好き合っていればいいんじゃなかったの?


「ごめんね……なんか自分事ばっか言っちゃったね。アヤトくん合格おめでとー!」

「はい……ありがとう」

 恋って結局なんだろう。見つめるだけでドキドキするとか、幸せにさせたいとか。ただ単にそういうことなのか?

 時がはしる。ついに卒業式の日が参ってきた。培ってきた練習の経験を発揮するとき、三年間の思い出のフィナーレのとき。


「最悪や。なにこの天気……」

 その日は小雨が降っていたのだ。卒業式は室内でやるから無関係ではあるが、どうも気分を盛り上げることができない。

 空が灰色に染め尽くし、こぼれる雫が桜の風を帯びて体に当たる。少し鳥肌が立つ寒さだ。ぽつぽつと濡れたアスファルトの上に歩く。

 校門のそばには『祝・卒業式』と書かれている。俺は深呼吸して門を通った。


 体育館の壁にところどころ色鮮やかな菊の花が貼り付けられている。真ん中の道には埃のない赤いマットが敷かれていた。左右にきれいに何十列も並べてあるパイプ椅子。

 卒業式は予定通りに校歌斉唱、卒業証書授与などとプログラムが進む。泣きと笑みでこの百何人もいる体育館を覆い尽くした。


 ついに余韻を残したまま教室で最後の学活を終えた。外から聞き慣れている声が届く。


「アヤトさーん! 外で写真とろー」

「あ、ユメさん! いま行く!」

 彼女といっしょに学校の門から出る。歩いているときはずっとこの三年間のことを思い返していた。おそらくもうここに入ることはないだろう。

 空の色が少し朝よりも明るくなり、雨が止んでいた。しかし晴れとは言えない天気だ。心地よい涼しい風に当たり、花の香りが漂う。

 目の前には数々の人が親や友達といっしょに写真を撮ったり、先生と思い出話をする人もいた。

 俺とユメさんは学校の近くで卒業生が集まる公園にたどり着いた。その中に先生もたくさんいる。


「アヤトさん。あれ、きれいだね」

「あ」

 彼女の指がさす先には、気づいてなかった満開の桜木が立っていた。ここの公園はだれでもよく遊びにくる。俺は今朝もそこを通っていたが、ずっとこの大きな木に目を留まることがなかった。


「きれいですね」

「あっ私、クラスの写真を撮りに行くね」

「わかった」

 ユメさんは早歩きでそばから離れ、俺とは別のクラスで集合写真を撮りに行った。

 すると俺の背後から同じ小学校だった友だちの呼び声が届いた。


「アヤト! 小学校メンバーで写真とろー!」

「あっおけー。いまいく!」

 俺は早い段階で友人とあの桜木の下に座ってスタンバイした。あとから同じ小学校だった人が集まる。写真を撮るのは彼らの保護者であり、ちゃんとしたカメラを持っている。そのときにはもう雲が立ち去り、ほとんど晴天しか残っていない。

 すると俺のそばから、ソッとあの彼女の姿が現れた。

 愛川……エリカ。

 エリカは俺のとなりに座った。彼女のせいなのか、俺の心のなかのソワソワが限界に達するほど緊張してきた。

 顔を一瞬でもエリカに振り向くことができなかった。

 あの日の謝りもできていないため非常に気まずい。

 静止するこの時間はどうしようもなく退屈だ。


「はい! 写真とるよー」

 一人目の保護者がカメラのシャッターを押し、他の方々も撮ろうとしていた。

 早く撮ってくれよ。こいつといると気まずい!


「ユメちゃん!」

 ――!?

 俺たちの向こうから男の声が、この賑やかな公園のなかに響く。ユメさんは写真を撮っていたはずなのに。

 そこには整った制服を着た男性が、唖然となったユメさんに手を差し伸ばしている。


「ユメちゃんに断れたけど。やっぱユメちゃんを思うと心が落ち着かなくなります! 恋をしています!」

 え? 『落ち着かなくなる』と『恋』……。

 その男は肺を絞るような大きくて勇気のある声だった。


「付き合ってください!」

 パシャと、目の前からのシャッターの音に目を戻した。

 気づいたらすでに写真は撮り終えていて、周りの人はどんどん去っていた。一人で静かに、ぼーっと座っていた。


「わ、わかった……わかった!」

 俺の頬には、感動でもあり悲しみでもある涙を流していた。

 あの感情の正体をようやく分かったかもしれない。

 あのユメさんが言っていた、ドキドキの相手。

 あの俺の心のなかの、大切な相手。

 あの落ち着かないソワソワ感。


「う……うぅ……」

 俺は静かに座ったまま悔しむ。

 向こう側には、さっきの男とユメさんが抱きしめていた。


「ありがとう……ユメちゃん……!」

「ううん、こっちこそありがとう」

 熱烈ねつれつな拍手とあたたかな風が吹く。真昼の光が笑顔を照らした。彼らは手を繋いで場からゆっくり離れた。


「えり……エリカ!」

 俺は即座に立ち上がった。

 彼女の姿を目線で慌てて探そうとした。

 しかし、彼女はいなかった。すでに、帰ったのか。

 気づくの、遅いよ。俺。


 一刻でも早く彼女への気持ちを気付けば……。たとえ俺のこと好きじゃないとしても。少なくとも謝りの言葉だけでも。あれが、恋だなんて……。

 こんな鈍感な俺は、そもそも彼女に相応しくなかった男だったかもしれない。しかしもう二度とそのチャンスは来なくなった。

 いまの俺にできることは、ただ例の言葉を心のなかでささやくこと。あの頃できなかった台詞も付け加えて……。


 じゃな、ばーか……。

 ――『幸せ』に、なってくれよ。


 静かに座ったままの俺は、ぼーっと舞い散る桜を見つめた。これが噂の――恋にならない恋だったんだ。


 トントン、トン。

 背後から小さな足音が聞こえた。

 俺はすぐに後ろに振り向く。

 よかった、そこにいたんだ。

 陽光と壮大な桜を背景に、あの美しい姿のシルエットと澄んだ瞳があった。


「え、えりか……! ごめん、ごめん。あの日……ほんとにごめん!」

 そしてその心響く声が耳をふたたび舞い踊らせた。


「アヤトくん。こっちこそ……言いすぎちゃった!」


 その瞳も天空も本当に、ほんとうに蒼かった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君との九年間、あの門出の桜木へ。 雪方ハヤ @fengAsensei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