36話 静けさの裂け目
「ヒナタちゃん!ロウ君!どこに行ったの!」
ミズキは森の中を駆けながら二人の名前を叫ぶ。いつも採集に使っている場所を順番に回っていくが、どこにも見当たらない。
(どうしてどこにもいないの!?)
胸が落ち着かない。走るうちに、息は上がり、喉が乾き、足もだるくなってくるが、それでも足を止めることはできない。
そんな時、ふいに明るい笑い声が飛び込んできた。
「ロウ、これ見て!やっぱりここにいっぱい生えてるよ!」
「う?」
ヒナタの弾んだ声と、ロウの低い声が聞こえた。
「ヒナタちゃん!ロウ君!」
ミズキは叫び、息を切らしながら走る。すると野草を摘んでいるヒナタとロウの姿があった。
「よかった……!」
胸の奥に張りつめていたものが、どっと崩れ落ちる。
今にも膝から崩れ落ちそうなほどの安堵が押し寄せ、ミズキはその場で大きく息を吐いた。
「ほら、ロウ。これ、ヨモギかな?葉っぱの形が、こんな感じだった気がするんだよね」
「うー?」
ヒナタは摘み取った草を、誇らしげに頭上へ掲げる。
ロウは首をかしげ、草とヒナタの顔を交互に見比べる。
そのやりとりを見ていたミズキの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
(ここでヨモギ?)
このあたりにヨモギは生えない。代わりにあるのは――ヨモギによく似た猛毒の草。
ミズキはヒナタの掲げた草に目を凝らす。細長い葉に深い切れ込み、茎の紫がかった色。
(トリカブト……!)
「違うのかな?なら!確かめてみるね!」
ヒナタは口を開け、トリカブトを口に運ぶ。
「だめッ!ヒナタちゃん!」
ミズキの叫びより早く、ヒナタはトリカブトにかじりついた。
「……っ!」
「うえー、変な味。これ、ヨモギじゃないよ」
そう言ってヒナタは草片をぺっと吐き出す。
(か、かじった……!)
足元がぐらりと揺れたような気がした。心臓が激しく鼓動し、掴まれたように痛みだす。
「あ、巫女様!」
ヒナタはトリカブトを持ったまま、ぱあっと顔を明るくする。
何も知らないまま、ロウと一緒にこちらへ駆け寄ってきた。
「どうしたの?巫女様も、採集に来たの?」
「あ……あぁ……」
喉が乾いて、言葉がうまく出てこない。
(止められなかった……)
ミズキは膝から崩れ落ちた。呼吸が浅くなり、視界が揺れる。
昨夜、丘で感じた理由のわからない冷たさが一瞬だけ、胸の奥を掠めた。
(昨夜の感覚がこのことを示唆していたなら、巫女として止められていたかもしれないのに……)
後悔と無力感で胸が締めつけられる。ヒナタの体の大きさを考えれば、あれだけでも命を落としてもおかしくなかった。
「巫女様?泣いてるの?」
「……っ!」
無意識に泣いていた。
ヒナタが心配そうに顔を覗き込んでくる。
(なにをしているの、私……!)
自分を責めている場合じゃない。
予兆に気づけなかったことを悔やんでいる暇はない。今、この子を助けられる可能性があるのは自分だけだ。
ミズキは袖で涙を拭い、ヒナタの肩にそっと手を置いた。
「ヒナタちゃん。つらいと思うけど、我慢してね」
「え、巫女様?」
不安げな声に、返事をする代わりに、ミズキは片手をヒナタの顎に添える。
「な、なにするの?」
ミズキはヒナタの口を開けさせ、もう片方の手をヒナタの口の中へ差し入れた。
「——っ!!う、おぇ——!」
生暖かい感覚が指に伝わる。柔らかな舌を越え、喉を刺激する。
ヒナタは驚きで目を見開き、苦しさから逃れようと手足をばたつかせる。
喉の奥から、えづくような、くぐもった声が漏れた。
「苦しいよね、ごめんね?でも、今は吐き出さないといけないの!」
自分の声が震えているのが分かる。それでも、止めるわけにはいかなかった。
「う?あ?うぁああっ!?」
横から、どん、と重い衝撃がぶつかってきた。
ロウが、声を上げながらミズキに組みついてきたのだ。
「っ……!」
腕に鋭い痛みが走る。
組み付いてきたロウの爪が腕に食い込み、皮膚を裂いた。じわりと温かいものがにじみ出す。
「ロウ君、ごめんね……でも今は止められないの!」
言葉を吐き出すたびに腕の痛みが増す。それでもミズキは、ロウの爪を振り払おうとせず、ヒナタを嘔吐させる為に指を動かす。
「おえっ……!おええぇ……!」
そして、ヒナタの胃の中のものが口から溢れ出た。地面に散ったそれは、土と混じり合いながら、酸っぱい匂いを立ち上らせる。
(良かった!吐き出してくれた!)
