第5話:儀式への誘い、思い出の温もり
最初の儀式に向けた準備が始まった。
屋敷全体が、これまで以上に重苦しく、
そして禍々しい空気に包まれていく。
まるで屋敷が、生き物のように蠢いているようだ。
壁から染み出すような、粘つく湿気が肌にまとわりつく。
祭壇へと続く廊下には、不気味な文様が
血のような色で描かれている。
その絵からは、かすかに鉄の匂いが漂う。
喉の奥に、張り付くような甘さがこみ上げる。
それは、古く乾いた血の匂いだった。
奇妙な音が、地下から響いてきた。
太鼓のようでもあり、何かを叩く音のようでもあり、
桜の心臓を直接叩くかのよう。
それはまるで、地獄への道標のようだった。
桜は豪華な白無垢を纏わされる。
その純白が、自身の身に迫る穢れを
一層際立たせているようで、吐き気がした。
体が粟立ち、鳥肌が立つ。全身の毛穴が開くかのようだ。
付き添いの女中たちが、無表情で私の髪を梳く。
その指は冷たく、そして妙に細く、硬かった。
櫛が髪を通るたび、頭皮が引っ張られる。
鏡越しの彼女たちの視線は、感情がない。
まるで私を既に、死んだ花嫁と見定めているようだ。
身体を清めるための不思議な香が焚かれる。
その香りは、桜の精神を研ぎ澄ませるどころか、
妙な倦怠感と不安を誘う。
意識が、薄れていくようだ。
体中に、だるさが広がる。
喉が細くなる。息が足りない。
肺の奥に、冷たいものが溜まるような感覚がした。
儀式への恐怖に苛まれる。
もう逃げられない。
そう、諦めそうになる。
心臓が鉛のように重い。
鼓膜の裏で、ずっとごうごうと音がしている。
その音は、嵐の前の海のようだ。
体中の血が凍り付く。
けれど、肌身離さず持っていた蓮からもらった守り札が、
じんわりと、そして確かに温かさを放ち始めた。
その微かな温もりが、冷え切った桜の心に、
幼い頃の蓮との穏やかな日々を鮮明に蘇らせる。
それは、数少ない心の安らぎであり、
同時に、彼がこの地で苦しんでいるかもしれないという
絶望を一層深くする。
呼吸が浅い。喉がひりつく。
蓮と二人で秘密の場所で遊んだこと。
小川のせせらぎ、風の匂い。
あの時の蓮の声は、少しかすれていた気がする。
夏の強い陽射しの中、彼が笑った時、
彼の瞳は何を映していたのだろう。
澄んだ水面?それとも、未来の私?
蓮がくれた小さな花。
その花びらは、朝露に濡れて輝いていた。
肌寒かった秋の夜、初めて手をつないだ時の温もり。
彼の小さな指が、私の指を優しく包み込んだ。
手のひらの感触が、まだ鮮明に思い出せる。
その記憶が、桜の心を支える唯一の光だった。
回想を重ねるごとに、桜の心に蓮への深く、
純粋な想いが募る。
しかし、同時に、彼がこの鬼の家に囚われ、
同じように苦しみ、あるいは既に鬼の血に
染められてしまったのではないかという
絶望的な想像が、桜の心を深く苛んだ。
胸が、ちくりと痛んだ。
その痛みは、肋骨の裏側まで響き渡る。
すると肩がわずかに震え、
その振動が背骨を伝い、足の指先まで冷たくなった。
蓮は今、どこにいるの?
もしかして、もうこの世にいないの?
私と同じように、苦しんで、
やがては消えてしまうのか。
自問自答が、頭の中でぐるぐる回る。
その問いの答えは、闇の中。
守り札を握りしめれば握りしめるほど、
蓮がこの屋敷のどこかで、かつて自分が見た幻覚のように、
怯えながら囚われているのではないかという疑念が膨らんだ。
その思いが、桜の心に、最後の抗う力を与えた。
たとえ、彼が鬼の血に染まっていたとしても、
私は彼を救いたい。
そんな、これまでの諦めからは想像できないような、
強い想いが桜の中に芽生え始めていた。
それは、彼女の「清めの血」が、
蓮への愛によって覚醒し始めているかのようだった。
体中を、微かな熱が巡る。
儀式の祭壇へと連行される。
足元に引かれた布の感触は、ひどく冷たかった。
輿に乗せられた私は、まるで飾り付けられた生贄。
外からは、人々の声が微かに聞こえる。
安堵したような吐息。それが私を刺す。
私が、都の平和を買うための代償だと、
誰もが分かっているから。
祭壇は、屋敷の地下深くにあった。
これまで以上に血の匂いが充満し、鼻腔を焼く。
鼻を突く鉄臭さ、喉の奥に張り付く甘さ。
禍々しい呪物が不気味に並べられていた。
それらは、まるで歪んだ生き物のように見える。
祭壇の中央には、見たこともない異様な光を放つ盃が置かれている。
その光は、桜の瞳を深く吸い込んだ。
盃の表面には、古い血がこびりついているようだった。
蛟は、その盃を静かに見つめながら、
桜の到着を待っていた。
彼の顔には、微かな高揚感が浮かんでいるように見えた。
桜は、彼が蓮を犠牲にしてきたのではないかという疑念に、
心臓が締め付けられる思いがした。
蛟の目が、一瞬だけ私の心臓を握るようだった。
骨を突き刺すような、内臓を掴むような感覚がした。
血が逆流しそうになり、喉が引き攣る。
恐怖で呼吸が浅くなる。
しかし、彼の瞳の奥に一瞬だけ揺らめく光が見えた。
それは、憎しみや冷酷さだけではなかった。
複雑な感情を抱く。
彼は本当に純粋な悪なのだろうか?
彼の完璧な冷酷さの裏に、別の顔があるのか。
桜の心に、僅かながら迷いが生まれた。
祭壇の不気味な太鼓の音が、桜の心の迷いを掻き乱す。
私を呼ぶ、蓮の声が遠くで聞こえた気がした。
けれど、それは幻だった。
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