第6話:血の饗宴、魂の浸食

儀式が始まった。

祭壇の周囲に並んだ鬼の家の眷属たちが、

低く、しかし不気味に響く異様な唄を唱え始める。

その声は、桜の精神を直接揺さぶるようで、

頭が締め付けられるような痛みが走った。

耳の奥で、金属が擦れるような、甲高い音が響く。

それは、古びた錆が擦れ合うような音。

鼓膜の裏で、何かが脈打つ。

心臓が、恐怖で喉までせり上がってくるかのようだ。


祭壇の床は、黒く変色した石でできていた。

表面には血が染み込んだような筋が、無数に走っている。

その筋は、まるで生きた血管のように、かすかに脈打つ。

時折、その筋から、ねっとりとした液体が

じわりと滲み出すのが見えた。

足元の石の温度はひどく冷たく、肌に張り付くようだった。

ひんやりとした感触が、草履の底から足の裏へ、

そして全身へと這い上がる。

膝の震えが止まらない。

どこからか、微かな滴る音が聞こえる。

それは、血が流れ落ちる音のようにも思えた。

あるいは、誰かの涙が滴る音か。

祭壇全体が、生きた臓器のように蠢いているかのようだ。

薄暗い照明が、その全てを不気味に照らし出す。


祭壇の中心に、桜は立たされた。

桜の肌には、次第に紅い紋様が浮かび上がり、

まるで血管が浮き出たかのように、全身に広がっていく。

肌の表面が、熱を帯びる。内側から焼かれるような熱。

身体の内側から冷たさが広がる。

その冷たさと熱さが、体内で激しく衝突する。

祭壇の空気は重く、呼吸をするたびに、

肺腑まで穢れていくような感覚に襲われる。

桜の視界が、歪み始める。

目の前が霞み、輪郭が揺れる。

遠くの眷属たちの姿が、ぼやけて見えた。

彼らは、まるで闇の中から生まれた影のようだ。

喉がひりつき、うまく息が吸えない。

吸っても、肺の奥まで届かない気がした。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

鼓膜の裏で、ずっとごうごうと音がしている。


蛟が、祭壇の中央に置かれた盃に、

自身の血を混ぜた酒を静かに注ぎ込む。

盃の表面には、古く乾いた血がこびりついている。

その液体は、どろりと粘性を帯びているかのよう。

盃から立ち上る瘴気は、桜の意識を朦朧とさせた。

鼻を突く血の匂いが、一層強くなる。

喉の奥に、粘つくような甘さが張り付く。

それは、まるで腐敗した果実のようでもあり、

同時に、死の甘い誘惑のようでもあった。

その匂いが、桜の胃の腑を直接掴む。

吐き気がせり上がってくる。


「これを飲めば、お前は我らと一つになる。

抗うな、贄の花嫁よ」


蛟は冷徹な声で告げた。

その声は、頭の奥に直接響くかのよう。

氷のように冷たい視線が、桜の目を射抜く。

目に見えない力によって桜の身体は縛りつけられ、

口元へと盃が運ばれてくる。

盃の表面は、ひんやりと冷たい。

その冷たさが、唇に触れた瞬間に、桜の意識を

さらに深く、闇へと引きずり込もうとする。

その酒は、生温かく、鉄の匂いがした。

桜は激しく拒絶し、顔を背けようとするが、

身体は微動だにせず、まるで自らの意志を失った人形のようだった。

喉が渇ききっているにも関わらず、

その液体を飲み込むことを拒絶した。

唇が、固く、固く引き結ばれる。

体中の血が、脈打つたびに、逆流するかのようだ。

体の奥底で、何かが悲鳴を上げている。

それが私自身の魂だと分かった。


桜は激しく拒絶し、全身で抗おうとする。

しかし、身体は動かない。

心臓が、ひどく脈打つ。

その鼓動が、骨を突き刺すような痛みとなって、

全身に伝播する。

指先がかすかに痺れ、冷たい汗がにじむ。

脇腹を、冷たい刃が掠めたような感覚。

意識が遠のき、もう抗えないと悟った時、

脳裏に、かつて蓮が「お前を守る」と約束してくれた時の笑顔が、

走馬灯のように鮮明に蘇った。

あの夏の日、蝉の声にかき消されそうな声で

小さく「大丈夫だ」と言ってくれた。

私は、あの声を、あのときのぬるい風を、

どうして今もこんなに覚えているのだろう。

あの蓮が、今、ここにいてくれたなら。

きっと、私を救ってくれるだろうに。

その記憶だけが、私を人として繋ぎ止める。


もし、あの時蓮がそばにいてくれたなら。

こんなことにはならなかったのに。

もし、彼がこの鬼の家で同じような儀式を受け、

そして既に鬼の血に染められてしまったのだとしたら……。

その想像が、桜の心を深く苛んだ。

絶望の淵で、桜は声にならない叫びを上げた。

喉から、何か熱いものがせり上がる。

それが恐怖?それとも絶望?

自分でも分からなくなる。

その叫びは、祭壇の異様な唄にかき消されていく。

彼女の心臓は、恐怖と悲しみで激しく脈打っていた。

全身の血が凍り付くようだ。

私はただ、恐怖の中で、浅い呼吸を繰り返した。

吐く息も、冷たかった。

肺の奥に、重い空気が溜まっていく。


盃の中の血が、桜の喉を無理やり通り過ぎる。

粘つく感触が、食道を這い上がってくる。

それは、まるで冷たい蛇が体内を這うかのようだ。

身体の内側から鬼の血が激しく侵食し始め、

激しい吐き気と全身の震えに襲われる。

清めの血が、鬼の血に汚されていくのが分かる。

体内の熱が、どんどん奪われる。

桜の瞳は、鬼の血の色である紅い光を宿し始め、

その視界は歪み、闇に包まれようとしていた。

視界の端が、黒いインクが滲むように、黒く滲んでいく。

意識が、まるで細い糸のように切れかかっている。

意識の最後の断片で、桜は蓮の守り札を、

さらに強く、強く握りしめた。

木彫りの角が皮膚に食い込み、微かなささくれが指に引っかかる。

その痛みさえも、私を現実に繋ぎ止める。

守り札の木目が、指先に食い込むのを感じた。


その守り札が、最後の砦のように桜の意識を辛うじて繋ぎ止めていた。

守り札からは、微かな蓮の温もりが伝わり、

闇に飲まれゆく桜の魂を必死に引き留めているかのようだった。

しかし、その温もりさえも、薄れていくように感じられた。

桜の存在が、かき消されようとしていた。

祭壇の柱の陰に、幼い蓮が怯えた瞳で

こちらを見ていた気がした——。

彼の顔は、影に覆われ、はっきりと見えない。

それは幻だった。

けれど、桜の心に、最後の光を灯した。

私は、まだ終わっていない。

まだ、諦めてはいけない。

守り札が、もう一度強く輝いた気がした。

それは、蓮からの、遠い、しかし確かな呼びかけのように感じられた。

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