第7話:闇の中の微かな光、最後の絆
儀式は続く。
桜の身体は徐々に鬼の血に馴染み始め、
清めの力は、深く、深く、深く、抑え込まれていく。
まるで、根を張る草が、硬い岩盤に押しつぶされるかのようだ。
全身の細胞一つ一つが、悲鳴を上げているのを感じた。
内臓が、軋むような痛みを訴える。
意識は朦朧とし、もはや現実と幻覚の区別がつかない。
肉体と精神が、激しく引き裂かれるような苦痛の中、
桜は自分がどこにいるのかさえ、分からなくなりそうだった。
頭の中は、重い霧に覆われている。
視界はゆらゆらと揺れ、定まらない。
目に映る全てが、血の色を帯び始める。
足元の祭壇の石は、脈打つかのように熱を持っていた。
その熱が、桜の足の裏からじわりと伝わってくる。
皮膚の表面には、黒い紋様が浮かび上がり、
まるで生き物のように蠢く。
その紋様は、桜の肌を侵食し、
やがては全身を覆い尽くすかのような
おぞましい広がりを見せていた。
爪の先まで、黒い色が染み渡るかのようだ。
喉は渇ききり、呼吸は浅い。
息を吸っても、肺の奥が、氷のように冷たい。
体が鉛のように重く、指先一つ、微かに動かすこともできない。
脈打つ心臓の音が、鼓膜の裏で響き渡る。
その音は、まるで自分のものではないかのようだ。
それは、遠くで鳴り響く、不吉な鐘の音のようだった。
まるで、水底深く、果てしなく沈んでいくかのようだった。
重い水圧が、全身を押しつぶし、意識を奪おうとする。
目の前が、さらに、さらに暗くなっていく。
耳の奥で、遠いひそひそ声が聞こえる。
それは、私を呼ぶ声のようでもあった。
だが、その声は、私を誘う闇の声。
体が冷えきり、震えが止まらない。
意識が途切れるたび、奈落に落ちる感覚に襲われた。
桜は深い闇の中を漂う。
どこまでも、どこまでも、どこまでも、落ちていく。
視界はぼやけ、色彩が失われていく。
音も遠い。祭壇の眷属たちの異様な唄が、
まるで遠いこだまのように聞こえる。
それは、私を嘲笑うかのようだった。
魂を貪り、存在を否定する声。
体は冷え切り、感覚が麻痺しそうになる。
痛みも、悲しみも、全てが遠のいていく。
このまま、闇に溶けてしまいたい。
そう、一瞬だけ、思ってしまった。
それが、どれほど楽なことだろうか。
闇が、甘く私を誘う。
けれど、その闇の奥で、蓮からもらった守り札が、
かすかな光を、強く、強く放っているのを感じる。
その光は、遠い記憶の中の温もりを
宿しているかのように、桜の心を揺さぶった。
それは、私の意識を闇から引き戻そうとする、
唯一の、最後の希望の光だった。
木彫りの守り札は、桜の指の中で、
微かに熱を帯びていた。
木肌のざらつき、その角が皮膚に食い込む感触。
その熱が、冷え切った桜の指先から、
全身へとじわりと、じわりと広がっていく。
まるで、体中に命の火が灯るかのようだ。
その光が、闇に囚われた桜の魂に、
一筋の希望を与えた。
守り札の光が、桜の心を覆う闇をわずかに退かせた。
蓮の優しい笑顔が、脳裏に鮮やかに、鮮明に浮かび上がる。
あの、屈託のない笑顔。
風に揺れる髪、澄んだ瞳。
あの時の彼の瞳は、どんな未来を見ていたのだろう。
私の隣に、いる未来を?