「うぁあああ!」
「あっ!」
ミズキは安堵し、力を緩めた。しかし、その隙にロウがミズキを組み敷いた。
「ゲホッ……ロウ、だめ……巫女様を、いじめないで……」
吐いたばかりで苦しそうなヒナタが、ミズキを組み敷いていたロウを止めようと引き剥がそうとする。
ロウはビクリと肩を震わせると、組みつくのをやめて、ゆっくりとミズキから離れた。それでも、ヒナタの前に立ち、守るように身を構えている。
「……ごめんね、ヒナタちゃん、ロウ君」
ミズキは血が流れる腕を抑え、ゆっくり起き上がる。押し倒されたことで皮膚が大きく裂け、痛みを訴えている。
しかし、ミズキは確認しなくてはいけないことがあった。
ミズキは痛みを堪え、吐しゃ物を確認する。
「そんな……飲み込んでいたの?」
吐しゃ物の中に、トリカブトと思われる草片が混じっていた。
ほんの少しかじって吐き出した。自分に言い聞かせていた。
けれど現実は、はっきりとその期待を裏切っていた。
「巫女様、急にどうしちゃったの?」
ヒナタが、苦しげに胸元を押さえながら、不安そうにミズキを見上げる。
ヒナタの震える声が、ミズキを現実に引き戻した。
「……ヒナタちゃんが食べちゃった草はね、死んじゃうぐらい強い毒なの。だから、すぐに吐き出さないといけなかったの」
「ど、く?」
ヒナタの瞳が、大きく揺れた。
「で、でも少ししか、食べてないよ?巫女様もちょっと食べて、確かめてたし……」
ヒナタは途切れ途切れの声で、なんとか言葉を絞り出す。
(昨日、稲夫様と一緒に採集するところを、ヒナタちゃんは見ていたんだ……)
「ヒナタちゃん。味で確かめることはあるけど、飲み込んじゃだめなの。物によっては少しでも口に入れたらいけないの」
ヒナタの喉が、ごくりと動く。今度は、恐怖で声が震えていた。
「じゃあヒナタは……死んじゃうの?」
ヒナタの問いに、ミズキは胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
否定したい。でも、確かな保証なんて何ひとつ言えない。
それでも――このまま黙り込むわけにはいかなかった。
「ヒナタちゃん、稲夫様のところに行こう。あのお方なら、きっと何とかしてくれる」
頭に浮かぶのは、代掻きの話をしていたときの、迷いのない声と横顔。
(もっと早く……あの感覚のことも、全部相談していれば……)
また後悔が頭をもたげようとしたが、ミズキは首を振って追い払った。
「ヒナタちゃん、立てる?」
「うん。くらくらするけど、頑張る」
ヒナタはふらつきながらも、立ち上がろうとする。すかさずロウがヒナタの体を支える。
「ロウ君も、一緒に来てくれる?」
「……う」
ロウは短く鳴き、ヒナタとミズキを見比べてから、小さく顎を引いてみせた。
その仕草に、ミズキはほっと胸をなでおろす。
「じゃあ、行こうね?」
ミズキはヒナタの手を取った。森を走り回った足は棒のように重かったが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
(大丈夫……まだ終わりじゃない。稲夫様なら、きっと……!)
胸の奥で小さな希望を握りしめ、三人は稲夫のいる本田へと駆け出した。
——————
※トリカブトはアコニチン系の神経毒を持ち、神経の働きを混乱させ、心臓の拍動に異常を引き起こします。
毒は皮膚や粘膜からも吸収され、致死量は大人で 1〜2mg 程度。現代でも決定的な解毒剤は存在しない。
米農家、異世界で豊穣神になる コガネシキ弐玉 @butikuwa
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