第9話
セイルの静かな微睡に、一雫の波紋が広がる。
始めは降り始めの雨のように、次第に間を置かず打ちつける大粒の雨のように。
薄く伸ばされた意識を手繰り寄せ、ゆっくりと目を開けるセイル。
彼に届いた大粒の雨は、暗く悲しいミオの慟哭だった。
部屋に響く嗚咽と、痛ましい鳴き声。
まだ目覚めぬ体を、呼び起こすように身を捩る。
早くミオの元へーーー。
勢いよく上げた頭を、血が降りたような眩暈がおそう。
疲れた体は正直で、セイルに休息を訴えているようだった。
それでも、ミオの元へ。
今度は、しっかりと手で支えて上半身を持ち上げた。
そんなセイルの肩に、そっと置かれた細く温かい手。
振り向いた視線の先は、祖母だった。
彼女は静かに首を横に振る。
「大丈夫、そのままで」――言葉はなくても、やわらかな微笑みと眼差しがセイルにそう訴えているようで。
彼は戸惑いながらも、動きを止めてベッドに静かに腰掛けた。
止むことのないミオの悲痛な鳴き声。
今すぐにでも抱きしめたい衝動と、祖母の宥めるような視線の狭間で、毛布を握りしめながら必死に心を押さえた。
「……ぼくが母上に触れたから……婆やのそばにいたから……ぼくのせいで……みんな……!」
ミオの溢れ出る、痛みを纏った言葉たち。
その一言一言が、セイルの胸に重くのしかかった。
今すぐにでも、
「ミオのせいじゃない」
そう言って慰めたい気持ちを、深い呼吸と一緒に飲み込んだセイル。
ミオのすぐ側にいる、リラに視線を向けた。
何をするでもなく、ただそこに居て、吐き出されるミオの憤りや後悔、悲嘆、全てを受け止め続ける。
一言も口を挟むことなく、だだひたすら耳を傾けるだけ。
そんなリラの姿さえも、セイルには、もどかしく、焦燥を煽る一因でしかなかった。
やがて、静かに紡がれた言葉。
「……ミオくんのせい、なんて絶対に違うよ。」
その音は、やさしく、温かく、穏やかに響いた。
リラの声に乗った、オレンジとラベンダーの馥郁たるそれは、優しい魔法となって、部屋に満ちていく。
窓から差し込む穏やかな陽と、カーテンを揺らす優しい風が、より香りを強く運んだ。
程なくして、大粒の雨が、霧雨へと変わるように、ミオの涙もその速度を落とす。
ゆっくりと紡がれるリラの言葉が、ミオの心に幾重にも巻きつきた自責の念を、一つひとつ丁寧に解いていく。
少しずつ変わり始めたミオの様子に、セイルもまた、握りしめた拳をそっとひらく。
彼自身も、なす術もなく失う多くの命に、正体の掴めぬ流行病に、消えることのない悔恨を抱えていた。
けれど、今リラが語った“病の仕組み”と“誰のせいでもない”という言葉は、セイルの心の重しも外していく。
少しだけ軽くなった心には、仄かな何かが灯り始めた。
ふと意識をミオへむけると、戸惑いながらも小さく頷いた彼の手に、リラの手がそっと重なる。
その瞬間――
降り続いた雨が上がり、
雲間から光芒がさすように、
やわらかな光が、ミオを優しく包み込んだ。
ミオの震えと、涙が静寂に溶けはじめる。
深くゆっくりと、新しい空気で肺を満たしたミオは、その顔に安堵の色を宿す。
目の前の光景に、
穏やかさを取り戻したミオに、
今ここで起こった小さな奇跡に、
感謝の意を込め瞳を閉じたセイル。
ーーーその頬を伝うのは、温かな一雫。
ふと顔を上げると、穏やかな笑顔の祖母と視線が合った。
セイルは、小さく頷くと、やわらかな微笑みを返した。
香りと光、そして静かな安らぎが、昼下がりの部屋いっぱいに満ちていた――。
*****
小さな灯りが、誰かの憂いをそっと溶かしていく。
それは、世界を変えるほどの奇跡ではない。
けれど――確かに、ひとつの希望だった。
森の癒し手と希望の灯り 香樹 詩 @seitoroumakizou
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