あの時、蓮が「大丈夫だよ、桜」と
優しく微笑んでくれた声が、
耳の奥で、はっきりと、まるで囁くように響いた。
その声は、桜の魂を強く、強く揺さぶった。
鼓膜の裏で、脈打つ音が響く。
それが、私の心臓の音なのか、蓮の鼓動なのか。
もはや、区別がつかないほどに、二人の心が重なる。
「蓮……」
桜は、声にならない呼び声を、心の中で、何度も、何度も繰り返した。
喉が渇いているのに、唾液さえ飲み込めない。
肺の奥から、乾いた空気が漏れる。
その蓮の幻影が、私の唯一の支えだった。
私は、ただその幻に手を伸ばす。
指先が、空を切る。
届かない。けれど、その幻が私を繋ぎ止める。
彼の存在が、私を諦めさせなかった。
蛟が桜の精神に直接語りかけてくる。
その声は、甘く、しかし底知れない闇を孕んでいた。
頭の中に直接響くような、不気味で粘つく声。
それは、桜の思考そのものを支配しようとするかのよう。
「お前は器となるのだ。我らの血を受け入れ、
この世を支配せよ。お前の清めの力は、
我らにとって最高の糧となる。
抗うな。諦めろ。それが、お前の運命だ。
お前のような清らかな魂こそ、最高の器。
この世の全てを支配する、新たな女王となれ。
お前の血は、この国の最後の呪いを解く鍵。
さあ、全てを差し出せ」
彼の言葉は、抗いがたい誘惑のように響いた。
それはまるで、鬼に完全に染まってしまった蓮が、
自分に語りかけているかのような錯覚さえ覚える。
桜は深い悲しみに囚われた。
「蓮も、こうして鬼の血に飲まれてしまったのか……。
私も、もうすぐ彼と同じ道を辿るのか」
その絶望的な思いが、桜の心を深く深く、苛んだ。
彼女の瞳は、ほとんど紅く染まりきっていた。
わずかに残された、人の光が、激しく点滅している。
消え入りそうな命の灯火。
全身に黒い紋様が広がり、皮膚の下を蠢く。
熱い、と冷たいが同時に押し寄せる。
体中が、針で刺されるように痛む。
桜は、辛うじて理性の糸を繋ぎ止めた。
内なる声で必死に拒絶する。
「私は、誰の器にもならない…!」
喉が引き攣り、言葉が途切れる。
「蓮も、私も、鬼の血になんて染まらない!」
肺が軋む。心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
全身の血が逆流する。
骨が軋むような痛みが走る。
この身が引き裂かれても、抗う。
その微かな抵抗が、蓮の守り札に宿る力と共鳴し、
奇跡の兆しとなる。
桜の体内を侵食していた鬼の血が、一瞬だけ、
その勢いを緩めたのが分かった。
まるで、体内で小さな、眩い光が生まれたかのようだ。
その光は、桜の清めの血と蓮の守り札の力が
呼応し合って生まれたものだった。
光は、桜の心を包み込むように広がる。
闇を、わずかに、しかし確かに押し返す。
祭壇の禍々しい光が、わずかに揺らぎを見せる。
祭壇の石壁に、微かな亀裂が走り始めた。
その亀裂からは、清らかな風が吹き出すかのような
冷気が漏れ出していた。
それは、鬼の家の力とは真逆の、清浄な気配。
蛟は、桜の予想外の抵抗に、初めて明確な驚きの表情を浮かべた。
彼の冷徹な顔に、わずかな動揺の色が滲む。
彼は桜をじっと見つめる。
その瞳の奥には、わずかな動揺が見て取れた。
蛟は桜の守り札に目を留める。
その古い木片が放つ微かな光に、訝しげな視線を向けた。
眉間に、深い皺が刻まれる。
彼の指が、わずかに震えているようだった。
桜の体から発せられる清めの力が、
微かに、しかし確実に強くなったのを彼は感じた。
蛟は、桜を見つめる彼の冷酷な視線の中で、
初めて、私に強い興味を抱いたようだった。
彼の口元が、わずかに歪む。
それは、理解不能な感情だった。
苦痛か、あるいは歓喜か。
私はただ、恐怖の中で呼吸を繰り返した。
この抗いが、どこまで通用するのか。
守り札の温もりが、私の唯一の希望だった。
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