第8話:絶望の底で、失われた希望

儀式は数日にわたり行われた。

桜の心身は、極限まで疲弊していく。

鬼の血に浸食され、清めの力はほとんど失われた。

桜の肌は青白く、まるで死人のようだった。

触れる指先は、ひどく冷たい。

体温が、どこかへ吸い取られていくかのようだ。

瞳は血の色を宿し、焦点が定まらない。

視界が、血の膜を通して見ているように紅く滲む。

意識は夢と現の狭間を彷徨う。

もはや自らの意思で体を動かすこともままならない。

わずかに開いた意識の中で、桜は鬼の家の使用人たちが、

自分を指差し、不気味に笑いさざめく声を聞いた。

彼らの視線は、桜をまるで完成間近の「器」として見つめる。

その視線が、桜の魂を削るかのようだった。

全身が、ひどく熱い。内側から焼かれるかのようだ。

骨の髄まで、熱が染み渡る。

同時に、外側からは冷たい空気が肌を刺す。

この苦痛が、いつまで続くのだろう。

喉がひりつき、うまく息が吸えない。

吸っても、肺の奥まで届かない気がした。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

鼓膜の裏で、ずっとごうごうと音がしている。

それは、遠い嵐の音の音のようでもあり、

自分の血流の音のようでもあった。

全身の血が凍り付くようだ。

呼吸が浅い。浅く吸っては吐く。

肩が上下するたび、薄い着物が擦れて、

耳に小さな、寂しい音が届く。

その音すら、私を追い詰める。

生きている証が、ただの苦痛に変わっていく。


鬼の家の使用人たちが、桜を見る目に変化が現れる。

かつての恐怖や侮蔑の代わりに、

どこか異様な期待と興奮が宿り始めていた。

彼らは桜が「完全な器」となる日を、待ち望むかのように

ざわついていた。

その視線は、桜をまるで完成間近の道具のように見ており、

それが桜の心をさらに深く傷つけた。

彼らの纏う着物は、薄汚れていた。

ところどころに、茶褐色の染みが見える。

それが血の染みだと、桜は直感した。

そこからは、黴と、かすかな腐臭が漂ってくる。

その不快な匂いが、桜の鼻腔に絡みつき、胃の腑が掴まれる。

吐き気がこみ上げるが、何も吐き出せない。

彼らの話声から、鬼の家が既に国の主要な貴族や軍部を

完全に掌握していることが明らかになった。

まるで蜘蛛の巣のように、都の全てが絡め取られている。

桜の絶望は、底なし沼のように深まる。

この国は、既に鬼の手に完全に落ちているのだと、

改めて突きつけられた。

都の空には常に黒い雲が垂れ込め、僅かな光さえ届かない。

遠くで、人々の悲鳴のようなものが聞こえた気がした。

それは幻か、それとも現実か。

耳鳴りが、その声をかき消す。

希望は、完全に消え失せていた。


桜は、もはや無力だった。

わずかに回復した力を振り絞り、窓から脱走を試みる。

細い月明かりが差し込む。

その光は、私を嘲笑うかのようだ。

しかし、その光も、すぐに雲に隠れてしまう。

けれど、身体は鬼の血に蝕まれ、思うように力は出せない。

足元がふらつき、床に膝をつく。

冷たい床の粗さが、膝頭に直接伝わる。

石の冷たさが、体中の熱を奪っていく。

息を呑むたび、舌先が塩を舐めたようにひりついた。

喉の奥が、乾ききっている。

見張りも以前に増して厳重になり、もはや、

逃げ出す術はどこにも残されていないと悟る。

窓から外を見ても、見慣れた都の景色は遠い。

かつて賑わっていた市の幻影が、かすかに見えた気がした。

焼き団子の甘い匂い、物売りの元気な声。

子供たちの笑い声が、遠くで響く。

しかし、今は黒い雲に覆われ、沈黙している。

希望はどこにも見当たらなかった。

空は常に重い雲に覆われ、太陽の光は届かない。

心臓が鉛のように重い。

その脈が、弱々しくなっているのを感じた。

自分の胸に手を当て、脈を確認する。

確かに、脈は弱くなっている。

生命の灯火が、消えかかっているかのようだ。

全身の血が凍り付くようだ。

呼吸が浅い。浅く吸っては吐く。

肩が上下するたび、薄い着物が擦れて、

耳に小さな音が届く。

桜の心は、深い闇の底に沈んでいく。

まるで、底なし沼に引きずり込まれるかのように、

絶望が桜を覆い尽くした。

体の内側で、何かが崩れていく音がした。


桜は、床に頬を押し当てた。

冷たい石の感触が、肌に張り付く。

その冷たさが、体中の熱を奪っていく。

石の粗さが、頬に食い込む。

痛い。けれど、その痛みすら、蓮の笑顔が

脳裏で薄れていく恐怖には敵わない。

蓮はどこにいるの?

もしかして、もうこの世にいないの?

そんな問いが、頭の中でぐるぐる回る。

……いや、違う。蓮は生きている。

そうじゃなければ、私はきっと、

こんなにも蓮の面影を追いはしない。

私は必死に自分にそう言い聞かせた。

それが、心の奥底で、唯一の支えだった。

しかし、その声さえ、弱々しく、消え入りそうだった。


「もう…蓮は戻らない…」


桜は、声にならない声で呟いた。

最愛の人が永遠に帰らないという絶望に、打ちひしがれる。

彼が鬼の家で苦しんだ日々を想像する。

彼の顔が、幻影として現れる。

その瞳は、私と同じように絶望に染まっていた。

彼に何が起こったのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。

彼の温もりを思い出せば思い出すほど、

この館の冷たさが、彼の身に何が起こったのかという恐怖が、

私の心を深く苛んだ。

彼もまたこの鬼の家で苦しみ、

そしてやがては自分と同じように鬼の血に染められてしまった。

冷たい床に横たわりながら、枯れるほど涙を流した。

目の奥がひりつく。

涙は、もう枯れ果てたはずなのに、止めどなく溢れた。

それは、血の涙のようだった。

心は、深い闇の底に沈み、希望の光は完全に消え去った。


守り札の温もりさえも、遠い幻のように感じられる。

それが蓮の苦しみを象徴しているかのようだった。

その時、耳元で、微かな声が聞こえた。

守り札から、蓮の声が聞こえた気がした。

「……さくら……」

それは、まるで風の囁き。

届きそうで、届かない。

その微かな声が、逆に桜を泣かせた。

蓮は、もうそこにはいない。

それでも、彼の声は、私の心に深く響く。

それが、最後の苦しみなのか。

私の存在も、もうすぐ消えてしまうのか。


遠くから、蛟が祭壇の準備を急ぐよう指示する声が聞こえる。

その声は、桜の心に最後の楔を打ち込んだ。

私の終焉が近い。

そして、この国の終焉もまた近いのだと、悟った。

体が、ひどく冷たくなった。

指先が、氷のように冷たい。

もう、抗う力は残されていない。

私はただ、意識の薄闇の中で、

蓮の面影を追い求めた。

彼の優しい声が、遠く、遠く、響く。

けれど、届かない。

深い闇が、私を完全に包み込んだ。

瞼の裏に、黒い渦が広がる。

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