第六章 ヒカリは光よりも遅くて、僕の鼓動よりも近かった

 世界が、静かだった。


 誰も騒がない。

 誰も叫ばない。

 爆発も崩壊もない。

 ただ、夕暮れが少しずつ夜に変わっていく音だけが、

 僕たちを包んでいた。


 ヒカリの唇が離れたあと、

 二人ともすぐには何も言えなかった。


 目を逸らさずに、

 でも言葉を交わさずに、

 ただ、互いの呼吸の存在だけを確認し合っていた。


「……ねえ、」


 ヒカリが、そっと口を開く。


「蒼汰くん、手、貸して」


 差し出された指先に、

 僕は迷わず自分の手を重ねた。


 前よりあたたかかった。

 震えていたのは、彼女の手か、僕の手か、わからなかった。


 ヒカリはゆっくりと立ち上がり、

 僕を見下ろしながら、小さく笑った。


「歩こっか。……どこでもいいから、世界が終わるまで、どこか一緒に」


 その言葉が、

 一瞬、永遠に思えた。


 ◆


 17:34。

 夕日が、ビルの隙間に落ちていく。


 ふたり並んで歩く。

 繋いだ手は離さない。

 もう誰が見ていようと関係なかった。


 街は、すこしずつ止まり始めていた。

 閉まっていくシャッター。

 自宅に急ぐ足音。

 どこかで鳴る車のクラクション。


 でもそのどれもが、僕たちには遠く感じられた。


「ねえ、覚えてる? 中三の冬、雪が降った日」


 不意に、ヒカリが言った。


「……踏切のとこ?」


「うん。蒼汰くん、コンビニの肉まん買ってきてくれてさ。

 私、手袋忘れてたのに、自分のマフラー貸してくれて……」


「覚えてるよ。

 あの日、お前、指先真っ赤でさ。

 泣きそうな顔して『冷たすぎて無理!』って言ってた」


「言ってないし……」


「言ったかも……」


 ふたりで笑った。


 笑いながら、

 どこか泣きそうにもなっていた。


 このまま、ずっと歩いていたかった。


 でも時計は、確実に進んでいた。


 残り——およそ一時間十八分。


 世界が終わる時間が近づくたびに、

 彼女の指先が、少しずつ強く僕の手を握ってきた。


 まるで、

 何かを確かめるように。


「ねえ、蒼汰くんってさ……どうして、

 今日まで何も言ってこなかったの?」


 歩道の白線を踏みながら、ヒカリがぽつりと聞いた。


 僕は、すぐには答えられなかった。

 信号が点滅し始めていたが、僕たちは急がなかった。


「怖かったんだと思う」

「何が?」


「……全部。

 言ったら壊れるかもしれないって思ってた。

 今の関係も、自分の中の気持ちも。

 それに、お前には八木がいたし……」


「うん。いたよ」


 ヒカリの言葉は、思ったより軽かった。

 でもその軽さが、逆に深く響いた。


「でもね、蒼汰くん。いたって言っても、あの人がことは変わらないよ」


 彼女は立ち止まり、

 信号の赤が目に映る位置で、僕の方を向いた。


「私ね、思ってた。蓮が来てくれたら、すごく安心できるだろうなって。でも、連絡も来なかったし、会いにも来なかった」


「……そっか」


「それで気づいたの。

 安心したいって気持ちと、

 本当に一緒にいたいって気持ちは、別なんだなって」


 ヒカリの声が、少しだけ震えていた。

 夕陽が消えかけて、街の色が灰色に染まり始めていた。


 ◆


 ふたたび歩き出す。


 もう目的地なんてなかった。

 この時間は、どこかに着くためのものじゃない。

 終わる世界の中で、始まってしまった何かを

 どう終わらせればいいのかわからないまま過ごす時間。


「……正直ね」

 ヒカリがまた口を開いた。


「私、蓮のこと、ずっとだと思ってた。

 家族にも評判いいし、喧嘩もしないし、

 私が困ってるとき、いつも静かに手を差し伸べてくれる人だった」


「うん……そう見えた」


「でも、最後に私が欲しかったのは、じゃなかった」


 その一言に、僕は足を止めた。


 ヒカリは笑った。

 でも、その笑顔はどこか哀しかった。


「たぶん、間違ってるんだろうな、私。

 蒼汰くんの告白、受け取っていいわけないのに」


「……それでも、受け取ってくれたんだろ?」


「うん。だって、

 世界が終わるなら、間違ってるくらいでちょうどいいって、

 思ったんだもん」


 その言葉に、僕の喉が詰まった。


 世界が終わるからこそ選ばれた僕。

 終わらなければ、本来は交わらなかった気持ち。


 それでも、

 それでも、僕は——


「……ありがとう。受け取ってくれて」


 そう言った僕の声が、

 どこか遠くの空に吸い込まれていくような気がした。


 17:58。


 街の空気が、変わった。


 それまで緩やかに流れていた日常の終末が、

 突然、緊急性を取り戻すように、

 音と光を連れて迫ってきた。


 遠くでサイレンが鳴った。

 消防車の赤色灯が交差点を抜け、

 空には、低空飛行のドローンが複数旋回していた。


「18時52分に予測されるGRB照射に伴い、避難を——」

 拡声器の音が、風に混ざって届く。


 ヒカリが、僕の腕にすがるようにしがみついた。


「……やっぱり、ほんとに終わるのかな」


 その声は震えていて、

 彼女の体温がじわりと肌に伝わってくる。


 僕は黙って、彼女の背中を支えた。


「終わるかもしれない」

「……うん」

「でも、今こうしてる時間は、嘘じゃないよな」


 ヒカリは顔を上げた。

 頬に涙の跡。

 でも、微笑んでいた。


「ねえ、最後に、どこにいたい?」


 彼女の問いに、

 少し考えて、答えた。


「……踏切。あの冬、初めて手を繋いだ場所」


 ヒカリは、少しだけ驚いた顔をして、

 すぐに頷いた。


「うん。そこがいい。思い出せる場所がいい」


 ◆


 18:11。

 僕たちは、あの踏切にいた。


 列車はもう通らない。

 警報も止まっていた。


 遮断機の棒が、風に揺れていた。


 ふたりで並んで、線路を眺める。


 ヒカリは、両手を後ろで組み、そっと言った。


「光って、秒速30万キロなんだって。

 それでも、心に届くまでには、すごく時間がかかるよね」


「……何の話?」


「ううん、なんとなく」


 沈黙。


 でもそれは、心地よいものだった。


 そのとき、

 彼女が僕の名を呼んだ。


「蒼汰くん」


「……なに」


「ねえ、もし生まれ変われるならさ、

今度は最初から、ちゃんと手、繋いでよね」


僕は息を呑んだ。

何かを返そうとして——


その瞬間、

空が、割れた。


ゴゴゴ……という地鳴りのような音とともに、

雲が一方向に引き裂かれ、

夜よりも暗く、光よりも白い何かが、

空の端からじわりと広がってきた。


人々の悲鳴が、どこかで上がった。


でも、僕たちは、

ただ手を繋いで、そこに立っていた。


カウントダウンは、もうすぐ終わる。


ヒカリの手は、

あの冬と同じように冷たくて、

でも今は、ちゃんと離さずにいられた。


——このまま終わればよかったのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る