第十一章 八木蓮の話、七草ヒカリの答え

 昼休み、渡り廊下。


 僕はひとり、ジュースの缶を手にしていた。

 手は冷たいのに、胸の内側は熱かった。


 そんなときだった。


「七草のこと、まだ気にしてんの?」


 声をかけてきたのは、八木だった。


 無愛想で口数の少ないやつ。

 でも、なぜかいつもヒカリの近くにいた男。


「……なんで、それを」


「見りゃわかるだろ。あのとき、駅の近くにいたのお前だろ?」


「っ……」


 見られていた。

 あのとき、ヒカリと手を繋いでいた姿を。


「別に、責める気はないよ。世界が終わるってんなら、そりゃ何でもしたくなるだろ」


 八木の声は淡々としていた。

 でもその目だけが、少し鋭かった。


「じゃあ……、あのとき、ヒカリのこと……」


 聞きかけた言葉を、八木が遮った。


「行かなかったよ」


「……え?」


「七草に、呼ばれてもないしな。連絡もしてない。それどころか、あの日は一人でゲームしてた。世界が終わるかもなんて、どこかで嘘だと思ってたから」


 言葉が出なかった。


 ヒカリがずっと好きだったと噂されていた八木は、

 そのに、

 彼女を探しもしなかった。


「でも、次の日、普通に学校で七草見てさ。なんか、ホッとしたんだよ。……俺、ずるいな」


 八木は缶コーヒーを飲み干して、ため息をついた。


「七草も、ずるいよ。あいつ、自分からは何も言わないくせに、全部、ちゃんと見てるから」


 ◆


 僕の中で、何かが崩れた音がした。


 ヒカリは、

 あのとき、誰にも期待していなかった。


 八木にも。僕にも。


 でも彼女は、僕に手を伸ばした。

 それは、愛でも情でもなく——

 ただ、自分が「最後に誰かといたい」と思ったから。


 僕は、

 たまたまだっただけ。


 教室の窓から、ヒカリの背中が見えた。


 いつもの席。

 友達と笑っている。

 自然な、何の変哲もない日常。


 その中に彼女はいて、

 僕はもう、その風景の一部じゃない。


 あの夜、世界が終わると信じていた僕と、

 どこかで「終わらない」と知っていたヒカリ。


 二人の間にあったのは、

 感情の共有じゃなかった。


 温度差だった。


 ◆


 あの日、踏切の前で彼女が泣いたのは、

 絶望からじゃない。

 誰にも会えないと決めて、

 それでも誰かが来た——

 そのに戸惑ったからだ。


 そして僕は、

 そこに希望を見てしまった。


 違う。

 彼女は僕を選んだんじゃない。

 僕が勝手に、と思い込んだだけだった。


 ヒカリは、自分を守るために手を伸ばした。

 それを僕は、永遠に変換してしまった。


 その錯覚が、

 今の僕を壊していく。


 ◆


 午後の授業が終わるころ、

 僕はようやくスマホを開いて、ヒカリとのトーク履歴を開いた。


 八木の言葉が脳裏にこびりついて離れない。


「七草も、ずるいよ。自分からは何も言わないくせに、全部、ちゃんと見てるから」


 彼女は、ずっと僕の想いに気づいていたのかもしれない。


 でも——

 気づいていたからこそ、言葉にしなかった。


 それが、彼女の優しさであり、

 最大の拒絶だった。


 下校時刻。

 人の波が薄れていく昇降口で、

 ヒカリはある本を落とした。


 小さな音がして、

 誰もが通り過ぎていく中で、

 僕だけが立ち止まった。


 拾って、手渡す。

『星と終末について』という薄い科学エッセイ。


「……ありがとう」


 それだけだった。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 それだけで済ませようとする声だった。


 けれど僕は、どうしても一言だけ聞きたかった。


「ヒカリ。あの夜のこと——」


 彼女の手が止まった。

 靴ひもを結び直すふりのまま、少しうつむく。


 そして、小さく答えた。


「……覚えてるよ。全部」


 その声に、微笑みすらなかった。

 ただ、事実を置くだけのトーンだった。


「後悔してる?」


 ヒカリは少しだけ、顔を上げた。


「ううん。

 あれが、私なりの最後だったから」


 最後。

 そう言った彼女は、

 まるで既に、もう終わった物語の外に立っているようだった。


「でも……」


 僕が言いかけた言葉は、

 彼女の視線で止まった。


「蒼汰くん。ありがとうね。来てくれて」


 それはまるで、

 知らない誰かが親切にしてくれたみたいな、

 そんな距離の言葉だった。


 ◆


 その後ろ姿が、

 どんどん小さくなっていく。


 もう、振り返らない。

 もう、こっちを見ない。


 僕の中でずっと続いていた夜は、

 今——

 ようやく終わったのかもしれない。


 でもそれは、

 世界の終わりじゃなかった。


 僕一人だけが、終わったんだ。



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