第9話:終焉への序曲、最後の儀式
鬼の家は、桜が完全に器となったと判断した。
いよいよこの国全体を完全に支配下に置くための
最終儀式、「呪縛の楔」を完成させる準備を始める。
都の空は、この数日間、常に重く不吉な雲に覆われ、
太陽の光は完全に隠された。
昼間でも、まるで薄闇に包まれているかのようだ。
街の活気は完全に失われ、人々の顔からは笑顔が消え失せていた。
彼らの瞳は、どこか虚ろで、諦めが宿る。
遠くから聞こえる人々の話し声は、ひそひそと小さく、
まるで、死者の囁きのように聞こえた。
地底深くから響く、不気味な太鼓の音が、
都全体に不穏な空気を撒き散らす。
それは、終焉の序曲のようだった。
魂を削るような、重い響きだった。
心臓が脈打つたび、体が震える。
その振動が背骨を伝い、足の指先まで冷たくなる。
全身の血が、逆流するような錯覚に陥った。
桜の体に、新たな黒い紋様が浮かび上がり始める。
それは、皮膚の下を蠢くかのように脈打ち、
桜の清めの血を貪る。
その痛みは、全身を駆け巡った。
まるで、体内で蛇が這い回るかのようだ。
喉の奥がひりつく。呼吸が浅い。
吸っても肺まで届かない気がした。
指先まで、痺れるような痛みが走る。
頭の中は、重い鉛が詰まったようだった。
桜は、もはや抵抗する気力もなく、
魂の抜けた人形のように、最終儀式のために再び
祭壇へと連行される。
足が、鉛のように重い。
草履の底から、冷たい湿気が這い上がる。
そのひんやりとした感触が、足の指先まで伝わる。
その一歩一歩が、国と彼女自身の終焉へと向かうかのように感じられた。
祭壇へ続く道には、お菊のような、
諦めの表情を浮かべた使用人たちが並んでいた。
彼女たちの顔は、どこかやつれており、
鬼の支配が彼ら自身をも蝕んでいることがうかがえた。
彼らの目にも、僅かな絶望が浮かんでいた。
しかし、誰も口を開かない。沈黙が、重くのしかかる。
屋敷の壁には、薄く裂け目が走る。
そこから冷たい空気が滲み出すようだった。
祭壇の中央には、これまで見たこともないほど
禍々しい輝きを放つ巨大な「呪縛の楔」が鎮座していた。
それは、まるで黒い太陽。
この国の生命力そのものを吸い取り、
鬼の家に捧げるための、恐ろしい儀式の中枢だった。
楔からは、黒い瘴気が噴き出し、祭壇全体を覆っている。
その瘴気は、桜の肌を刺すように冷たく、
呼吸するたびに喉が焼けるようだった。
肺の奥が、氷のように冷たくなる。
腐った木の匂いと、粘つく血の匂いが混じり、
吐き気がこみ上げる。
祭壇の石は、ひどく冷たい。
血の染みがどう広がり、どう乾いて、どう光っているか。
その全てが、桜の視界に鮮明に映る。
照明の火は微かに揺れ、影が壁を這った。
その影が、まるで鬼が踊っているかのようだ。
蛟が祭壇に立ち、満面の笑みを浮かべて、
高らかに祝詞を上げ始める。
彼の顔は、歓喜に歪んでいた。
その声は、地底から響く呪詛のよう。
頭の奥に直接響き、桜の思考を乱す。
彼の周りでは、鬼の眷属たちが歓喜の声を上げ、
その場は狂気と歓喜に包まれていた。
その声は、地獄の業火のように桜の心を焼き尽くした。
祭壇の石壁には、血の染みがさらに濃く浮かび上がり、
まるで生きた血を吸っているかのようだった。
石の表面が、ぬるりと光る。
桜の身体は、抗う術もなく、
呪縛の楔へと引き寄せられていく。
まるで、見えない糸に操られる人形のように。
清めの力が、完全に鬼の血に吸収され、
歪められようとしていた。
体中の血が、逆流する。
骨が軋む音が、耳の奥で響く。
全身の脈が、嫌な音を立てて跳ねる。
蛟の勝利を確信するような邪悪な笑みが、祭壇に満ちる。
もう、誰も止められない。
この国は、永遠に鬼の家のものとなる……。
絶望が、桜の全身を包み込んだ。
内面で、自問自答が繰り返される。
どうしてこんな目に遭うの?
蓮はどこにいるの?
もしかして、もうこの世にいないの?
……いや、違う。蓮は生きている。
そうじゃなければ、私はきっと、
こんなにも蓮の面影を追いはしない。
私は必死に自分にそう言い聞かせた。
だが、その声は、弱々しく、消え入りそうだった。
意識の最後の断片で、桜は蓮の守り札を、
最後の砦として強く握りしめたまま、
かすかに残された意識の中で、彼の顔を思い描こうとした。
しかし、その顔さえも、闇に溶けていくようだった。
守り札も、鬼の穢れに侵食され、黒く染まり始めていた。
木彫りの角が皮膚に食い込み、微かなささくれが指に引っかかる。
その痛みさえも、私を現実に繋ぎ止める。
守り札から、蓮の声が聞こえた気がした。
「……さくら……」
それは、まるで風の囁き。
届きそうで、届かない。
その微かな声が、逆に桜を泣かせた。
蓮は、もうそこにはいない。
それでも、彼の声は、私の心に深く響く。
それが、最後の苦しみなのか。
蓮の幻影が、私の目の前に現れる。
小さく、怯えた蓮が、柱の陰からこちらを見ていた。
「大丈夫だよ、桜」
その声が頭の奥で木霊した。
けれど次の瞬間、彼の口元から黒い血が溢れた。
私は叫びそうになり、声が出なかった。
幻影が、目の前で崩れ落ちる。
どうして私は、まだこんな幻想を見てしまう?
この壊れていく精神が、私を狂わせる。
桜の魂は、闇の淵へと引きずり込まれていった。
全身を覆う黒い紋様が、脈打つ。
もはや、人の形を保てないかのようだった。
このまま、私自身も闇に溶けてしまうのか。
私の存在が、かき消されようとしていた。
意識が、ゆっくりと遠ざかっていく。
感覚が、一つ、また一つと失われる。
呼吸が止まりそうになる。
脈拍が、微かに、そして不規則に跳ねる。
視界が、完全に闇に染まる。
それは、永劫の眠りへの誘い。
もう、何も感じない。
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