第七章 18:52 ― そして、何も起こらなかった
——18:52。
その時刻を、何度も心の中で繰り返していた。
あらゆる警報、通知、放送、SNSの投稿が指し示した、
世界の終わりのタイムスタンプ。
僕たちは、ただ黙って、踏切に立っていた。
空は異様な白さで染まっていて、
風は止まり、音のない瞬間が訪れていた。
何も聞こえない。
何も動かない。
まるで時間そのものが、呼吸を止めていた。
ヒカリの手が、少しだけ強く握り返してくる。
僕は、彼女の横顔を見た。
目を閉じていた。
泣いていなかった。
でも、どこか覚悟を決めた人の顔をしていた。
このまま終われたらいい——
本気で、そう思っていた。
手の温もりも、最後の言葉も、
ちゃんとこの場所に残して終われるなら、
きっとそれは奇跡みたいな死に方だった。
そして——
「……っ!」
遠くで、爆音でも落雷でもない、
何かが破裂するような音が聞こえた気がした。
僕たちは、ぎゅっと目を閉じる。
…………
………………
……………………。
——何も起こらなかった。
◆
数秒経っても、何も変わらなかった。
空は相変わらず不気味に白く、
でも地面は揺れず、音もなく、
何より僕たちは、まだ生きていた。
ゆっくりと、ヒカリが目を開いた。
「……今、何時?」
僕はスマホを取り出し、画面を確認する。
18:53
たしかに、一分過ぎていた。
それでも世界は、壊れていなかった。
空も落ちてこないし、光も焼き尽くさない。
「……ウソ、でしょ」
ヒカリの声が、震えていた。
「だって……だって……みんな……」
彼女の言葉が途中で切れた。
そして、震える手で自分の口を押さえた。
涙が、こぼれた。
静かに、ぽろぽろと。
世界が終わるはずだった時間に、
「終わらなかった現実」が押し寄せてきた。
僕も、息を呑んだまま動けなかった。
ただ、空を見上げて思った。
——これは、救いなんかじゃない。
——これは、残酷な延命だ。
ヒカリは、踏切の線路にしゃがみ込んで泣いていた。
泣き叫ぶでもなく、
耐えられなくて崩れるでもなく、
ただ静かに、嗚咽を殺しながら泣いていた。
「……大丈夫?」
僕は隣にしゃがんで、
そっと声をかけた。
ヒカリは顔を伏せたまま、首を横に振った。
「……終わってほしかったわけじゃないの。
ただ……ただ、あんなに覚悟したのに、
何も変わらないなんて……そんなの、ずるいよ……」
その気持ちが痛いほどわかった。
終わると思ったから言えた言葉。
壊れると思ったから許された嘘。
でも今、
世界は壊れていない。
壊れていない世界に戻った以上、
この気持ちはどこへ置けばいいんだろう。
「ヒカリ、立てる?」
しばらくして、
ヒカリはゆっくりと立ち上がった。
目元は涙で濡れていたけど、
表情はもう泣いていなかった。
その顔は、
さっきまでの終末のヒカリじゃない。
少しずつ、
「日常のヒカリ」が戻りつつあるのが、
わかってしまった。
「……ごめんね、こんなとこまで連れ出して」
「俺の方こそ……急に告白して、
あんなキスまでして……」
言いながら、自分の声に後悔が滲む。
ヒカリは少しだけ笑って、
でもその目は真剣だった。
「蒼汰くん。……私ね、今はまだ答え出せないかもしれない」
「……うん」
「昨日までの私だったら、絶対言えなかったと思う。
でも、あのときは本当に……死ぬって思ったから」
彼女の声は静かで、優しかった。
でも、それはごめんの前置きに聞こえた。
「それでも、あの時間は宝物だったよ。
私にとっては、本当だったから」
それを聞いて、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
でも同時に、
それ以上は、踏み込めない壁のようにも感じた。
ヒカリはスマホを取り出して、
時刻を確認した。
「……帰らなきゃ。家、心配してると思うし」
「そっか……」
彼女は、一歩だけ僕に近づいて、
ほんの少しだけ体を傾けた。
「また学校で、ね」
それは、あまりにも日常的な言葉だった。
「終わりのあと」にかけられた、最初の嘘のような。
ヒカリが歩き出し、
夕闇の中に吸い込まれるように、姿が小さくなっていく。
僕は、その背中をずっと見送っていた。
世界は終わらなかった。
でも、その直後に始まったこの現実の中で——
「僕たちのあの一日」だけが、宙ぶらりんのまま残されていた。
次の日の朝、
僕はいつも通りに制服を着て、
いつも通りの時間に家を出た。
道を歩く人々の顔は、
昨日と同じようで、どこか違っていた。
みんな知っていた。
昨日、本当に世界が終わるかもしれなかったこと。
でも、誰もその話をしようとはしなかった。
まるで——
「あれはなかったこと」にすることで、
今日を生き延びようとしているみたいだった。
◆
校門の前で、ヒカリの姿を見つけた。
彼女も、制服を着て、
友達と談笑しながら歩いていた。
一瞬だけ、目が合った。
でも——彼女は、
何もなかったように目を逸らした。
それだけで、
胸の奥がズキンと音を立てた。
「おはよー!」
「お、蒼汰〜昨日大丈夫だったか?」
声をかけてくるクラスメイトたちの中に、
あの夜のことを話すやつはいなかった。
誰も触れない。
誰も確認しない。
何も壊れなかったからこそ、
壊れかけた何かはそっと葬られる。
授業が始まり、
黒板に数式が並び、
鉛筆の音が響く教室。
その中で、
僕だけが時間の外に取り残されていた。
◆
昼休み、窓際の席に座って、
ぼんやりと空を見ていた。
雲はゆっくり流れている。
昨日と同じ空。
でも、僕の中だけが昨日に取り残されていた。
スマホを開く。
ヒカリとのトーク画面。
「無事だった?」
それだけ、送ってみた。
既読はつかない。
机にスマホを伏せ、
目を閉じた。
思い出そうとすればするほど、
昨夜のあの光と、温もりと、涙が
手のひらからこぼれ落ちていく。
あれは、確かにあった。
でも、誰も証明してくれない。
次の授業のチャイムが鳴る。
その音が、僕の中で
あのときの終わりを告げる鐘のように響いた。
もう、
誰もその話をしないまま、
世界は何事もなかったように、動き続ける。
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